第17話
冬が深まるにつれ、アンジェリカの元には、様々な人間が出入りするようになっていた。
城下町の薬師、ヴァルドハイムから移住してきた新人、近隣の村から手伝いに来る女たち——みな、彼女から薬草の知識を学ぼうとしていた。アンジェリカは、午前中は研究室で調合を行い、午後は温室で実地指導を行う、というような日々を送っていた。
その中に、一人、特別に目を引く少女がいた。
名を、リーゼ・シュタインという。
城下町の下層、河岸の集落に住む、十五歳の娘だった。痩せた体に、くすんだ金色の髪を後ろで結っている。両親は疫病で亡くなり、今は年の離れた兄と二人暮らしだという。
彼女が初めて薬草園に来たのは、ある晴れた朝のことだった。
粗末な身なりの少女が、園の入り口で、おずおずと立っていた。警備の騎士が不審に思って声をかけようとするのを、アンジェリカは手で制した。
「あなた、どうなさったの?」
「……あ、あの」
リーゼは、緊張した声で答えた。
「ここで、働かせてほしくて」
アンジェリカは、彼女を園の中に招き入れた。
温室の暖かさに触れると、リーゼは驚いたように辺りを見回した。人生で初めて、温室というものに入ったのだろう。
アンジェリカは、お茶を淹れ、彼女を座らせた。
「お話を、聞かせてくださる?」
「あの……私、字は読めないし、薬草のことも、何も知りません。でも」
リーゼは、膝の上で両手を握りしめた。
「銀糸病で、お母さんを亡くしました。お父さんも、その前に流行り病で。——だから、病気を治す薬を作る仕事を、やってみたいんです」
「まあ」
「何でも、します。水汲みでも、掃除でも、薪運びでも。お給金は、ほんの少しでいいんです」
アンジェリカは、少女をじっと見つめた。
リーゼの目には、必死さがあった。それも、切羽詰まった必死さではなく、もっと、深く、静かな決意のような光が。
「あなた、薬草を一つでも見分けられるかしら?」
「……やってみます」
アンジェリカは、温室の棚から、似たような形の葉を持つ二つの薬草を取った。片方は解熱作用のある「白銀草」、もう片方は素人が見分けるのが難しい「毒人参」の芽である。
「どちらが、薬になる草かしら?」
リーゼは、真剣な目で、二つの葉を見比べた。
長い時間、彼女は葉をじっくりと観察した。指で触れ、匂いを嗅ぎ、光にかざしてみた。
やがて、彼女は、白銀草の方を選んだ。
「……どうして、分かったの?」
アンジェリカは、驚いて尋ねた。
「こっちの葉」
リーゼは、毒人参の葉を指した。
「裏に、小さな赤い斑点があります。お母さんが、小さい頃に言っていました。赤い点のある葉は、毒があるって。だから、食べちゃだめだって」
「……まあ」
「お母さん、昔、近所の子が毒草を食べて死ぬのを見たことがあったんです。だから、ずっと私に、葉っぱを見分けることを教えていました」
アンジェリカは、思わず小さく笑った。
目の前の少女には、稀有な観察眼があった。書物で学んだ知識ではなく、母親から受け継いだ、生きた知恵だった。
「リーゼ、と呼んでよろしいかしら」
「は、はい」
「わたくしの、最初の弟子になってくださる?」
リーゼは、息を呑んだ。
「でも、私、字が」
「字なら、これから覚えればよろしいの」
アンジェリカは、少女の手を取った。
「わたくしが、教えますわ。薬草の名前を覚えるついでに、文字も覚えましょう。それから、数字も。薬の調合には、計算が必要ですの」
リーゼの目に、みるみる涙が溜まっていった。
「……いいん、ですか」
「ええ。あなたは、わたくしが見込んだ逸材ですもの」
その日から、リーゼは薬草園の見習いとして働き始めた。
朝は温室の水やりと掃除、午前中はアンジェリカから薬草の名前と性質を習う。午後は読み書きの練習と、簡単な算術。夕方からは、他の薬師たちの助手として、実地で経験を積む。
驚くほど、覚えが早かった。
リーゼは、書物で学ぶ素養はなくとも、実地での観察と記憶力に、際立った才能を持っていた。一度見た葉の形は決して忘れず、一度聞いた薬草の名前は、翌日には完璧に発音した。
一週間で、彼女は温室の全ての薬草の名を覚えた。
二週間目には、簡単な字が書けるようになった。
ある午後、アンジェリカがリーゼに読み書きを教えているところに、ディルクハルトが通りかかった。
彼は、温室の外で、しばらく足を止めた。
中では、アンジェリカが帳面を広げ、リーゼと肩を並べて座っていた。優しく少女の手を取り、文字の書き方を教えている。リーゼは真剣な顔で、一画一画、ゆっくりと筆を動かしていた。
ディルクハルトの傍に、いつの間にかヨハンが立っていた。
「……あの方は」
老執事が、ぽつりと呟いた。
「あの方は、本当に、侯爵令嬢なのですか」
「……どういう意味だ」
ディルクハルトは、視線を温室に向けたまま答えた。
「左様、王妃教育を受けられた、れっきとした大貴族のご令嬢。それが、下層の孤児に、こうして平然と字をお教えになる」
「そうだな」
「閣下」
ヨハンの声には、微かな笑いが混じっていた。
「手の届かぬ方を、辺境に連れて来てしまわれましたな」
ディルクハルトは、苦笑した。
「——ああ」
彼は、温室の中のアンジェリカを見つめた。
彼女は、リーゼが書いた文字を見て、嬉しそうに何か褒めている。少女は、はにかむように、小さく微笑み返していた。
その光景は、とても、とても、穏やかだった。
ディルクハルトの心に、ふと、懐かしい風景が甦った。
——母も、そうだった。
領民の子どもたちを、よく城に呼んで、絵本を読んでやっていた。膝の上に座らせ、優しく字を教えていた。あの頃の城は、温かな声と笑いに満ちていた。
母が亡くなってから、ずっと、この城には、あの種類の温かさが、欠けていた。
それが、今、戻ってきている。
「ヨハン」
「はい」
「近いうちに、アンジェリカに、もう一度、求婚する」
老執事は、わずかに驚いた顔をした。
それから、深く、深く、頭を下げた。
「——ようやく、でございますか」
「……遅かったか」
「いえ、閣下にとっては、妥当な速度でございましょう」
「なんだと」
「閣下は、剣を振るのはお早いが、ご自分の心をお認めになるのが、大層、ゆっくりでいらっしゃいますからな」
ヨハンは、静かに微笑んだ。
ディルクハルトは、苦虫を噛み潰したような顔で、そっぽを向いた。
温室の中から、リーゼの嬉しそうな声と、アンジェリカの優しい笑い声が、漏れ聞こえてきた。
冬の陽が、温室のガラスを通して、二人の姿を、柔らかく照らしていた。
その光景を、ディルクハルトは、長い間、見つめていた。




