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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第18話

 その夜は、雪が止んでいた。


 夕食を終えたアンジェリカは、研究室に戻ろうとしていた。廊下の途中で、ヨハンに呼び止められた。


「ご令嬢、夜の庭園に、少しお出ましになりませんか」


「夜の庭園、でございますか」


「閣下が、雪の降り止んだ庭園を、お見せしたいと申されております」


 アンジェリカは、目を瞬かせた。


 ディルクハルトが、自分に何かを「見せたい」と言うのは、珍しいことだった。この男は、いつでも業務の話しかしない。


 ヨハンは、意味ありげに微笑んだ。


「ぜひ、暖かな外套を羽織ってお出かけくださいませ」



 アンジェリカは、支度を整えて、庭園に降りた。


 グレイウルフ城の裏手には、広い庭園がある。夏には色とりどりの薬草が咲き、秋には紅葉が美しいと聞いていた。だが、冬の今は、全てが雪に覆われて、白一色の世界だった。


 満月の夜だった。


 月光が、雪面に反射して、庭園全体が、青白く輝いていた。


 アンジェリカは、思わず立ち止まった。


 雪山の月光草の夜を、ふと、思い出した。あの時と同じ、満月。あの時と同じ、銀色の光。



 庭園の奥に、人影があった。


 ディルクハルトが、立っていた。


 彼は、黒いマントを羽織り、月を見上げていた。彼女の足音に振り向くと、穏やかに頷いた。


「来てくれたか」


「はい」


「こちらへ」


 アンジェリカは、雪を踏みしめて、彼の元へ歩み寄った。


 二人の足音が、雪の中で、くぐもった響きを立てた。近づくにつれて、彼女の心臓が、少しずつ早く鳴り始めた。



 ディルクハルトは、庭園の中央にある、枝振りの良い老木の下に立っていた。


 彼女が傍に着くと、彼は、ゆっくりと向き直った。


 月光の下、彼の灰青色の瞳が、柔らかく輝いていた。


「——一つ、話したいことがある」


「はい」


 アンジェリカは、すでに予感していた。


 ここ数日、ディルクハルトが何かを言おうとしては、呑み込む場面が何度もあった。雪山の洞窟で、研究室で、薬草園で——彼は、何かを抱えて、それを言葉にできずに、ずっと苦しんでいた。


 今夜、彼はそれを言うつもりなのだと、彼女は、直感していた。



「……以前、俺は、お前に求婚した」


 ディルクハルトは、いつもよりゆっくりと、言葉を選んで話し始めた。


「森で、お前を見つけた時のことだ。あの時、俺は『俺の領地に来い、ついでに妻になれ』と言った」


「はい、よく覚えておりますわ」


 アンジェリカは、小さく微笑んだ。


「お前は、あれを冗談のように受け流し、『正式に申し込んでほしい』と言った」


「ええ」


「あの時の言葉は——取り消す」


「……はい」


 彼女の心臓が、さらに、早く鳴った。



 ディルクハルトは、一度、深く息を吸った。


「最初は、お前の知識が必要だった。母の夢を、託せる人を探していた。それは、事実だ」


 月光の中で、彼の瞳が、揺れた。


「だが、今は違う」


「——閣下」


「今は、お前だから、隣にいてほしい」


 アンジェリカは、息を呑んだ。


「俺は、お前の知識が欲しいのではない。お前が、欲しい」



 ディルクハルトは、雪の上に、片膝をついた。


 辺境を守る、あの銀狼卿が。


 剣を振れば一騎当千、戦場で鬼神のごとく振る舞う男が。


 今、一人の女の前に、跪いていた。


 彼は、月光の中で、彼女を見上げた。


「アンジェリカ・ローゼンベルク侯爵令嬢」


「は、はい」


「俺の、妻になってくれ」



 アンジェリカは、喉の奥が、熱くなった。


 視界が、滲んだ。


 彼女の前に跪く男は、決して雄弁ではない。美しい言葉で飾ることも、優雅な仕草で彩ることもできない。ただ、真っ直ぐに、不器用に、自分の心を差し出しているだけだった。


 だからこそ、その求婚は、どんな詩人の言葉よりも、彼女の胸を、打った。


「——閣下」


 アンジェリカは、かすれた声で、呼んだ。


「ディルクハルト様」


 彼の名を、初めて、呼んだ。


 ディルクハルトの瞳が、大きく、開いた。



「わたくしで、よろしいのでしょうか」


「お前でなければ、誰でもない」


 即答だった。


 あまりに、迷いのない答えだった。


 アンジェリカは、思わず、小さく笑った。そして、溢れた涙が、頬を伝った。


「まあ」


「どうした」


「『ついで』とは、大違いでございますわね」


 ディルクハルトは、一瞬、きょとんとした。


 それから、ふっと、微かに笑った。



「……あの時のことは、一生、言われ続けるのか」


「はい、一生言い続けますわ」


「分かった」


「それでも、よろしいの?」


「それでも、いい」


 彼は、膝をついたまま、彼女の手を取った。


 大きく、武骨で、剣を持ち慣れた、硬い掌だった。だが、その手が、彼女の手を包む仕草は、この上なく優しかった。


「アンジェリカ」


「はい」


「答えを、聞かせてくれ」



 アンジェリカは、深く、息を吸った。


 月光が、彼女を照らしていた。雪が、静かに、二人を見守っていた。


 王都で婚約破棄された、あの夜のことを、彼女は思い出した。


 あの時、自由を得た、と思った。


 それは本当だった。だが、自由は、人生の終着駅ではなかった。自由の先に、こうして、本当に心を通わせられる人と出会うことが、ある。


 彼女の人生は、あの断罪の夜から、ようやく、本当の意味で、始まっていたのだ。


「はい」


 彼女は、はっきりと、答えた。


「ディルクハルト様。お受けいたします」



 ディルクハルトは、大きく、息を吐いた。


 彼は、立ち上がり、彼女をそっと抱き寄せた。


 一瞬、躊躇ったような間があった。それから、彼女の額に、そっと、唇を落とした。


 軽い、控えめな接触だった。


 それでも、アンジェリカの頬は、月光の下で、桃色に染まった。


「——もう一つ、聞いてよいか」


「はい、何でしょう」


「お前は、いつから、俺を、そう思うようになった」


 彼の声は、少しだけ、掠れていた。



 アンジェリカは、彼の胸に頬を寄せて、微笑んだ。


「……分かりませんわ」


「分からんのか」


「分からないのですけれど——雪山で、月光草を採ったあの夜。わたくしを見ておいでのあなたの瞳が、忘れられなくなりましたの」


「あの時か」


「はい」


 彼の腕に、ぎゅっと、力が籠った。


「俺も、同じだ」


 ディルクハルトが、静かに呟いた。


「あの夜、俺も、お前から目が離せなくなった」


 庭園の上空に、満月が静かに輝いていた。


 その光の下で、二人は、長いこと、互いの温もりを確かめ合っていた。


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