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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第7話

 アンジェリカが城の一室に落ち着いたのは、その日の夕刻だった。


 与えられた客間は、東翼の研究室に隣接した一室だった。質素だが清潔で、窓からは薬草園が一望できる。荷解きを終えた彼女は、湯を使い、新しい夜着に着替えて、ようやく一息ついた。


 長旅の疲れは、確かにあった。


 だが、胸の奥には、もっと強い高揚感があった。王都を発ってからの十日間で、彼女の人生は、思いもよらない方向へと動き始めている。婚約破棄、修道院行き、魔獣の襲撃、そして——銀狼卿の求婚。


 鏡の前で、アンジェリカは自分の顔を見つめた。


 翡翠色の瞳が、自分でも驚くほど、生き生きと輝いていた。



 夕食の席は、小さな食堂に用意されていた。


 長い食卓の両端に、ディルクハルトとアンジェリカが向かい合って座る。執事ヨハンが給仕を務めた。


 出された料理は、王都のそれとは全く違った。


 香草を利かせた鹿肉の煮込み、根菜のたっぷり入ったスープ、素朴な黒パンに、北方特産のチーズ。派手さはないが、どれも滋味深く、アンジェリカは一口ごとに感嘆の声を漏らした。


「美味しゅうございますわ」


「……そうか」


 ディルクハルトは、短く答えた。


 会話の少ない夕食だった。だが、沈黙が気詰まりというよりは、むしろ、穏やかな静けさに近い。暖炉の薪が爆ぜる音、スプーンが皿に触れる音、窓の外で風が唸る音——それらが、不思議と心地よく感じられた。



 食後、ディルクハルトは葡萄酒の杯を傾けながら、ぽつりと切り出した。


「明日から、疫病の状況を見てもらいたい」


 アンジェリカは、即座に背筋を伸ばした。


「はい、承知いたしました」


「まず、城下町の診療所に案内する。倒れた者の三分の一が、そこに運ばれている」


「症状の記録は、取っておられますか」


「取らせている。だが、軍医も医師も、原因を特定できずにいる」


 ディルクハルトの声が、わずかに翳った。


 アンジェリカは、杯を置いた。


「閣下。一つ、お伺いしてもよろしいですか」


「言ってみろ」


「疫病が始まった時期、その前後に、領内で何か変わったことはございませんでしたか。気候の変動、水源の変化、交易路の変更、新しい入植者の到着——何でも構いません」


 ディルクハルトは、少し考えてから答えた。



「春先に、北の沼地で大きな洪水があった」


「洪水」


「雪解けが例年より早く、沼地の水位が上がって、一部の地域が水浸しになった。その後、水が引くのに、二月ほどかかった」


 アンジェリカの目が、細くなった。


 湿地の異常な拡大は、病原体の温床になりうる。特に、カビや菌類の繁殖、蚊や虻などの媒介昆虫の大量発生——どれも、疫病の原因として考慮すべき事象だった。


「もう一つ、伺いますわ。最初に倒れたのは、どのあたりの住民でしたか」


「沼地に近い、北西の村だ」


 符合した。


 アンジェリカは、胸の奥で、かすかに手応えを感じ始めていた。まだ何も分からないが、糸の端を掴んだ——そんな感覚だった。



「閣下。明日は、診療所の後、その沼地まで案内していただけますでしょうか」


「沼地に行くのか」


「はい。原因を突き止めるには、現場を見ることが何より大切ですわ」


 ディルクハルトは、眉をひそめた。


「危険だ。まだ水が完全に引いていない場所もある」


「でしたら、閣下が護衛してくださればよろしいのでは?」


 アンジェリカは、にっこりと微笑んだ。


 ディルクハルトは、しばらく彼女を見つめていた。それから、諦めたように短く息を吐いた。


「……分かった」


「ありがとうございます」


 背後で給仕をしていた執事ヨハンが、その様子を目を細めて見ていた。白髪の老人の口元に、ごく微かな笑みが浮かんでいた。長年この無骨な主に仕えてきた彼にとって、主が女性の言葉に折れる姿は、実に珍しい見ものだったらしい。



 夕食が終わり、アンジェリカは客間に戻る前に、研究室に立ち寄った。


 蝋燭を灯し、書架の前に立つ。疫病の可能性について、いくつか当たりをつけたい文献があった。湿地熱、沼気病、菌糸症——それぞれの権威とされる医師の著作を、書架から抜き出していく。


「……お熱心ですな」


 背後から、穏やかな声がした。


 振り向くと、執事ヨハンが立っていた。彼は銀の盆に、温かい香草茶の入ったカップを載せて運んできていた。


「ヨハン様、ありがとうございます」


「様は、おやめください。ただのヨハンでございます」



 彼は、作業机にカップを置いた。


 そして、書架の方を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「この部屋に、灯りが入ったのは——何年ぶりでしょうかな」


「え?」


「先代の奥様がご逝去されてから、長らく閉ざされておりました」


 アンジェリカは、手を止めた。


 ディルクハルトの母親。彼女は、薬草研究者だったのか——。


「奥様は、疫病でお亡くなりになりました」


 ヨハンの声は、静かで、深かった。


「十年前、同じような熱病が、この地を襲いました。奥様はご自身で薬草を調合し、病の研究をなさっておいででしたが、ついには、ご自身も病に罹られ——」


「……そうでしたか」


「閣下は、まだ少年でした。母上の死を、ずっと、お心に抱えておいでです」


 アンジェリカは、そっと、作業机の縁に手を触れた。


 この部屋の温度、この書架の静寂、この薬草園を眺める窓——全てが、違って見え始めていた。



「ヨハン」


 彼女は、静かに問うた。


「閣下がわたくしをここへ連れて来られた本当の理由は——領地のためだけでは、ないのではなくて?」


 老執事は、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと、頭を下げた。


「あなた様に、奥様の夢の続きを託したいと——閣下は、そうお考えなのかもしれません」


 彼はそれだけ言うと、深く一礼して部屋を出ていった。


 蝋燭の炎が、静かに揺れた。


 アンジェリカは、手に取った書物を、そっと胸に抱いた。窓の外では、北の秋の星々が、冷たく、美しく、瞬いていた。


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