第5話
魔獣の死骸は、ディルクハルトの部下たちが手際よく処理した。
負傷した騎士たちは応急処置を施され、予備の馬に乗せられる。毒を受けた騎士も、意識こそ戻らないものの、呼吸は安定していた。アンジェリカは彼の傍に寄り添い、数時間おきに解毒剤を服ませる手筈を整えた。
ディルクハルトは、護衛として自分の騎士団を同行させると告げた。
「修道院までは、あと三日の道のりだ。このまま貴様らだけを行かせるわけにはいかん」
彼の言葉に反論の余地はなかった。実際、護衛の騎士たちは皆、戦闘不能に近い状態だったのだ。
一行は、銀狼騎士団に守られる形で北上を再開した。
アンジェリカの馬車の両脇を、屈強な騎馬兵が固める。その数は二十騎。侯爵令嬢の護衛としては過剰なほどの体制だった。
馬車の中で、アンジェリカは窓の外を眺めていた。山間の紅葉が色鮮やかで、時折、遠くに雪を戴いた山々が見えた。
ふと、馬車の窓の外に、銀色の影が現れた。
「——閣下」
ディルクハルトが、馬上から彼女を見下ろしていた。
彼の表情は相変わらず硬かったが、先ほどの森の中で見たあの奇妙な揺らぎは、まだわずかに残っているように見えた。
「進路について、少し話したい。馬車を止めろ」
彼は御者に命じた。
街道の脇、秋の陽だまりに馬車が停まった。
アンジェリカは、供を連れて馬車を降りた。ディルクハルトも馬を下りて、彼女の前に立つ。
背の高い男である。アンジェリカは頭一つ半ほど見上げる形になった。
近くで見ると、彼の顔には古い傷跡がいくつも残っていた。右の眉尻から頬にかけての細い線、顎の下の小さな切り傷。どれも戦場で刻まれたものだろう。辺境を守るということが、どれほどの激しさを伴うか——その痕跡が、彼の顔に刻まれていた。
「修道院まで、護衛する」
ディルクハルトが、短く言った。
「ありがとうございます」
「……だが、一つ、提案がある」
彼は、わずかに言葉を選ぶような間を置いた。
普段は号令を下すばかりの男が、慎重に言葉を探している。それだけで、彼がこの提案を、重く考えていることが伝わってきた。
「修道院へ行くのは、やめろ」
アンジェリカは、目を丸くした。
「……え?」
「俺の領地に来い」
秋風が、二人の間を吹き抜けた。
アンジェリカは、彼の灰青色の瞳をまじまじと見つめた。冗談を言っている顔ではなかった。そもそも、この男が冗談を言う姿など、想像もつかない。
「あの——どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。修道院より、俺の領地の方が、薬草研究の環境が整っている」
彼は続けた。
「グレイウルフ領には、大陸最大級の薬草園がある。国境沿いの森には、他国でしか採れぬ希少種も自生する。蔵書も、王立図書館の医薬部門と提携していて、写本を取り寄せることができる。実験器具も、代々の当主が集めたものが揃っている」
「……まあ」
「お前の知識は、あの修道院で埋もれさせるには惜しい」
アンジェリカは、心臓が高鳴るのを感じた。
薬草園、希少種、蔵書、実験器具——その言葉の一つひとつが、彼女の胸を熱くした。修道院ももちろん素晴らしい場所だが、辺境伯領の研究環境は、それを遥かに凌ぐ可能性があった。
だが、同時に、強い警戒も覚えた。
「閣下」
彼女は、注意深く尋ねた。
「なぜ、わたくしにそのような申し出をなさるのですか」
見ず知らずの貴族令嬢を領地に招くというのは、政治的にも相当な意味を持つ。ましてや婚約破棄されたばかりの女を、である。王家との関係にも影響しかねない。
ディルクハルトは、しばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「領地で、疫病が起こっている」
アンジェリカは息を呑んだ。
「半年ほど前から、原因不明の熱病で倒れる者が出始めた。最初は数人だったが、今月に入って急増している。子どもと老人から、先に死んでいる」
ディルクハルトの声が、わずかに低くなった。
「軍医も、王都から招いた医師も、原因を特定できずにいる。このままでは、冬までに領民の一割を失いかねない」
アンジェリカの手が、無意識に胸元で組まれた。
疫病。それは、この時代の辺境において最も恐ろしい災厄の一つだった。軍隊で防げるものではない。金で解決できるものでもない。ただ、原因を突き止め、対処法を見つけるしかない——そのために必要なのは、知識と、経験と、冷静な観察眼だった。
「お前の知識が必要だ」
ディルクハルトは、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「——ついでに、俺の妻になれ」
秋の陽が、少しだけ傾いた。
アンジェリカは、数秒、言葉を失った。
「……は?」
「俺の妻になれ、と言った」
「あの、閣下、今『ついで』と仰いましたか」
「言った」
「……」
アンジェリカは、呆気に取られて彼を見上げた。
これは、プロポーズなのか。それとも、業務上の辞令なのか。どう考えても後者にしか聞こえないが、文法上は前者だった。
彼女は、思わず小さく吹き出してしまった。
「どうした」
ディルクハルトが、怪訝そうに眉を寄せる。
「いえ、その——」
アンジェリカは、笑いを堪えながら答えた。
「閣下、それは、求婚というものですの?」
「そうだ」
「普通、求婚というものは、もう少しこう、言葉を飾るものではなくて?」
ディルクハルトは、わずかに視線を外した。
「……言葉を飾るのは、苦手だ」
耳が、ほんの少し赤くなっているのが、夕陽のせいでないことを、アンジェリカは見て取った。
彼女は、もう一度、彼の顔を見上げた。
不器用な男だった。
けれど、嘘のない男でもあった。領地の民を守るために、初対面の令嬢に頭を下げて知識を乞い、ついでに妻になれと言う。その「ついで」の一言に、彼なりの遠慮が、まざまざと滲んでいた。
——この方は、今、わたくしに頼っていらっしゃるのだわ。
アンジェリカは、不思議な感覚に包まれていた。
王太子の婚約者だった三年間、彼女は一度も「頼られた」ことがなかった。ただの飾り物として、ただの王家の装飾として、静かにそこに居ることを求められていただけだった。
だが、この男は違う。
彼は、彼女の中身を——彼女の知識と、彼女の判断力を——必要としていた。
「閣下」
アンジェリカは、静かに口を開いた。
「お答えする前に、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「その『ついで』のご結婚ですけれど——閣下は、本当に、それでよろしいの? わたくしは、婚約破棄されたばかりの、訳ありの女でございますわ」
ディルクハルトは、彼女を見下ろした。
その灰青色の瞳に、あの奇妙な揺らぎが、もう一度、静かに戻ってきた。
「——俺は、お前を、訳ありとは思っていない」
それだけ言うと、彼は馬に向かって歩き出した。
秋の風が、彼の黒いマントを翻していった。




