第2話
婚約破棄の翌朝、王宮からの呼び出しが届いた。
アンジェリカは落ち着いた紺色のドレスに着替え、最小限の供を連れて登城した。馬車の中で、父ローゼンベルク侯爵は何度も娘の顔を覗き込んでいた。
「本当に、大丈夫なのか」
娘は、父の手をそっと握った。
「お父様、わたくし、昨夜ほどよく眠れた夜はございませんでしたのよ」
侯爵は、苦笑とも安堵ともつかぬ表情で首を振った。娘のこういうところには、もう何年も驚かされてきたのだ。
謁見の間に通されたのは、アンジェリカ一人だった。
玉座に座しているのは国王ではなく、王妃エレオノーラ。その隣には、ばつの悪そうな顔をしたユリウス王太子が立っている。昨夜の勝ち誇った様子はどこにもなかった。
アンジェリカは深く膝を折って礼をした。
「ローゼンベルク侯爵令嬢、アンジェリカ。御前に参上いたしました」
「面を上げなさい」
王妃の声は落ち着いていたが、疲労の色が濃い。一晩で何度もこの息子と話し合ったことが、容易に想像できた。
「昨夜のこと、まことに申し訳なく思います」
王妃が、丁重に頭を下げた。
アンジェリカは慌てて首を振る。
「王妃様、どうかお顔をお上げくださいませ。非は何も、わたくしにはございませんもの」
「……あなたは、本当に変わった子ね」
王妃は、ふと微笑んだ。かつてアンジェリカに王妃教育を施した彼女は、この少女の聡明さと誠実さを誰よりも知っていた。
「ユリウスの独断であったことは、王として、王妃として、深く詫びる。婚約破棄は撤回させる。あの子には厳しい処分を下すゆえ、どうか——」
「王妃様」
アンジェリカは、静かに遮った。
王妃の眉が微かに動く。王族の言葉を遮るなど、本来許される行為ではない。
だが、アンジェリカの瞳は、ただひたすらに澄んでいた。
「婚約は、撤回なさらないでくださいませ」
「……何と」
「どうか、あのままで——婚約破棄を、正式に認めてくださいませ」
広間に、長い沈黙が降りた。
ユリウスが目を見開いてアンジェリカを見ていた。自分を愛していたはずの女が、戻ってくることを拒んでいる——その事実を、彼の小さな自尊心は飲み込めずにいた。
「わたくしには、夢がございますの」
アンジェリカは、穏やかに語り始めた。
「幼い頃から、薬草学と自然科学が好きでした。図書館の奥で古い写本に埋もれて過ごす時間が、何よりの幸福でしたの。ですが、王太子妃となる以上、そのような道は許されません。わたくしもそれを理解して、三年間、務めを果たしてまいりました」
王妃は、黙って聞いていた。その目には、微かな哀しみが浮かんでいた。
「殿下が新しいご婚約者を選ばれた今、わたくしは、本来歩みたかった道へ戻りとうございます」
「……それは、どのような道ですか」
「聖マルグリット修道院へ、入りたいと存じます」
王妃が、息を呑んだ。
聖マルグリット修道院は、大陸北方にある薬学と医学の研究で名高い修道院だった。貴族令嬢が入るような華やかな場所ではない。雪深い土地で、日々質素な暮らしと研究に励む、厳格な女子修道院である。
「侯爵令嬢の身で……本気なのですか」
「本気でございます」
ユリウスが、ついに口を開いた。
「貴様——そこまでして、この私から逃げたいのか」
その声は、怒りと屈辱に震えていた。
アンジェリカは、彼の方を向いた。彼女の表情には、もはや一片の嘲りも憎しみもなかった。ただ、とても静かな諦めだけがあった。
「殿下。わたくしは、殿下から逃げるのではございません」
「ならば何だ」
「わたくし自身に、戻りたいだけでございます」
ユリウスは、言葉を失った。
その一言が、彼の何かを深いところで突き崩したらしかった。三年間、彼の隣にいたこの少女は、一度も本当の意味で「彼の婚約者」ではなかったのだと——今さらながら、気づいてしまったのだ。
王妃は、長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
「王妃様」
「あなたの意思を、尊重しましょう。侯爵にも正式に通告し、婚約破棄の手続きを進めます。聖マルグリット修道院への入門も、王家から推薦状を出しましょう」
「ありがとうございます」
アンジェリカは、再び深く膝を折った。
その背中に、王妃が静かに声をかけた。
「アンジェリカ。——幸福になりなさい」
彼女は顔を上げ、今度は少女のように笑った。
「はい。必ず」
謁見の間を出ると、廊下で父侯爵が待っていた。
アンジェリカは、父に駆け寄って抱きついた。
「お父様、許してくださいませ」
「……お前が望むことなら、わしは何でも許すよ」
父は、娘の頭をぽんぽんと叩いた。
「ただし、一年に一度は必ず手紙を寄越しなさい。そして、困ったことがあれば、すぐに戻ってきなさい。侯爵家の門は、いつでもお前のために開いておる」
「お父様……」
アンジェリカの目に、初めて涙が浮かんだ。
昨夜、婚約破棄されても泣かなかった彼女が、今、父の言葉に泣いている。人は、悲しみよりも優しさに脆いのかもしれなかった。
馬車に揺られて屋敷に戻る道すがら、彼女は窓の外を流れる王都の景色を眺めていた。
薬草の研究。静かな修道院での日々。雪深い北の地。
——これから、本当の人生が始まるのだわ。
心の中で、彼女はそっと呟いた。




