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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第13話

 下山は、登りよりも早かった。


 天候に恵まれ、一行は三日で麓まで降りることができた。採取した月光草は、アンジェリカが肌身離さず背負っていた。銀の桐箱の中、湿らせた苔に包まれた一輪は、微かに光を放ち続けていた。


 城に戻った時、出迎えたのは執事ヨハンだった。


 彼の顔を見て、アンジェリカは、事態の深刻さを悟った。


「ヨハン、容態は?」


「……この七日間で、新たに十二名が発症。三名が亡くなりました」


 アンジェリカの顔が、青ざめた。


 子どもも、老人も、若い母親も——命を、こうしている間にも失われ続けていた。



「研究室へ」


 彼女は外套を脱ぐのも忘れて、早足に歩き出した。ディルクハルトも、黙ってその後に続いた。


 研究室の扉を開けると、既に全ての調合器具が整えられていた。ヨハンが抜かりなく指示していたのだろう。蒸留器、乳鉢、天秤、色とりどりのガラス瓶——すべてが彼女を待っていた。


 アンジェリカは、旅装の上着だけを脱ぎ、袖をまくり上げた。


 そして、桐箱を慎重に開いた。


 月光草は、まだ、淡い銀色の光を失わずにいた。



 調合は、気の遠くなるような作業だった。


 まず、月光草の花弁を、花と葉と茎に分ける。それぞれを異なる温度で蒸留し、三種類の精油を取り出す。花の精油は毒を中和する働きを、葉の精油は体内の菌糸を無害化する働きを、茎の精油は熱を下げる働きを持つ。


 三種類の精油を、正確な比率で混合する。


 そこに、グレイウルフ領の薬草園で育てた補助薬草——銀梔子、紫蘇、山蒼朮——の煎じ汁を、黄金比で加えていく。最後に蜂蜜酒で延ばし、滑らかな液体に仕上げる。


 古い薬草書に記された、月光草特効薬の標準処方である。


 だが、それだけでは不十分だった。



 アンジェリカは、蒸留器の前で、何度も調整を繰り返した。


 標準処方は、あくまで「銀糸菌全般」に効く薬である。グレイウルフ領の沼地で発生した、この特定の個体に対しては、さらに微調整が必要だった。昨日の夕方から彼女は、持ち帰った菌糸の標本を顕微鏡で観察し、その特性を分析していた。


 菌糸は、通常種よりも胞子が小さく、肺への浸透性が高い。


 つまり、薬の浸透性を高める必要がある。


 彼女は補助薬草の比率を微妙に変え、試料をガラス瓶に取り分け、菌糸の標本にそれぞれの液体を垂らしてみた。顕微鏡を覗き込み、菌糸の動きを観察する。


 三度目の試作で、菌糸が完全に溶解した。


「——できた」


 彼女は、かすれた声で呟いた。



 気がつけば、窓の外は白み始めていた。


 彼女は、調合を始めてから、一睡もしていなかった。足元がふらつく。それでも、作業台を離れるわけにはいかなかった。完成した薬を瓶に詰め、保存用の蝋で封をしていく。一度に作れた量は、百人分。これをまず、最も重篤な患者から投与しなければならなかった。


 扉が、静かに開いた。


 ディルクハルトだった。彼もまた、ろくに休まずに戻ってきたらしい。


「できたのか」


「はい。ただいま、充填が終わりましたわ」


 アンジェリカは、手にした一本の小瓶を、そっと作業台に置いた。


 それから、もう一本を手に取って、蓋を開けた。



「何をしている」


「まず、わたくしが飲みます」


「——は?」


 ディルクハルトの顔色が、一気に変わった。


「何を言っている」


「新しい調合の薬は、安全性を確認してから患者様に投与するのが、鉄則でございますの。副作用、予期せぬ反応——それらをまず、健康な者で確かめます」


「それをお前がやるというのか!」


「わたくしは、この薬を作った者ですわ。誰よりも、処方を理解しております」


 彼女は、小瓶を口元に運ぼうとした。


 ——その手を、ディルクハルトが掴んだ。



「やめろ」


 彼の声は、低く、鋭かった。


「閣下」


「毒見なら、俺がやる」


「いいえ」


 アンジェリカは、首を振った。


「閣下がなさったところで、意味がございません。万が一、副作用が出て記録せねばならぬ時、閣下では正確な観察ができません。それに——」


 彼女は、少しだけ、声を落とした。


「閣下に、何かあったら、困りますわ」


 ディルクハルトの手に、力が籠った。


 彼女の細い手首を握るその手が、微かに、震えていた。



「——俺は」


 彼は、言いかけて、一度、口を閉じた。


 それから、もう一度、絞り出すように言った。


「お前に、何かあったら」


 それきり、彼は続けられなかった。


 アンジェリカは、彼の顔を見上げた。


 灰青色の瞳が、これまで見たことのない色を湛えていた。雪山で見た静かな熱ではなく、もっと、生々しく、剥き出しの——。


「閣下」


 彼女は、静かに言った。


「わたくし、子どもの頃から、何度も自分で調合した薬を試してまいりました。自分の作った薬を自分で飲めない者は、他人にも飲ませてはなりません」


「……」


「大丈夫ですわ。計算は、完璧でございます」



 ディルクハルトは、長いこと、彼女の手首を握っていた。


 やがて、ゆっくりと、力を緩めた。


「……ならば、俺の前で飲め。傍にいる」


「はい」


「副作用が出たら、すぐに言え。どんな些細なことでもだ」


「はい」


「約束しろ」


「——約束いたしますわ」


 彼は、それでも、まだ心配そうだった。


 アンジェリカは、もう一度微笑んで、小瓶を口に運んだ。



 薬は、ほのかに甘く、舌の上でひやりとした感触を残した。


 彼女は、ゆっくりと全量を飲み下した。それから、椅子に腰を下ろし、自分の脈を取った。呼吸、体温、舌の色、皮膚の色——一つひとつ、丁寧に観察する。


 ディルクハルトは、その前に立って、じっと彼女を見つめていた。


 一刻ほどが経った。


「……問題、ございませんわ」


 アンジェリカは、穏やかに微笑んだ。


「副作用も、異常反応も、何一つ。これで、患者様に投与できます」


 ディルクハルトは、大きく、息を吐いた。


 その顔に、今までに見たことのない疲労の色が、濃く滲んでいた。


「……早く、届けよう」


「はい」


 朝日が、東の窓から、差し始めていた。


 研究室の机の上で、銀色の薬瓶が、百本——新しい朝の光に、静かに輝いていた。


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