第20話
明け方──。
空と森の隙間から差し込む陽が、村の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
空気は冷たく、息を吸うたびに胸の奥まで澄んでいくようだった。
その中でシンガはひとり、柵の上に立っていた。
遠くを見るように、村を見渡す。
新しい丸太の柵は、大きくきれいな四角を描いている。
その内側は、泉や住居のある居住区と、門や広場のある共用区に分けられていた。
居住区を囲う柵――そのすぐ内側には、新たに設置された水路が走っている。
村の外、川からやってきた水路は北端で柵内へ入り、緩やかな傾斜を保ったまま、居住区をぐるりと囲むように巡っていた。
各家は柵に寄せて配置され、水路から細い管が家へと伸びていた。
もう、水を汲むために外へ出る必要はない。
村の人々が、子どもたちが、重い桶を抱えて泉まで往復するーー。
そんな日々も、もう終わる。
室内にまで引き込まれた管の先には、簡素な栓が取り付けられている。
煮詰めた樹液と木材で作られたそれは、ひねることでわずかにずれ、水を通す仕組みだ。
もっとも――まだ水は流れていない。
水路も、管も、ただ静かに朝の光を受けているだけだった。
水路は途切れることなく巡り、やがて南端へ。
その終点にあるのが、泉だ。
シンガは視線を落とす。
泉は静まり返っていた。
わずかに水を湛えてはいるが、湧き口の周囲に少し溜まっているだけだ。
かつてはここから小川が流れ、柵の下を通って村の外へと続いていたと聞く。
だがその流れはもう、途絶え始めている。
――だからこそ、繋ぐ。
小川だけじゃない。
村の歴史。伝統。途絶え始めたその、流れを。
シンガは目を細めた。
レノスの視覚補助が起動する。
水路の設計図が、現実の風景へ精密に重なっていく。
水路の勾配、角の処理、接合部のわずかな段差。
各家庭へ伸びる管の分岐点まで。
流れに影響する要素を一つずつ確認していく。
そこに、水流の“予測”を重ねる。
北端から入り、柵に沿って巡る。
分岐を越え、流量を保ったまま四隅を曲がり、減衰しながらも――最後は泉へ。
――問題ない。
すべては繋がる。
シンガは小さく息を吐いた。
「……うん、大丈夫だな」
小さく頷くと、そのまま柵を蹴る。
レノス表示は高さ9.2メートルだった。
景色が上へ跳ねる。
迫る地面に触れる瞬間──
ブースト。
一瞬で視界が後方へ弾け飛ぶ。
空間そのものが捻じ曲がったような加速が、シンガを広場へと運んだ。
広場にはすでに多くの村人が集まっていた。
その表情には、期待と不安が入り混じっている。
「あっ、シンガ!」
「どうだった?」
「どんな感じなの?」
声が重なる。
シンガは軽く手を上げ、はっきりと答えた。
「うん! 大丈夫! 問題ないです。これから川に行ってきますね!」
一瞬の静止のあと、空気がほどける。
「たのむわねー!」
「待ってるわよー!」
背中に飛んでくる声を受けながら、シンガは門へ向かう。
門の脇の櫓から、見張りの村人が身を乗り出した。
「気をつけて行けよ!」
シンガは一瞬だけ振り返り、片手を軽く上げた。
門を抜け水路の方へ走る。
湿り気を帯びた風が肌を撫でる。
視線の先には、川へと続く水路。
――あとは、水車だけだ。
シンガはわずかに前傾し、再び加速する。
朝の光を裂くように、その姿は一気に遠ざかっていった。
◇
水路に沿って、シンガは川へと走っていた。
ガンテツたち一家が、すでに点検を終えているのは分かっている。
だが、それでも自分の目で確かめたかった。
所々で左右へ曲がる水路。
シンガは走りながら、レノスで水路全体を視た。
水を運ぶための、ほんの僅かな傾斜。
人が立っても気づけないほどの角度。
それが果てまで、狂いなく続いている。
(──通ってる)
胸の奥が熱くなる。
やがて、水の匂いが濃くなった。
森の向こうから川音が響く。
そして視界の先――木々の切れ目に、“昨日までは存在しなかったもの”が現れた。
シンガは森を抜ける。
瞬間、視界が開けた。
「……っ」
そこにあったのは、大きな半円の水車だった。
周囲ではガンテツ一家と村人数人が忙しく動いている。
だが、今の位置からではまだ全体が見えない。
見えているのは上半分だけだった。
それでも圧倒されるほど巨大だ。
シンガはさらに前へ進む。
どうやら、水車の上半分を接合している最中らしい。
乾いた川底へ降りた瞬間――ようやく全景が見えた。
「でっか!」
思わず声が漏れる。
(これ、あのアパートくらいじゃないか?)
