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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第3話

 アンジェリカが王都を発ったのは、それから二週間後のことだった。


 必要最小限の荷物をまとめ、護衛の騎士を数名だけ伴い、彼女は北へと向かう馬車に乗った。父侯爵は屋敷の門前で、いつまでも手を振っていた。その姿が小さくなり、やがて街路樹の向こうに消えるまで、アンジェリカも窓から身を乗り出して手を振り返した。


 十日ほどの旅路である。


 王都を出て三日目には、豊かな穀倉地帯を抜け、なだらかな丘陵地帯に入った。五日目には深い森に差しかかり、七日目には北の山脈がうっすらと地平線に見え始めた。


 景色が変わるたびに、アンジェリカの胸は躍った。



 馬車の中では、ずっと分厚い本を読んでいた。出立前に父が餞別として買い与えてくれた、北方薬草図鑑である。挿絵の植物を一つひとつ指でなぞりながら、彼女はときおり小さく声を上げた。


「まあ、これが雪絆草——本物が見られるなんて」


 御者と護衛の騎士たちは、顔を見合わせて苦笑していた。侯爵令嬢というものは、もっと退屈そうに馬車の旅を耐えるものだと思っていたのだ。


 八日目の午後。


 一行は、山間の街道に差しかかっていた。両側を深い針葉樹の森に挟まれ、空は細く切り取られて見える。秋も深く、落葉の絨毯が車輪の音を吸い込んで、やけに静かだった。


 あまりに、静かすぎた。



「——止まれ!」


 護衛隊長の鋭い声が響いた。


 馬車が急停止する。アンジェリカは本を取り落とし、慌てて窓の外を見た。街道の前方に、何かが蠢いている。


 最初は、黒い岩の群れに見えた。


 だが、それは動いていた。赤い目を光らせ、涎を垂らし、背中の剛毛を逆立てた——巨大な狼のような魔獣の群れが、街道を塞いでいた。


「黒影狼だ! 数が多い——!」


「姫様、馬車から出ないでください!」


 護衛の騎士たちが一斉に剣を抜く。馬たちが怯えて嘶き、御者が必死に手綱を握りしめる。


 アンジェリカは、息を呑んだ。



 黒影狼。北方の森に棲む危険指定の魔獣である。普段は単独行動のはずが、群れでいる。しかも、数えただけで七頭——明らかに、普通ではなかった。


 護衛は四人。勝ち目は、薄い。


 先頭の一頭が地を蹴り、馬車に向かって跳躍してきた。護衛隊長が剣を構えて受け止めるが、体格差は圧倒的だった。彼は吹き飛ばされ、木の幹に激しく叩きつけられる。


「隊長!」


 残りの三人が必死に応戦するが、黒影狼は次々と襲いかかってくる。一人、また一人と地面に倒れ、血の匂いが秋の森に広がっていく。


 最後の一人が毒矢を射る間もなく、腕に狼の牙を受けて倒れた。


「——!」


 アンジェリカは馬車の扉を開けて飛び出した。倒れた騎士たちを放っておくことなど、彼女にはできなかった。


「立って! まだ息がある、怪我の応急処置を——」


 その時。


 目の前の黒影狼が、大きく口を開けて彼女に迫った。赤い瞳が、間近に迫る。


 アンジェリカは、覚悟した。



 ——銀の閃光が、森を貫いた。


 次の瞬間、目の前の黒影狼が、音もなく真っ二つになっていた。断面から血が噴き出し、地面に倒れる。


 アンジェリカは、呆然と立ち尽くした。


 森の奥から、蹄の音が響いてくる。十数騎の騎馬が、銀色の甲冑を纏って駆け抜けてきた。その先頭にいる男が、馬上から身を躍らせて地に降り立つ。


 背の高い、筋肉質な体躯。黒い長いマントが風に翻り、その下から覗くのは冷たい銀の鎧。腰まである銀灰色の髪は無造作に束ねられ、鋭い灰青色の瞳が、群れをなす魔獣をひとつひとつ射貫いていた。


 男は、短く号令を放った。


「一頭も逃がすな。一気に片付けろ」


 騎士たちの動きが変わった。


 それは、戦闘と呼ぶにはあまりに一方的な光景だった。銀色の騎士団は整然と展開し、連携した動きで黒影狼の群れを包囲し、瞬く間に討ち取っていく。先ほどまでアンジェリカの護衛たちを圧倒していた魔獣たちが、まるで子犬のように為す術もなく斬り伏せられていった。


 数分で、森の静寂が戻った。



 先頭の男——銀色の髪の剣士は、血に濡れた長剣を一振りして血糊を払い、鞘に収めた。


 そして、アンジェリカの方を振り返った。


 灰青色の瞳が、真っ直ぐに彼女を捉える。その瞳は、氷のように冷たく、同時に刃のように鋭かった。


「無事か」


 低い、よく響く声だった。


 アンジェリカは、我に返った。今は自分の状態より、倒れた騎士たちが優先だ。


「わたくしは大丈夫です。それより、この方々を——護衛が四人、負傷しています。一人は毒牙を受けました」


 彼女は毒牙を受けた騎士の傍に跪き、素早く傷口を確認していた。自分でも驚くほど、手は震えていなかった。


 男は、意外そうに眉を上げた。襲撃を受けたばかりの令嬢が、まず自分の無事を訴えるのではなく、倒れた者の手当てに入っている。


「……お前は」


「アンジェリカ・ローゼンベルクと申します」


 男は、わずかに目を細めた。その名を、どこかで聞いたことがある、という顔だった。


 やがて彼は、短く名乗った。


「ディルクハルト・グレイウルフ。この辺境の領主だ」


 グレイウルフ——銀狼卿。


 アンジェリカは、顔を上げて彼を見た。北の国境を守る若き辺境伯の名は、王都でも時折耳にしていた。寡黙で、冷徹で、戦場では鬼神のごとく強いと——そんな噂の男だった。


 目の前の男は、まさにその噂通りの雰囲気を纏っていた。


 だが。


 彼の灰青色の瞳の奥に、ほんの一瞬、奇妙な光が揺れるのを、アンジェリカは見た。


 それが何なのか、この時の彼女には、まだ分からなかった。


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