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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第一話 炉は問わない、何者であれ

グレイストーン街に夕暮れが差し込む頃、ガランはまた千鳥足だった。


正確に言えば、千鳥足になり始めていた、というのが正しい。三件目の酒場を出たのが日が傾き始めた頃で、今は石畳に長い影が伸び、空の端が橙色に染まっている。四件目を探して歩くには、まだ明るさが残っていた。好都合だ。暗がりの中を歩くのは嫌いではないが、見つけたい店の看板が読めなくなるのは困る。一度通り過ぎた看板を取り逃がして、結局水しか出さない酒場に転がり込んだことが、今までに二度ほどあった。あれは、二度とごめんだった。


グレイストーン——ヴァルムーア王国の西端に位置するこの街は、見慣れた顔なんてものが存在しない場所だ。住人がいないわけではない。むしろ人は多い。だが、毎日同じ顔と目が合うような、そういう街ではないのだ。人が流れ込んできて、流れ出ていく。どこかから来た者が、どこかへ消えていく。そういう場所だった。だからこそ、ガランのような者が腰を据えても誰にも咎められないし、明日いなくなっても誰にも惜しまれない。気楽と言えば気楽で、寂しいと言えば寂しいが、ガランはあまりそのどちらにも当てはまらない感性で、ただ「都合がいい」と感じていた。


石畳の路地を歩けば、まず目に飛び込んでくるのは、深くフードを下ろした集団だ。黒とも灰色ともつかない色のローブをまとった男たちが四人、連れ立って低い声で話し合いながら歩いている。修道士か何かの類だろう、とガランは思った。なんの宗派かは知らないし、知りたくもない。フードの奥からちらりと見えたのは、痩せた頬と血色の悪い唇だけで、目は見えなかった。その脇では、錆びた鎧を着込んだ中年の男が剣の柄を叩きながら、隣の若い女冒険者に何かを説明している。剣の柄を叩く音は、自慢話のリズムだとガランは知っていた。聞かなくても内容の見当がつく。女のほうは退屈そうな顔で話を聞き流していた。


さらに路地を進むと、地面に四つん這いになって鼻を近づけている男がいた。犬が匂いを嗅ぐように、石畳の継ぎ目に顔を寄せて、ふんふんと鼻を鳴らしている。何を探しているのか、何を嗅いでいるのか、まったくわからなかった。周りの通行人は誰も振り返らない。グレイストーンでは、それくらい普通のことだ。


酒場の窓から、誰かの笑い声が聞こえた。子供の声もどこかから聞こえる。路地の隅では、ぼろぼろの外套を着た老人が壁に背を預けて泣いていた。涙を拭くでもなく、声を上げるでもなく、ただ静かに泣いていた。誰も立ち止まらなかった。ガランも立ち止まらなかった。立ち止まって何ができるわけでもない。


不思議な街だ、とガランはいつも思う。怪しいものだらけで、まともな人間の数のほうが少ないかもしれないのに、なぜか楽しそうに見える。活気があるというか、全員が自分の目的に向かって真剣なのか——理由はわからないが、とにかくガランはこの街が嫌いではなかった。むしろ、自分にちょうどいい温度だと思っていた。熱すぎず、冷たすぎず。


四件目の候補を頭の中で整理しながら角を曲がったとき、目の端に何かが引っかかった。


立ち止まる。振り返る。


見慣れない建物があった。


いや、正確には——看板が気になった。


石造りの壁に沿って、木製の看板が下がっている。古びているが丁寧に作られた板に、彫刻刀で丁寧に刻まれた文字が並んでいた。文字の縁は鋭く、長年の風雨にさらされた割には、輪郭がはっきりしている。掘った人間の手がよほど確かだったのか、それともつい最近彫り直されたものなのか。


**炉は問わない。何者であれ。**


「……なんだ、こりゃ」


ガランは看板を見上げた。鍛冶屋だ。窓から炉の赤い光が漏れており、かすかに鉄を熱する独特の臭いが鼻をついた。焦げた金属のような、それでいてどこか懐かしいような臭い。石造りの壁は煤けて黒くなっているが、崩れてはいない。長年の炉の熱で焼けた跡が、壁の下の方だけでなく、軒先まで広がっている。かなり長い間ここで仕事をしてきたということが、建物そのものから伝わってきた。


だが、ガランはこの路地を何百回と歩いている。こんな店、昨日あったか?


