第7話
朝。
夜の名残をわずかに引きずった空気の中、
村はまだ目覚めきっていなかった。
その静けさを縫うように、レメリィは歩いていた。
両手に抱えた鍋から、じんわりとした熱が伝わる。
中にはスープ。昨夜のうちに仕込み、
夜明けを待って持ち出してきたものだ。
向かう先は、村外れの一軒の家。
去年、この森を離れた一家の住まい。
今は誰もおらず、空き家のまま放置されている。
——そこに、あの男がいる。
シンガ。
昨日の会合のあと、村長の一言で決まった。
あの男は、あの家に住めばいい。
反対は出なかった。
むしろ、その方が都合がいい、とまで言われた。
とはいえ、拒絶ではない。
シンガの存在はすでに村に知れ渡っている。
そして印象は——悪くない。むしろ良いと言っていい。
昨日来たばかりの、得体の知れない男だというのに。
普通なら、警戒されて当然だ。
それなのに。
(……ほんと、不思議な男)
胸の内で呟きながら、レメリィは歩を進める。
森でシンガを拾って、三日目。
こうして食事を運んでいるのは、
拾った責任から——そう説明はつく。
——つく、はず。
だが。
(わたし、こんなだったっけ?)
自覚できるほどの違和感が、
足取りをわずかに鈍らせる。
責任感が強い。それは事実。
けれど、それだけで——
夜のうちからスープを仕込み、
夜明けを待ってまで届けに来るだろうか。
(もしかして、これ……)
浮かびかけた考えを、反射的に振り払う。
(いやいやいや、あり得ない)
小さく首を振る。
そもそも——
あの男の第一印象は、はっきりしている。
——気持ち悪いやつ。
状況そのものが異常だった。
おそらくワイバーンに攫われたのだろう。
空中で爪から外れ、そのまま落下した。
そう考えるのが最も筋が通る。
実際にワイバーンを見たわけではない。
それでも、それ以外に説明がつかない。
何より——
あの高さから落ちて、生きているはずがない。
怪我はしていた。だが、瀕死ではなかった。
枝が幾重にもクッションになった可能性はある。
運が重なれば、あるいは…。
それでも。
(……あり得るの?)
納得できないまま、現実だけがそこにある。
それに——記憶喪失。
最初はそう思った。
強い衝撃を受ければ、記憶を失うこともある。
だが。
彼は、自分の名前を言えた。
それに——
村の水問題をどうにかできるかもしれない、
と言った。
あの時は、その言葉が嬉しくて、
深く考えなかった。
だが、今は違う。
(本当に、記憶を無くしてるの?)
この二日間、胸の奥に残り続けている違和感。
不信か、警戒か。
——いや、違う。
もっと曖昧で、言葉にならない何か。
そういう違和感を抱かせる存在。
なのに。
(なのに……)
不快感が、ない。
それどころか——
(あのまま帰りたくない……って……)
そう思ってしまった自分がいる。
否定したはずの考えが、再び浮かび上がる。
(やっぱり、これって……)
——その瞬間。
レメリィははっと顔を上げた。
いつの間にか、目的の家の前に立っていた。
古びた扉。
わずかに歪んだ木材。
中は、見えない。
しばらく、動けなかった。
思考の続きを追いかけるように、視線が揺れる。
だが——やがて、小さく息を吐く。
(……今考えなくていい)
まずは、目の前のこと。
鍋を抱え直し、扉へ向き直る。
「起きてる?」
——返事は、なかった。
静寂が、妙に深い。
まるで、何かを隠しているかのように。
《続く》
少しでも面白い、続きが読みたいと思って頂けましたら、
ブックマークや高評価を頂ければ、尻尾振って喜びます。




