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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第三十五話 戦場の音が、変わるとき

崩壊は静かに来た。


正騎士団の隊列が崩れたのを、グロームは後ろ姿で感じ取った。大型アンデッドの一体が、正騎士団の中心を突き破ったのだ。訓練された兵士たちが散開し、それぞれが孤立した戦いを始めた。連携が取れなくなると、消耗が加速する。連携とは、一人の体力を他の誰かが肩代わりする仕組みのことだ。それが壊れたとき、戦場は全員が同時に疲れ始める場所に変わる。


城門が軋む音がした。


アンデッドが門に積み重なり始めていた。木と鉄でできた門が、数万の重さに押されてたわんでいく。もって数十分か、あるいはもっと早いか。門の板が内側に少しだけ膨らんでは戻り、膨らんでは戻りを繰り返していた。そのリズムが、少しずつ短くなっていた。


前線の兵士たちも気づいていた。顔に諦めの色が出始めていた。戦い続けてはいるが、目に光がない。これだけの数を相手に、これだけ長く戦えば、人間の精神はどこかで折れる。グロームはその感覚を知っていた。知っているから、今は戦場を離れて別の答えに賭けていた。


アンネローズが丘に上った。


後ろからついてきた冒険者のうち、二人が脱落していた。それでも四人が丘の麓でアンデッドを食い止めていた。グロームもその中にいた。


丘の上から見下ろすと、戦場が見えた。


ひどいものだった。松明と魔法の火明かりが点々と続く中、無数の影が蠢いていた。人間の影は減り、アンデッドの影は止まらない。城門が時折きしむ音が聞こえた。遠くで誰かが叫んでいた。叫び声の種類が、時間とともに変わりつつあった。命令の声が減り、名前を呼ぶ声が増えていた。名前を呼ぶ声が増えるというのは、戦場が最後の段階に入ったという合図だった。


誰もが諦めを感じ始めていた。


そのとき、丘の上から光が漏れた。



淡い青い光だった。


最初は小さかった。杖の先端に灯った、蝋燭の炎ほどの大きさの光。だがそれはじわじわと広がり、脈打ちながら育っていった。脈打つ、という表現がふさわしかった。人間の心臓とは違うが、何かの意思が呼吸をしている、そういう広がり方をしていた。


アンネローズは丘の頂上に立ち、杖を天に向かって高く掲げていた。白いドレスの裾が夜風にたなびいた。髪が乱れたが、彼女は動かなかった。目を閉じ、何かに耳を傾けるような表情で、ただ立っていた。耳を傾けているのは、夜の向こうにいる何かかもしれないし、自分の中の遠い場所かもしれなかった。どちらにしても、いま彼女は戦場の人間ではなかった。


光が大きくなった。


青い光は杖の先から溢れ、アンネローズの手を伝い、全身を包み始めた。夜空に向かって伸び、星のように散り、そして収束した。戦場の喧騒の中でも、その光に気づいた者たちが動きを止めた。アンデッドでさえ、一瞬、足が鈍ったように見えた。


アンネローズが口を開いた。


声は大きくなかった。だが不思議なことに、戦場全体に届いた。


「安らかに土に帰りなさい」


杖を地面に突き刺した。


次の瞬間、青い光が爆発した。


稲妻のような光の筋が、丘を中心に放射状に走り出した。地面を伝い、岩を越え、土の中を潜り、戦場全体を縦横無尽に駆け巡った。触れたものが光を帯び、光の粒が浮かび上がり、夜の空気が青く染まった。光は暴力の形をしていなかった。むしろ、丁寧に片付けるような動き方だった。戦場に散らばった悲しみを、ひとつひとつ拾い上げていく手つきに似ていた。


グロームは目を細めた。まぶしかった。だが目を逸らすことができなかった。


アンデッドが止まった。


最初の一体が、ため息のような声を出した。音というより、空気が漏れるような、息が抜けるような声だった。長い間、体の中に閉じ込められていた何かが、ようやく出ていくときの音だった。


そして地面に溶けていった。


崩れる、というのとも違う。消える、というのとも少し違う。吸い込まれるように、滑らかに、地面の中に消えていった。一体が消え、隣の一体が消え、それが連鎖して広がっていった。光の粒が舞い上がる中で、数万のアンデッドが次々と土に帰っていった。


