第4話
毒牙を受けた騎士の顔は、すでに土気色に変わり始めていた。
アンジェリカは彼の傷口を注意深く観察した。左腕の前腕部、牙が肉を貫通している。傷そのものは深いが致命傷ではない。問題は、毒だった。
「黒影狼の毒……神経系に作用する遅効性の毒ですわ」
彼女は独り言のように呟いた。
周囲の護衛騎士たちも意識を取り戻しつつあったが、毒を受けたのはこの一人だけ。他の三人は打撲と裂傷で済んでいた。幸運だった。
ディルクハルトは腕を組み、その様子を見下ろしていた。彼の背後には、グレイウルフ家の軍医を名乗る初老の男が駆け寄ってきている。
「姫様、下がってください。ここからは我らが」
軍医が膝をつき、倒れた騎士の容態を診る。だが、その顔はすぐに曇った。
「……いかん。毒が既に心臓に向かっている。解毒剤の手持ちがない」
「領地まで、どれほどだ」
ディルクハルトが問う。
「馬を飛ばして二時間。この毒は、三十分も保ちません」
重い沈黙が落ちた。
ディルクハルトの灰青色の瞳が、わずかに翳った。部下の命を前にして、できることが限られている——その現実に、彼が深く傷ついているのが分かった。
アンジェリカは、立ち上がった。
「あの」
彼女は軍医に声をかけた。
「よろしければ、わたくしに調合させていただけませんか」
「……は?」
軍医が怪訝そうに振り返る。
ディルクハルトも、眉をひそめた。目の前にいるのは、どう見ても貴族令嬢である。薬草の「調合」などという言葉が、この華奢な少女の口から出てくるとは思わなかったのだろう。
「ご令嬢、冗談ならおやめください。この男の命がかかっております」
「冗談ではありませんわ」
アンジェリカは、毅然として答えた。
「黒影狼の毒の解毒剤は、この森の中にある材料で作れます。十五分いただければ、ご用意できますわ」
軍医は、困惑した顔でディルクハルトを見た。ディルクハルトは、じっとアンジェリカを見ていた。
やがて彼は、短く言った。
「やれ」
「閣下!」
「他に手はないだろう。やらせてみろ」
アンジェリカは、深く頷いた。
彼女は馬車から自分の小さな革鞄を取り出した。中には小瓶がずらりと並び、乾燥させた薬草、すり鉢、水差し、火打ち石——一通りの調合道具が収まっている。修道院に持ち込むための、彼女の「宝物」だった。
それから彼女は、森の中に入っていった。
「おい、どこへ」
ディルクハルトの声が追いかけてくる。
「材料を採ってまいります。すぐ戻りますわ」
腰をかがめて落ち葉をかき分け、苔むした岩の裏を覗き、倒木の根元を探る。その手つきは、貴族令嬢のそれではなかった。薬草学者の手つきだった。
「——ありました」
彼女は小さく声を上げた。
銀色の葉をした低木、紫の斑点のある茸、細い蔓に咲く白い花。それらを手際よく摘み取り、鞄の中に収めていく。数分で、彼女は戻ってきた。
倒れた騎士の傍に戻ると、アンジェリカは地面に布を広げ、その上にすり鉢を置いた。
採ってきた銀葉を細かく刻む。茸は皮を剥いて、すり鉢に入れる。白い花の蕾を加え、すり鉢の中で丁寧に潰していく。淡い緑色の液体が滲み出てくると、彼女は小瓶から琥珀色の液体を数滴垂らした。
「それは——」
「蜂蜜酒ですわ。わたくしの愛用品で、調合の溶媒になりますの」
こともなげに答える。
軍医もディルクハルトも、黙って見守るしかなかった。彼女の手つきは迷いがなく、無駄がなく——そして、美しかった。
かき混ぜながら、アンジェリカは小声で詠唱のようなものを呟いていた。古い薬草学の口訣で、調合の順序と分量を正確に守るための知恵である。
五分ほどで、緑色がかった銀色の液体が完成した。
「彼を起こしてくださいませ。少しずつ、ゆっくり飲ませます」
軍医が騎士の体を抱え起こす。アンジェリカは小瓶を騎士の口に近づけ、一滴ずつ、唇に垂らしていった。
最初は反応がなかった。
重い沈黙が続く。騎士の呼吸は浅く、脈も弱い。このまま息を引き取るのではないかと、誰もが覚悟した。
——その時。
騎士の喉が、ごくり、と動いた。
続いて、瞼が震え、土気色だった頬に、わずかに血の気が戻り始めた。呼吸が少しずつ深くなっていく。軍医が慌てて脈を確認し、そして、目を見開いた。
「脈が……戻っている……!」
アンジェリカは、ふう、と小さく息を吐いた。
彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「……信じられん」
軍医が、呆然と呟いた。
「黒影狼の毒を、森の中の材料だけで……それも、十分そこそこで解毒するなど……」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
「ご令嬢、感謝申し上げます。この男の命は、あなたに救われました」
「いいえ、間に合って何よりでした」
アンジェリカは、柔らかく微笑んだ。
その時、彼女は自分を見つめる視線に気づいた。
顔を上げると、ディルクハルトが彼女を見ていた。
最初に出会った時の、冷たく鋭い瞳ではなかった。かといって、感謝や驚嘆の色でもなかった。それは——もっと奥深い、何かを見極めようとするような、静かな視線だった。
灰青色の瞳と、翡翠色の瞳が、秋の森の中で、しばらく絡み合った。
「ローゼンベルク侯爵令嬢」
ディルクハルトが、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、何者だ」
奇妙な問いだった。名乗りは、もう済ませている。
アンジェリカは、少し首を傾げて答えた。
「ただの、薬草学が好きな娘でございますわ」
その答えが、ディルクハルトの中の何かを、さらに深く揺さぶったようだった。
彼は何も言わず、ただ、ゆっくりと頷いた。
秋の日差しが木漏れ日となって、彼女の蜂蜜色の髪を照らしていた。その光景は、なぜか、ディルクハルトの記憶に深く、深く、刻まれた。




