第6話
その夜、街道沿いの宿場町で、アンジェリカは一晩、考えに考えた。
小さな宿屋の二階の部屋で、窓を開け放ち、北の夜空を見上げた。王都よりもずっと星が近く、澄んで見えた。
修道院へ行く——それは、王都を発つ時から決めていた道だった。静かに薬草の研究に没頭し、誰にも煩わされない人生を送るつもりだった。
だが。
——あの方は、わたくしを、必要としていらっしゃる。
倒れた騎士の顔が脳裏に浮かんだ。あの時、自分の手の中で、一つの命が消えそうになり、そしてなんとか繋ぎ止めた。あの感覚を、アンジェリカはまだ覚えていた。指先にまだ残っていた。
辺境の領民たち。まだ見ぬ子どもたち。老人たち。
自分の知識で、救える命があるのなら——それは、静かな修道院にいるよりも、ずっと意味のあることではないだろうか。
そして、もう一つ。
——俺は、お前を、訳ありとは思っていない。
あの不器用な男の、ぶっきらぼうな言葉が、不思議と彼女の胸の奥に温かく残っていた。
翌朝、アンジェリカは宿屋の一階に降り、食堂でディルクハルトを見つけた。
彼は一人で窓際の席に座り、黒パンと燻製肉の朝食をとっていた。従者や騎士たちは別の席にいる。寡黙な主を、皆、静かに見守っているようだった。
アンジェリカは、その向かいの椅子に、遠慮なく腰を下ろした。
ディルクハルトが、驚いたように顔を上げる。
「——おはようございます、閣下」
「……ああ」
「昨夜のお申し出について、お返事を」
彼の手が、一瞬、止まった。
「お受けいたします」
アンジェリカは、はっきりと言った。
「グレイウルフ領へ、同行させていただきますわ」
ディルクハルトは、フォークを皿に置いた。彼の顔に浮かんだのは、安堵——と、呼んでいいのか分からぬほど微かな、しかし確かな、ゆるみだった。
「……そうか」
「ただし」
アンジェリカは、人差し指を立てた。
「結婚の件につきましては、少し保留とさせてくださいませ」
「なぜだ」
「『ついで』のご結婚は、お断りでございますわ。結婚するのでしたら、『ついで』ではなく、正式にお申し込みいただきたく存じます」
ディルクハルトは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、ふう、と短く息を吐いた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
アンジェリカは、にっこりと微笑んだ。
彼女の翡翠色の瞳が、朝の光の中で輝いていた。ディルクハルトは、その瞳から、なぜか、視線を外せなくなっていた。
それから二日の旅路を経て、一行はついにグレイウルフ領に入った。
領境を越えた瞬間、アンジェリカは思わず息を呑んだ。
そこは、もう、王国の南部とは全く違う景色だった。
遠くに、雪を被った険しい山脈が連なっている。近景には広大な森林、その合間を縫うように流れる清流。空は王都よりも遥かに高く、澄んでいた。空気は冷たく、どこか薬草の香りがした。
「——なんて、綺麗な」
彼女は、窓から身を乗り出して呟いた。
街道沿いには、丁寧に手入れされた畑が広がっていた。秋の収穫期で、農民たちが忙しそうに働いている。彼らは銀狼騎士団の姿を見ると、手を止めて深々と頭を下げた。尊敬と、そして温かな親しみの滲む礼だった。
やがて、道の先に、石造りの城が見えてきた。
グレイウルフ城——辺境伯家の居城である。
華美さとは無縁の、質実剛健な城だった。灰色の石を積み上げた堅固な城壁、塔の上に翻る銀狼の紋章旗。王都の絢爛な宮殿とは対照的に、ただただ、頑強で、美しかった。
城門を潜ると、内庭に老執事が待っていた。白髪の、痩せた、目の鋭い男である。
「お帰りなさいませ、閣下」
「——ヨハン。客人を案内する。侯爵令嬢アンジェリカ・ローゼンベルク嬢だ」
「承知いたしました」
老執事ヨハンは、深々と礼をした。その所作には一分の隙もなかったが、目には微かな好奇の色が浮かんでいた。
主が、若い女性を連れ帰った——それは、この城にとって、前代未聞の事件だった。
城内を案内される間、アンジェリカは目を見張りっぱなしだった。
石造りの廊下、高い天井、どの部屋も過剰な装飾はないが、置かれた調度品はどれも一級品だった。武骨な主の趣味らしく、壁には北方の名工が打ったという剣や盾が飾られていた。
だが、アンジェリカの心を最も奪ったのは——城の東翼にある、あの部屋だった。
「こちらでございます」
ヨハンが両開きの扉を開ける。
アンジェリカは、扉の向こうを見て、言葉を失った。
「……あ」
天井まで届く書架が、壁一面に並んでいた。
書架には、古今東西の薬草書、医学書、博物誌、錬金術書——数千冊はあろうかという蔵書がびっしりと詰まっていた。部屋の中央には大きな作業机があり、すり鉢、蒸留器、天秤、乳鉢、色とりどりのガラス瓶——最新の実験器具が整然と並んでいる。
窓の外には、広大な薬草園が広がっていた。秋の陽を浴びて、色とりどりの薬草が風に揺れている。その向こうには温室も見え、さらに奥には森へと続く道があった。
「こ……これは……」
アンジェリカの声が、震えていた。
「歴代のグレイウルフ家が、薬草研究のために整えてきた蔵書と設備でございます」
ヨハンが静かに説明する。
「ですが、近年は研究を担う者がおらず、塵を被っておりました。——あなた様が、もし、ここを使ってくださるのであれば」
アンジェリカは、一歩、部屋に踏み入った。
書架に手を伸ばし、背表紙を指でなぞる。古い写本の匂いが鼻腔をくすぐった。作業机の前まで歩き、ガラス瓶の一つを手に取ると、中には彼女が長年探し求めていた希少な薬草が、丁寧に保管されていた。
涙が、不意に、込み上げてきた。
夢のような光景だった。
王宮の礼儀作法に縛られず、社交界の視線に怯えず、ただ、ひたすらに薬草と向き合える場所——それが、今、彼女の目の前にあった。
背後で、扉が開く音がした。
振り向くと、ディルクハルトが立っていた。彼は、アンジェリカの顔を見た。濡れた睫毛、紅潮した頬、震える唇——その表情を、一瞬、息を止めるように見つめた。
「……気に入ったか」
ぶっきらぼうな問いだった。
アンジェリカは、小さく頷いた。それから、もう少し、はっきりと頷いた。
そして、最後には、満面の笑みで答えた。
「閣下。わたくし、この部屋のためだけでも、ここに参った甲斐がございましたわ」
ディルクハルトは、それを聞いて、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
それは、アンジェリカが初めて見る、この男の微笑だった。




