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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第19話

 婚約が整ってから、三日が過ぎた。


 城の中は、静かな祝福に包まれていた。ヨハンが使用人たちに正式に知らせると、みな一様に頭を下げ、喜びを露わにした。特にリーゼは、アンジェリカの手を取って泣き出しそうな顔で「おめでとうございます」と何度も繰り返した。


 アンジェリカは、父ローゼンベルク侯爵にも、すぐに手紙を書いた。


 婚約のことを、丁寧に、けれども自分の言葉で。「ディルクハルト様のお側におりとうございます。この方と共に、この地に生きてまいります」——そう、書き添えた。


 父からの返事は、おそらく二週間ほどで届くだろう。


 雪深い冬の街道は、手紙の往復にも時間がかかるのだった。



 だが、父からの手紙が届く前に——別の使者が、城門を叩いた。


 それは、ある晴れた朝のことだった。


 城下町の通りを、鮮やかな紫のマントを翻した騎馬の一団が、駆け抜けた。王家の紋章を掲げ、先頭に立つのは、若い王室典礼官。彼らは堂々と城門前に到着し、謁見を要求した。


 玉座の間で、ディルクハルトは彼らを迎えた。


 隣には、アンジェリカも立っていた。


 典礼官は、恭しく巻物を取り出し、朗々と読み上げ始めた。



「王太子ユリウス殿下の名において——」


 彼の声が、広間に響いた。


「ローゼンベルク侯爵令嬢アンジェリカを、直ちに王都に召還する。殿下は令嬢との婚約を再考される意向であり、令嬢は一週間以内に王宮に参内すべし」


 広間に、凍りついたような沈黙が落ちた。


 ヨハンの顔色が、変わった。控えていた騎士団の幾人かが、思わず剣の柄に手をかけた。


 アンジェリカは、しばらく、耳を疑うような顔で、典礼官を見ていた。


 それから——。



 ふっ、と、小さく笑った。


 自分でも予想しなかったほど、軽やかな笑いだった。広間に響いたその笑い声に、典礼官は虚を突かれたように言葉を止めた。


「——何が、おかしい」


「いえ、失礼いたしましたわ」


 アンジェリカは、扇を広げて、口元を隠した。


「あまりに、可笑しくて。殿下は、ご自分のなさったことを、既にお忘れですの?」


「おのれ、王太子殿下の御名を——」


「典礼官殿」


 ディルクハルトが、低く遮った。


 その一声で、広間の空気が、ぴんと張り詰めた。



 ディルクハルトは、玉座から立ち上がった。


 背の高い彼が立つと、広間の誰もが、自然と体を硬くした。戦場で鍛えられた威圧感が、全身から立ち上っていた。


 彼は、ゆっくりと、典礼官の前まで歩み出た。


 そして、冷たく、告げた。


「アンジェリカは、既に、私の婚約者だ」


 典礼官の顔が、凍りついた。


「な——」


「三日前、正式に婚約を結んだ。書類は、近日中に王都の貴族院に提出する予定だ。——残念ながら、召還には、応じられん」



「し、しかし、王太子殿下の勅命——」


「勅命ではない」


 ディルクハルトは、鋭く言い放った。


「この書状を、よく見ろ」


 彼は、典礼官の手から巻物を、素早く、しかし礼を失わぬように受け取った。


 広間の光に翳して、彼は告げた。


「これには、国王陛下のご印も、王妃陛下のご印も、押されていない。王太子殿下の、個人の印があるのみ」


 典礼官の頬が、微かに引きつった。


「つまり、これは『勅命』ではない。王太子殿下の『個人的な要望』に過ぎん」


 ディルクハルトは、巻物を丁寧に巻き直し、典礼官に返した。



「私は、辺境伯として、王家からの正式な命令には、いかなる時も従う覚悟でいる。——だが、私的な要望には、お応えする義務はない」


「そ、それは——」


「王太子殿下におかれては、自らのなさった婚約破棄を、改めて思い出されるがよろしかろう」


 ディルクハルトの声は、冷たく、硬かった。


「衆人環視の中、公式の場で、ご自身で破棄された婚約だ。今になって、取り消すことはできん。それを私に迫るのは、辺境伯家への侮辱に等しい」


 典礼官は、わなわなと震えていた。


 彼は、明らかに、この状況を想定していなかった。王都の宮廷では、王太子の「命令」は絶対だった。それが、この辺境で、こうも堂々と拒絶されるとは——。



 アンジェリカは、ディルクハルトの隣で、静かに微笑んでいた。


 彼女は、何も言わなかった。何も、言う必要がなかった。ディルクハルトが、彼女に代わって、すべてを言ってくれていた。


 その背中は、大きく、頼もしかった。


 もう、誰にも、彼女を勝手に連れ去ることはできない。この男が、彼女の隣にいる。この事実だけで、彼女は、強くいられた。


「——お戻りいただこう」


 ディルクハルトは、典礼官に告げた。


「そして、王太子殿下にこう伝えていただきたい。『アンジェリカ・ローゼンベルク嬢は、グレイウルフ辺境伯ディルクハルトの婚約者として、グレイウルフ領にて、つつがなく暮らしている』と」


 典礼官は、蒼白な顔で、何度か口を開きかけた。


 だが、結局、何も言い返せずに、深く頭を下げた。



 使者の一団が、城を去った後。


 ディルクハルトは、アンジェリカの手を取った。


「心配をかけた」


「いいえ。わたくしは、怖くありませんでしたわ」


 彼女は、しっかりと彼の手を握り返した。


「閣下がいてくださいますもの」


「……これでは、済まないだろう」


「はい」


「王太子は、愚かだ。お前を、自分の都合の良い時だけ欲しがる。この拒絶で、さらに意固地になる可能性がある」


 ディルクハルトの灰青色の瞳に、冷たい光が宿った。



「アンジェリカ」


「はい」


「近いうちに、王都へ行かねばならんかもしれん」


「——わたくしも、ご一緒いたしますわ」


「危険だぞ」


「いいえ」


 アンジェリカは、扇をぴしゃりと閉じた。


「わたくしの件は、わたくしが、きちんと片をつけます。殿下には、わたくしから、直接、お引導を差し上げなくては」


 彼女の翡翠色の瞳に、穏やかで、けれど確固たる光が、宿っていた。



 その夜、ディルクハルトは、ヨハンとローゼンベルク侯爵への密使を手配した。


 王都で、何かが動いている。


 王妃からの情報、侯爵からの手紙、そして今日の召還状——点と点が、少しずつ繋がり始めていた。王太子は、自らの愚かさで、自らの立場を追い詰めつつある。その過程に、アンジェリカが巻き込まれぬよう、手を打たねばならなかった。


 執務室の窓から、遠く南の空を見つめる。


 ——王都か。


 久々に訪れることになりそうだった。


 彼の灰青色の瞳は、既に、次の戦場を見据えていた。


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