頭の中で昨日の経路を思い返したが、確信は持てなかった。昨日もかなり飲んでいたし、この辺の路地はよく似た作りが多い。見落としていた可能性は十分ある。十分ある——のだが、看板の文字の意味がやけに頭に残った。炉は問わない、何者であれ。誰の依頼でも受ける、ということだろうか。それとも、もっと別の意味か。


扉に手をかけると、スムーズに開いた。鍵はかかっていない。蝶番がきしむこともなかった。



店内は、静かだった。


最初に気づいたのは音だった。外の通りの喧騒がぱったりと消えた。扉一枚を隔てるだけで、こんなに静かになるものだろうか。炉の奥のほうでじりじりと燃え続ける火の音と、どこかで金属が冷えるときのかすかなきしみ音だけが聞こえる。耳が、外の騒がしさに慣れていたぶん、内側の静けさが妙に大きく感じられた。


次に気づいたのは配置だ。狭くはない。だが、余分なものが一切なかった。


道具が壁に掛けられているが、無造作に掛けてあるのではなく、それぞれ決まった位置に収まっている。大きなハンマーから細い鑿まで、大きさ順に並んでいるわけでもなく、種類別でもない。使う順番なのか、使いやすさのためなのか——何十年もの試行錯誤が、あの配置を生んだのだとすぐに感じた。棚の上には金属の部品や半完成の細工物が並んでいる。それぞれに用途があるのだろうが、素人のガランには何のための部品なのかさっぱりわからない。床の石畳は長年の作業で磨り減り、継ぎ目に黒ずみが入り込んでいるが、掃き清められていた。塵ひとつなく、というほどではないが、塵が落ちていても、そこに落ちている理由がありそうな気配がした。


カウンターの向こうに、男が一人いた。


年齢は読めない。白髪交じりの短い髪は、色というより質感に古さがある。肩幅は広く、岩のようだ。背は特別高くないが、その肩のせいで実際以上に大きく見えた。皮のエプロンには何度も縫い直した跡がある——破れて、繕って、また破れて、また繕った痕跡が何層にも重なっている。手は大きく、節くれだっていて、指の付け根の皮が厚い。長年ハンマーを握ってきた手だ。爪の根元には、洗っても落ちきらない黒ずみが薄く残っていた。


男はガランが入ってきても、顔を上げなかった。金属の小さな部品を布で丁寧に拭いていた。


「いらっしゃい」


声は低く、短かった。感情が入っていない、というのとは少し違う。仕事として言うべきことを言った、という感じだ。ガランは店内を見回した。待たせている感じもなければ、急かす気配もない。ただ、次の言葉を待っている。沈黙が居心地悪くないのは、ガランにとって珍しいことだった。


「……ここ、昨日あったか?」


ガランは正直に聞いてみた。


男はようやく顔を上げた。


深い色の目が、ガランをまっすぐに見た。値踏みするでも、馬鹿にするでもなく、ただ事実を確かめるような視線だった。


「あった」


それだけだった。


「俺、この辺毎日歩いてるんだがな。気づかなかった」


「そうか」


「いつからある?」


「ずっとある」


ガランは眉を寄せた。ずっと、というのは何年だ。十年か、二十年か。それとも本当にずっとか。聞き返したところで、同じ答えが返ってくる気がした。


「……酔ってたのかな」


独り言のように呟くと、男は口元だけでかすかに動かした。笑ったかもしれなかった。あるいは、ただ唇の乾きを直しただけかもしれない。


「そうだろう」



「聞いてくれよ」


ガランはカウンターに肘をついた。木のカウンターは長年磨かれたのか、肘が滑るほどなめらかだった。


「昨日な、三軒目の酒場で——マーシャルのところって知ってるか? 通りを少し行ったところにある、看板が傾いてるやつ」


「知らない」


即答だった。興味があるとも、ないとも取れる声色で、ただ事実だけを返してくる。


「まあ、そこで飲んでたんだが。あそこの親父がさ、お前は飲みすぎだって言うんだよ。飲みすぎで何が悪い、って話だろ。だいたいあの店の酒は薄い。水で割ってる。だから量を飲まないといけないんだ。効かないんだよ。それで、もう一杯頼んだら、いい加減にしろって扉の外に放り出されてな」