日本で暮らしていたワンルームアパート。
三階建ての古びた建物。
毎日見ていた高さ。
その記憶と、目の前の水車が重なった。
見上げた水車の輪郭が、陽光を遮って黒く浮かび上がる。
その時。
「シンガァー! どうだぁ!?」
上からガンテツの声が飛ぶ。
巨大な梁の上に立ちながら、こちらへ片手を振っていた。
「親父ぃ! よそ見すんなよぉ!」
すかさずドンテツが怒鳴る。
数人が滑車の綱を引き、半月状の上部をゆっくりと合わせていく。
ギギギ……と木材が軋む。
やがて。
「よし止まれ! ここだぁ!」
ガンテツの怒声が響いた。
「印!合ってるか!? 確認しろ!」
「合ってる!」
「こっちもだ!」
「よーし、接合だ! 釘を打てぇ!」
ガン! ガン! ガンッ!!
重い音が川辺に轟く。
組み細工のように噛み合った木材へ、巨大な釘が正確に打ち込まれていく。
水車設置班の動きに無駄は一切ない。
誰が次に何をするか、全員が理解していた。
「お袋! マリ! 頼んだ!」
ドンテツの声に、リリアメルとマリクララが動く。
二人が抱える桶には、煮詰めた樹液が入っていた。
まだ熱を持つそれを、釘を打ち込み窪んだ穴へと流し込んでいく。
ドロッと粘りながら、樹液が穴を埋めていく。
少し冷えれば、爪でも傷がつかなくなる。
これで水にも強くなるらしい。
やがてガンテツが足場から飛び降り、川底へ降りてきた。
巨大な水車を見上げ、最終確認を始める。
シンガもまた、レノスで全体を視た。
軸に歪みはない。
荷重も均等。
接合部も狂っていない。
レノスの視界に、不具合は映らなかった。
ガンテツと目が合う。
ニッと笑ったガンテツが水車を見上げた。
誰も喋らない。
そして──
「完成だぁー!!」
(完璧だ……!)
ガンテツの叫びと、シンガの想いが重なった。
「――う…」
「……お、おっ」
「おおおおおおおーーーっ!!」
歓声が爆発した。
「よっしゃああーー!!」
「やったぁーー!!」
水車班の男たちが拳を突き上げる。
シンガも川底でガンテツと肩を組まれ、そのまま一緒に叫んでいた。
笑い声が響く。
誰もが達成感に顔を紅潮させていた。
しばらく、その喜びを皆で味わう。
そして。
「よし! 足場を全部撤去だ!」
ガンテツの指示が飛ぶ。
すぐに村人たちが動き出し、仮設足場が次々と解体されていく。
「川底は誰も居ねぇな!?
