第8話
翌朝、アンジェリカは夜明けと共に起き出した。
侍女に手伝ってもらい、できる限り動きやすい装いを選ぶ。飾りのない紺色のドレス、頑丈な革のブーツ、髪は簡素に結い上げた。鞄には、診察道具と筆記用具、そして昨夜のうちに作業机から選び出した薬瓶をいくつか詰める。
食堂に降りると、ディルクハルトはすでに朝食を終え、外套を羽織っていた。
「早いな」
「閣下こそ」
彼は、ちらりと彼女の装いを見て、わずかに眉を上げた。侯爵令嬢らしい華美さのかけらもない、完全な実務の出で立ちだった。
「……似合っている」
ぶっきらぼうな一言に、アンジェリカは一瞬、目を瞬かせた。
それから、くすりと笑った。
「ありがとうございます」
馬車で城下町に向かう。
グレイウルフ領の中心都市は、石造りの堅牢な街並みだった。商店が立ち並ぶ大通りを進み、やがて教会の隣にある診療所に到着する。
診療所の前に立った瞬間、アンジェリカは眉を寄せた。
入り口の外まで、毛布にくるまった患者が寝かされていた。建物の中が、既に満員なのだ。付き添いの家族が、不安そうな顔で身を寄せ合っている。
二人が馬車から降りると、診療所の医師が慌てて飛び出してきた。
「閣下! わざわざ、このような——」
「後にしろ。ローゼンベルク侯爵令嬢だ。薬草の知識がある。患者を診てもらう」
医師は困惑した顔で、アンジェリカを見上げた。明らかに「貴族令嬢に何ができる」という顔だった。
アンジェリカは、気にせず礼をした。
「よろしくお願いいたしますわ。まず、症状の記録を拝見してもよろしいでしょうか。それから、患者様を一人ずつ、診察させてください」
医師に案内されて、彼女は診療所の中へと入った。
狭い室内に、簡易寝台がびっしりと並んでいた。患者たちは皆、高熱に浮かされ、荒い呼吸をしている。空気は重く、汗と薬草の匂いが混じり合っていた。
アンジェリカは、まず最も近くの寝台に歩み寄った。
寝ていたのは、七、八歳ほどの男の子だった。頬は紅潮し、唇は乾いてひび割れている。瞼を閉じたまま、小さな体がぴくりと震えた。
彼女は、そっと男の子の額に手を当てた。
熱い——四十度近いだろう。
脈を取り、手首の内側の色を見る。次に首のリンパ節を軽く押し、腫れを確認する。瞼を静かに開いて白目の色を見る。
貴族令嬢とは思えぬ手際の良さに、医師も、付き添いの母親も、言葉を失っていた。
アンジェリカは、小さく呟いた。
「……黄疸は出ていない。肝ではない」
次に、彼女は母親に穏やかに尋ねた。
「発症の前後、この子は何か変わったことをしていませんでしたか。いつもと違う場所に行った、いつもと違うものを食べた、いつもと違う水を飲んだ——どんな些細なことでも」
母親は、震える声で答えた。
「……弟と、沼の近くまで、ザリガニを獲りに行っていたんです。一週間前に……。帰ってきてから、二人とも急に熱を出して——弟の方は、三日前に亡くなりました」
声を詰まらせる母親の手を、アンジェリカは静かに握った。
「辛いお話を、ありがとうございます。必ず、この子は助けますから」
その声は静かだったが、決意は固かった。
母親の目から、堪えきれず涙が零れた。
アンジェリカは、それから三時間、ひたすらに患者を診て回った。
一人一人、丁寧に症状を確認し、発症前の行動を聞き取り、居住地を地図に書き込んでいく。付き添いの者たちは、最初こそ訝しげだったが、彼女の真摯な態度に、徐々に心を開いていった。
ディルクハルトは、入り口の壁に凭れて、その様子を黙って見ていた。
汗で額に髪が貼り付いても、ドレスの裾が汚れても、アンジェリカは構わなかった。瀕死の老人の痰を取り、咳き込む子どもの背をさすり、母親の涙を拭う。
それは、貴族令嬢の姿ではなかった。
一人の、医師の姿だった。
昼過ぎになって、アンジェリカはようやく一息ついた。
地図を広げ、発症者の居住地を印で示していく。その印は、見事に、ある一点に向かって集中していた。北西の沼地——その風下の村々に、発症者が集中していた。
彼女は、ぽつりと呟いた。
「……風上は、無事。風下に、集中している」
「何か分かったのか」
ディルクハルトが、近づいてきた。
「まだ、確定はできませんわ。ですが、水や食物を介したものではなく——空気を介して広がっている可能性が、高うございます」
「空気……?」
「はい。おそらく、胞子か、花粉のような——小さな、目に見えぬ何かが、風に乗って運ばれています」
ディルクハルトの眉が、険しくなった。
診療所を出る時、あの男の子の母親が、アンジェリカの手を取って何度も礼を言った。
「ローゼンベルク様、本当にありがとうございました。あの子を、どうか、どうか」
「必ず、治す薬を作りますわ。もう少しだけ、お時間をくださいませ」
アンジェリカは、母親の手を両手でしっかりと握り返した。
馬車に戻ると、ディルクハルトが窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……侯爵令嬢とは、思えんな」
その声には、揶揄ではなく、感嘆が滲んでいた。
アンジェリカは、袖で額の汗を拭いながら、にっこりと笑った。
「それは、褒め言葉でございますわね」
ディルクハルトは、わずかに、笑った気配があった。
馬車の車輪が、沼地へ向かって、軋みながら進み始めた。