音が消えた。


戦場から、あの気持ち悪い摺り足の音が、ひとつ残らず消えた。腐敗の匂いも薄れていった。残ったのは夜の空気と、青い光の粒子と、呆然と立ち尽くす人間たちだけだった。匂いが薄れたあとの空気は、妙に甘かった。土と草と、夜露の匂い——本来この季節の夜にあるべき匂いが、ようやく戻ってきた。戦場の空気というのは、勝った側の匂いから戻ってくるものなのだ、とグロームは思った。


光が変わった。


青い光が、今度は暖かい白に変わり、ゆっくりと戦場全体に広がった。それが触れた場所で、傷が癒えた。切り傷、打撲、刺さった破片——光が覆うと、痛みが引き、傷口が閉じた。兵士たちが驚いて自分の体を見た。包帯を巻いたまま治った者が、ぽかんとした顔で腕を曲げ伸ばしした。腕が動くことを、もう一度確かめたいという顔だった。痛みが消えた後の体は、痛みを覚えていた場所にまだ少し違和感を残す。その違和感ごと、光が撫でて回っていた。


しばらく、誰も動かなかった。


最初に声を上げたのはグロームだった。


「——グォオォォ!」


大声だった。腹の底から出した声だった。ただそれだけの言葉だったが、その声が引き金になった。


戦士たちがひとり、またひとりと声を上げ始めた。歓声が広がり、波になり、夜の空に向かって届けとばかりに膨れ上がった。誰かが剣を天に向けて突き上げた。誰かが仲間の肩を抱いた。まだ生きている——その事実を確認するための声と動作だった。



トッドは丘の麓で膝をついていた。


戦ったわけでもない。走り回っていただけだ。だが全身の力が抜けて、立っていられなかった。目に涙が滲んでいた。涙の理由を、トッド自身が説明できなかった。安堵か、疲労か、恐怖の残り滓か——全部が混ざったまま、目の端から勝手に出てきた。


「トッド」


グロームの声がした。


トッドは顔を上げた。グロームが立っていた。剣を鞘に戻し、戦場を見渡していた。


「立てるか」


「はい」トッドは言った。「立てます」


立った。膝が少し笑ったが、立った。


グロームは戦場を見回した。青い光の粒がまだ漂っていた。アンデッドがいた場所に、何も残っていない。武器の残骸も、鎧の欠片もない。ただ踏み荒らされた地面だけが残っていた。


「終わったな」グロームは言った。


「終わりましたね」トッドが言った。


沈黙があった。歓声は遠くで続いていたが、ふたりの間には静けさがあった。静けさの種類は、戦いが始まる前の静けさとは違っていた。今の静けさには、音が入っていない代わりに、生き残ったという重さだけが入っていた。


丘の上にアンネローズが立っていた。


光が消えた後、彼女は疲れたように杖に寄りかかっていた。立ってはいるが、先ほどまでの光とは違う、ただの若い女に戻っていた。風に髪が乱れるのをそのままにして、静かに戦場を見下ろしていた。片方の肩が、もう片方より少しだけ下がっていた。大きな何かを下ろした後の肩の下がり方だった。肩が下がっているのに、姿勢自体は崩れていない——そのバランスが、彼女の長年の何かを静かに告げていた。


グロームは丘を上った。


「礼、言う」


アンネローズは振り向いた。疲れた目をしていたが、微笑んだ。


「お役に立てて良かったです」


そして少し考え込んだアンネローズがそういえばという顔をして、「城門に来る途中に武装した男達を見ました。何十人も」


「今、街中は警備が手薄ですよ……」丘に登ってきたトッドが心配顔でグロームに伝えた。


「まずい」


グローム、トッドとまだ動ける者たちがアンネローズを丘に残し街へと急いで向かっていった。丘から街の方向を見ると、夜空に青い光の残滓がまだ漂っていて、その下の街の輪郭が、どこか不安定に見えた。街は勝利の歓声を上げ始めていたはずだ。だが歓声の輪郭の向こうに、もう一つの音の気配がある——それをグロームの古い耳が拾っていた。金属と金属がぶつかる、静かだが揃いすぎた足音の気配を。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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