――それじゃ川下の堰、外せぇ!」
川の中央側に築かれた石壁。
河岸との間には、水を遮るための分厚い木板が差し込まれていた。
同じ堰が川上側にも築かれている。
工事の間、水を止め続けていたのだ。
やがて、川下側の木板が滑車で引き上げられていく。
ザ…ザザアアアアーーッ――
下部から水が流れ込み始めた。
引き上げられていくにつれ、乾いていた空間がみるみる満たされていく。
水位はすぐに川と同じ高さまで達した。
だが、まだ流れはない。
川上側の堰が、水を止めている。
その頃には、完成間近の知らせを聞きつけた村人たちが大勢集まっていた。
「シンガ! いよいよか!?」
後ろから、いつのまに来たのかダイノが肩を叩く。
「すごい! こんな大きくなるんだ!?」
レメリィも目を輝かせていた。
その後ろにはワーゲルもいる。
二人の空気は、もう以前のように険しくなかった。
それを見て、シンガはほっと胸を撫で下ろす。
少し離れた場所では、ルーメル村長とガンテツが笑い合っていた。
すると。
「シンガ」
ガンテツが手招きする。
「最後の指示を出せ」
「え? いやいやいや! ガンテツさんでしょ!?」
「言い出したのはお前なんだ」
ガンテツはニヤリと笑った。
「完成は、お前の手で導け!」
バシンッ!!
豪快に尻を叩かれる。
「いっっだ!?」
周囲を見る。
みんながシンガを見ていた。
ルーメル村長が。
ダイノが。
ワーゲルが、微かに笑みを浮かべながら。
そして――レメリィと目が合う。
レメリィは笑顔で頷いた。
「シンガ! やって!」
彼女のその一声で、シンガの腹は決まった。
レメリィへ頷き返し、皆を見回す。
そして、大きく息を吸い込む。
「――川上の堰を、外してくださーい!!」
滑車が軋む音と共に、分厚い板がゆっくりと吊り上げられていく。
やがて。
静かだった水面が、ゆらりと動いた。
流れが生まれる。
水流が、水車の方へ吸い込まれていく。
──ギッ。
水車が、音を立てた。
誰も声を出さない。
空気が張り詰める。
(……回らないのか!?)
その不安が、見守る全員の胸をよぎった瞬間。
ギギッ。
ギギッギィィィ――ッ。
巨大な水車が、ゆっくりと回り始めた。
「うおっ!回ったああああーーーーーーっ!!」
「回ったぞぉーーー!!」
歓声が爆発する。
ガボッ……ガボッ……と音を立てながら、側面の枡が水面へ沈んでいく。
枡は水を満たし、ゆっくりと持ち上がっていく。
そして頂点手前――
ザアッーー。
満たされていた水が溢れ出した。
上部へ設置された幅広の樋が、それを受け止める。
集まった水は、そのまま水路へ流れ込んだ。
水が走る。
皆で造った水路に導かれ、
先の見えない森を駆け抜け、
村へ──帰っていく。
◇
村では、セイラたち食事班と子どもたちが泉の前で待っていた。
皆、水路の先を見つめている。
不安。
期待。
祈るような空気。
誰も喋らなかった。
(……お願い……)
そして――
チョロ……。
小さな水音が響く。
「あ……」
最初に気づいたのはセイラだった。
次の瞬間。
透明な水が、水路の出口から抜けてきた。
チョロチョロと。
次第に増えていく。
絶えることなく。
そして。
サァァーーーーッ
泉へ流れ込んでいった。
一瞬、誰も動かなかった。
ただ呆然と、その光景を見つめる。
乾きかけていた泉の底へ、水が広がっていく。
波紋が生まれる。
水面が揺れる。
「……水よ」
誰かが震える声で呟いた。
「……戻って、きた……」
ぽろり、と涙が零れる。
老いた村人の肩が、小さく震えていた。
その姿を見て、周囲からも嗚咽が漏れ始める。
セイラも両手で口元を押さえていた。
その瞳から、大粒の涙が溢れている。
泉は少しずつ満たされていく。
やがて。
縁まで達した水が、導かれるように外へ流れ出した。
流れ込んだ先は――かつて小川だった場所。
長い間、干上がっていた道筋。
そこへ再び、水が流れ始める。
きらきらと、陽光を反射しながら。
水音が、優しく村に広がっていく。
村へ命が戻っていくように。
その音は、
まるで村が再び、息を吹き返したようだった。
《続く》
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