男は布を動かす手を止めなかった。聞いているのか、聞いていないのか、表情からは判別がつかない。だが、視線はちらりとガランのほうに向いた瞬間があったので、まったく聞いていないわけではないらしかった。


「それで、石畳の上で寝てたんだが——これがまた、寝れるもんじゃない。鎧が固くてな。石畳の凹凸に引っかかって、どこを向いても痛い。朝まで一睡もできなかった。濡れた石の臭いだけ嗅いで夜明けを迎えた」


「依頼は?」


ガランは口を閉じた。


「は?」


「依頼があるから入ったんだろう」


「……はやいな」


「時間は有限だ」


ガランは頭をかいた。確かに、話が長くなっていた。男の言うとおり、自分はここに依頼に来たのだった。話のついでに昨夜の愚痴をこぼしたつもりが、いつの間にか本筋を忘れかけていた。


「ま、そうだな」とガランは言った。「実はちょうどそこから繋がる話でな。だから依頼に来た、とも言える。よく眠れる鎧が欲しい。酒場から叩き出されて、店の外の石畳に転がっても、ぐっすりと寝れるくらい快適な鎧を作れるか?」


男はそこで初めて手を完全に止めた。


カウンターの上の部品を置いて、顔を上げて、ガランを正面から見た。品定めをしているのか、判断しているのか、あるいはただの習慣なのか——男の目は感情が読みにくかった。深い色をしていて、見ているものをそのまま映しているような目だった。鏡のようでもあり、井戸のようでもあった。


「できる」


ガランは驚いた顔をしたかったが、驚いた顔をするのがちょっと恥ずかしかった。冗談半分で言った注文を、こうもあっさり受けられると、こちらの方が試されている気がしてくる。


「……本当に?」


「できると言った」


「石畳の上でも寝れるくらい、だぞ」


「聞こえてた」


「あと、重くなると困る。鎧が重いと運びにくい」


「わかった」


「あと、見た目もそれなりにしてくれると助かる。ぼろに見えるやつは嫌だ」


「明日来い」


「……え、明日? 一日で?」


返事の代わりに、男はカウンターの脇から小さな紙を取り出した。


「代金は先払いだ」


紙に数字を書いて、こちらに向けて滑らせた。ガランが見ると、思ったより高くなかった。高くなかったが、一日で作るというわりには安い気もした。安いには安いなりの、高いには高いなりの理由が、職人にはそれぞれあるものだとガランは知っている。だが、この男に関してはどちらの理由も読み取れなかった。


「安くないか?」


「適正だ」


ガランは財布を取り出した。半信半疑だったが、払わない理由も特にない。硬貨を数えてカウンターに置くと、男は確認せずに引き出しに入れた。確認しないのか、と思ったが、相手が確認しないなら、こちらも何も言わないのが筋だった。


「名前は」とガランは聞いた。


「アルダー」


「俺はガランだ」


「覚えた」


「ぶっきらぼうだな」


「そうか」


否定もしなかった。肯定もしなかった。言われたことを受け取って、そのまま手元に戻った、という感じだった。ガランは小さく鼻を鳴らすと、会釈をして店を出た。外に出ると、夕方の空気が頬に当たった。熱を持ち始めた炉の近くにいたせいで、店内が思ったより温かかったのだと気づいた。頬の冷たさが心地よく、酔いの残りが少し醒めた気がした。


次の酒場を探しながら、ガランはちらりと振り返った。看板が夕日を受けて少し光っていた。**炉は問わない。何者であれ。**——その言葉が、なぜか頭の片隅に残った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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