第9話
村は、ようやく目を覚まし始めたばかりだった。
夜の名残をほんのわずかに残した空気の中、
レメリィはシンガの家を出て、
門へと向かっていた。
足取りは自然と速くなる。
意識していないのに、早歩きになっていた。
「もう、しょうがないわね……」
小さくこぼした言葉には、呆れと、
ほんの少しの苛立ちが混じっている。
──ついさっきのことだ。
レメリィは、スープの入った鍋を抱え、
シンガの家を訪れた。
扉の前で、軽く声をかける。
「起きてる?」
返事はない。
まだ寝ているのだろうと判断し、
そっと扉を押し開けた。
「……入るわよ?」
一応の断りを入れ、室内へ足を踏み入れる。
もう一度声をかけるが、やはり返事はなかった。
その代わりに気づいたのは、違和感だった。
「……いない?」
シンガの姿がない。
静まり返った室内に、わずかな気配だけが残っている。
空気に漂う体温。
ついさっきまで、そこにいたと分かる、微かな痕跡。
レメリィは鍋をテーブルに置いた。
そして、その場で動かずに考える。
どこへ行ったのか。
水汲み──違う。桶はある。
村長の家──こんな朝に行く理由がない。
沈黙。
……逃げだした?
胸の奥に、嫌な考えが浮かぶ。
なぜ。
昨日の光景が脳裏に蘇る。
集まったみんなを前に、シンガは堂々としていた。
視線を逸らさず、はっきりと言い切った。
──見て見ぬ振りはできない。
あの男が、逃げた?
(嘘でしょ…)
「……なによ、それ」
小さく吐き捨てる。
あんなことを言っておいて、
何も言わずにいなくなるなんて。
そんなの──
「…………」
ふと考えが切り替わる。
「あ……もしかして」
川。
可能性としては、それが一番しっくりくる。
「……ひとりで?」
思わず顔をしかめる。
ワー兄や自分ならともかく、シンガはまだ無理だ。
ダイアーラビットに腰を抜かした姿を思い出す。
危ないに決まっている。
「門で止められてるといいけど……」
だが、もし通ってしまっていたら。
「……さっさと連れ戻さないと」
せっかく持ってきた朝食だ。
──ちゃんと食べさせなければ、気が済まない。
そう思いながら、レメリィは家を出たのだった。
◇
レメリィは足早に門へ向かっていた。
村はようやく動き出したところだった。
あちこちに人の気配が動き始めている。
家の外に出て、大きく背伸びをしていた女が、
彼女に気づいて声をかけた。
「おはよう、レメリィ!」
「おはようっ!」
反射的に笑顔を作り、軽やかに返す。
だが足は止めない。
そのまま歩みを緩めることなく、門へと向かい続けた。
やがて視界が開け、木柵の門が見えてくる。
特に異変はない。
普段通りの、静かな朝。
櫓の下で、夜番を終えた男と鉢合わせた。
「シンガを見なかった?」
男は一瞬考え、すぐに頷く。
「あぁ、あいつならちょっと前に出たな」
「行かせたの……?見回りは?」
「朝番が交代前に回ってるから、大丈夫だ」
そう言って、男は顎で櫓の上を示した。
見上げると、そこに立つ朝番がこちらに気づいた。
「おう、今日は静かなもんだったぜ?」
レメリィは軽く手を上げて応え、すぐに視線を戻した。
「何しに行ったの?」
家路につこうとしていた男に問いかける。
男は歩みを止め、振り返る。
「あぁ、水車を置く場所とか?見たいって」
その言葉で、胸の中の予感が確信に変わる。
「そう……呼び止めてごめんね、ご苦労様!」
「おうよ」
男はひらひらと手を振り、村の奥へと去っていった。
その背を見送りながら、レメリィは小さく息を吐く。
(やっぱり……)
思った通りだ。
だが同時に、別の疑問が浮かぶ。
──なんでひとりで?
