第20話
召還状を拒絶してから、十日が過ぎた。
その間にも、王都の情勢は、刻一刻と動いていた。ローゼンベルク侯爵からは、暗号を用いた密書が次々と届いていた。王妃エレオノーラが動いていること、財務長官が王太子の横領について内偵を進めていること——そして、王太子ユリウスが「グレイウルフ辺境伯に報復する」と公言して憚らないこと。
事態は、一人の女の婚姻を超えて、王家そのものの問題に発展しつつあった。
ディルクハルトは、決断した。
「——王都へ行く」
その夜、執務室で、彼はアンジェリカに告げた。
「正式に、二つのことを果たしに行く」
「はい」
「一つは、我々の婚約を、貴族院に正式登録すること。もう一つは、王家に、今回の一連の無礼について、正式な抗議を申し入れること」
「承知いたしました」
「アンジェリカ——」
彼は、一度、深く息を吸った。
「その前に、やっておかねばならんことがある」
アンジェリカは、首を傾げた。
ディルクハルトは、机の引き出しから、小さな絹張りの箱を取り出した。
彼は、それを彼女の前に、静かに差し出した。
「これを、受け取ってくれ」
「——これは」
「母の、形見だ」
アンジェリカは、驚いて、彼を見上げた。
ディルクハルトは、手ずから箱の蓋を開けた。中には、銀細工の指輪が一つ、小さな青い宝石を抱いて、鈍く光っていた。
「母が、父から贈られた婚約指輪だ。代々、グレイウルフ家の妻に受け継がれてきたものだ」
「……ディルクハルト様」
彼女の声が、震えた。
「気に入らなければ、新しいものを作らせる。ただ、——これが、俺の家の伝統で」
ディルクハルトは、少し、ぎこちなく続けた。
「母も、お前になら、きっと喜んで譲ってくれると思う」
アンジェリカは、そっと指輪を取り出した。
銀細工は、繊細で美しかった。月桂樹の葉をあしらった輪の中央に、北の海のような深い青の宝石。決して大きくはない。けれど、見れば見るほど、慈しみを持って作られたものだと分かった。
彼女は、長いこと、指輪を見つめていた。
やがて、顔を上げて、深く頷いた。
「——お母様の想いごと、大切に、お預かりいたしますわ」
ディルクハルトは、指輪を受け取ると、彼女の左手を取った。
薬指に、ゆっくりと、慎重に、滑らせた。
ぴたりと、誂えたように、収まった。
「……不思議だな」
「はい」
「母の指と、お前の指は、ほとんど同じ大きさらしい」
アンジェリカは、微笑んだ。
薬指で青い宝石が、灯りに照らされて、淡く光った。心臓の鼓動と共に、静かに、静かに、呼吸するように。
「王都には、これを嵌めて参ります」
「ああ」
「これを見て、誰もが一目で分かるように——わたくしが、あなたの妻であると」
それから、王都への出発は、一週間後と定められた。
ディルクハルトは、精鋭騎士団二十名を選抜した。ヨハンも同行することになった。王都の社交界に精通した老執事は、政治的な交渉の場でも頼りになる。アンジェリカの侍女も、二名が選ばれた。
出発の朝、城下町の民たちが、街道沿いに集まって見送りに出た。
中には、あの七歳の男の子と、その母親の姿もあった。男の子は、アンジェリカの姿を見ると、全速力で走り寄ってきた。
「ねえちゃ! いかないで!」
彼は、彼女の外套の裾を、小さな手で握りしめた。
「ずっと、ここに、いてよ!」
アンジェリカは、馬車を降りて、彼の前に膝をついた。
「あのね」
彼女は、男の子の目線に合わせて、優しく語りかけた。
「わたくしね、少しだけ、王都に用事があるの。でも、必ず、戻ってくるから」
「ほんとう?」
「ええ、ほんとう」
「やくそく?」
「約束いたします」
彼女は、小指を差し出した。男の子は、小さな小指で、それに絡めた。
二人の指が、冬の街道の上で、しっかりと結ばれた。
「良い子にしていてちょうだいね」
「うん」
「リーゼお姉さんの言うことを、聞くのよ」
「うん!」
男の子は、そう言って、母親の元に駆け戻った。
その光景を、馬上からディルクハルトが見ていた。
彼の灰青色の瞳に、静かな、しかし深い決意の光が宿った。
——必ず、この場所に、連れ帰る。
胸の奥で、誓った。
一行は、王都へ向かって出発した。
街道の両脇には、雪の積もった畑と、静かな森が広がっていた。冬の日差しが、馬車の窓越しに、アンジェリカの薬指の青い宝石を、淡く輝かせた。
彼女は、指輪を、そっと反対の手で包んだ。
——お母様。
心の中で、彼女は、会ったことのない義母に向けて呟いた。
——あなたの息子様を、必ず、あなたの元へ連れ帰ります。そして、あなたの夢の続きを、必ず、この手で、紡いでまいります。
馬車が、軋む音を立てて進んでいった。
ディルクハルトは、馬車の窓越しに、アンジェリカの横顔を見つめた。
その顔には、不安の色はなかった。ただ、凛とした、穏やかな決意だけがあった。彼女の目は、真っ直ぐに、南の王都を見据えていた。
彼は、思った。
——俺の妻は、強い。
この女と、共に戦うのだ。
王都で待ち受けるものが、何であれ——彼女と二人で、必ず、乗り越える。
銀狼卿の灰青色の瞳に、戦士の光が、静かに、点った。