昨日、水汲みをしたばかりだ。
道は分かっているはずだし、怪我もかなり治っていた。
「……どういう身体してるのよ」
半ば呆れたように呟く。
それでも。
森に絶対の安全はない。
時間に関係なく、獣は現れる。
「しょうがないわね……」
レメリィは櫓の上の朝番に軽く合図を送り、踵を返した。
向かう先はひとつ。
森の奥、川の方へ。
朝の冷気を切り裂くように、彼女はそのまま歩き出した。
◇
昨日までのシンガであれば、
足取りを掴むのは難しくなかったはずだ。
怪我を庇う歩き方は、必ず痕跡に出る。
わずかな重心の偏りや踏み込みの差が、
そのまま地面に残るからだ。
だが──今は違う。
「……ない」
レメリィは足を止め、静かに足元を見つめた。
左右のバランスが崩れた跡は見当たらない。
刻まれた足跡は均整が取れており、
踏みしめもはっきりしている。
怪我の影は、完全に消えていた。
残っているのは、二人分の足跡。
ひとつはまっすぐ進み、どこかで戻ってきている。
規則的な間隔と迷いのない軌跡から、
朝番の男の見回りのものだと分かる。
もうひとつ。
それとは大きさの違う足跡が、
そのまま奥へと続いたままになっている。
「……これが、シンガ」
レメリィは小さく呟き、その跡を追い始めた。
しばらく進むうち、変化に気づく。
「……早歩き」
歩幅がわずかに広がる。
さらに先へ。
「……走ってる」
間隔が一気に伸び、踏み込みも深くなる。
速い。
明らかに、尋常ではない速度だ。
「獣に遭って……逃げてる?」
反射的に周囲へ視線を走らせる。
だが──
「……ない」
獣の足跡が見当たらない。
──違和感だけが残る。
そのまま追跡を続けて──
「……ここで」
足跡が、不自然に途切れていた。
レメリィはすぐに理解する。
「……跳んでるわね」
視線を先へ送る。
少し離れた位置に、次の着地点。
「あそこまで……」
歩み寄り、しゃがみ込む。
地面は深く、沈み込んでいた。
「……深すぎる」
この沈み込みの深さは、ただの跳躍ではない。
「……上、ね」
レメリィは顔を上げた。
周囲の枝を見渡す。
だが、普通に跳んで届くような高さにはない。
さらに視線を巡らせ──見つける。
自分の身長の三倍ほど上にある横枝。
その表面に、わずかに付着した土。
「……そこに乗った?」
理解が追いつかない。
——届くはずがない高さ。
なのに、そこに“いた”痕跡がある。
まるで“別の基準”で動いているみたいに。
(“守り人”でもないのになんで……?)
だが、考えても答えは出ない。
レメリィは小さく首を振った。
「……今は、それより」
見つけるのが先だ。
再び足跡へと視線を戻し、追跡を続ける。
その先の足跡は、
何事もなかったかのように続いていた。
「……普通に歩いてる」
乱れはない。
「追われたわけじゃなさそうね」
獣の痕跡もない。
「怪我も……なさそう」
それでも、疑問は消えない。
なぜ走ったのか。
なぜ跳んだのか。
理由が、見当たらない。
答えは見えないまま、足跡は続いている。
川の方へと、まっすぐに。
◇
川の気配が近づいてくる。
「……もうすぐね」
レメリィは小さく呟いた。
水車の設置場所を見に来たのなら、
このあたりにいるはずだった。
やがて水汲み場に出る。
だが──
「……いない」
姿がない。
レメリィは一瞬だけ周囲を見渡し、
すぐに判断する。
「……上流」
川沿いに足を向ける。
しばらく進んだところで、
遠くに人影を見つけた。
「……いた」
シンガだ。
川の中に膝まで入り、
水面に向かって屈み込んでいる。
距離はあるが、大声を出せば届く位置だった。
呼ぼうと口を開く──
その瞬間、動きが止まる。
「………?」
思わず息を呑んだ。
遠目ではっきり見えるわけではない。
だが、それでも分かった。
シンガが、屈んだまま、
ゆっくりと手を水へ差し入れる。
そのまま、同じ速度で手を引き上げる。
手の中に──魚。
「……え?」
思考が一瞬止まる。
死んだ魚を拾ったのかと思った。
だが。
シンガはそれを放す。
水に落ちる魚は、動いたように見えた。
「……今の、生きてた?」
理解が追いつかない。
再び、同じ動作。
ゆっくりと手を入れ、
ゆっくりと引き上げる。
今度ははっきりと見えた。
手の中で、魚が激しく暴れている。
「……手掴み…」
シンガの表情は、この距離からでは分からない。
ただ、同じ動作を繰り返している。
何度も。
レメリィは、呼びかけるのをやめた。
代わりに、足音を殺して動く。
そっと回り込み、シンガの死角へと移動した。
胸の奥に、冷たいものが広がる。
呼吸が、浅くなる。
正直に言えば、気味が悪かった。
森で初めて見つけたときから、今の光景まで。
すべてが繋がり、頭の中でぐるぐると回る。
手掴みで魚を獲れることじゃない。
そんなのわたしだって出来る…。
そうじゃなくて、
なぜ今そんなことを繰り返しているの?
水車の場所決めに来たんじゃないの?
……意味が、わからない
背筋にも、得体の知れないものが走る。
それが、何なのかわからない。
胸の奥に広がったのは、不信じゃない。
――“恐怖”に近い何かだった。
だが。
「……でも」
昨日の言葉が、引っかかる。
あの場で、あんな言葉を口にした男が。
「……違う、はず」
確信はない。
だが否定もできない。
一歩、踏み出そうとして——止まる。
足が、踏み出せない。
「……なら」
レメリィは息を潜めた。
視線を逸らさない。
──確かめる。
そのために。
彼女はただ静かに、シンガの様子を観察し始めた。
——あれは、本当に“人間”なのか。
——理解できる、その瞬間まで。
《続く》
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