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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第12話

 翌日、吹雪は嘘のように去っていた。


 洞窟を出た一行は、さらに山の奥へと進んだ。雪は深く、馬はもう使えない。装備を背負い、徒歩で尾根を越えていく。アンジェリカも騎士たちと同じように、自分の荷を背負って歩いた。


 ディルクハルトは、何度も彼女を振り返った。


「大丈夫か」


「はい、ご心配なく」


 彼女は息を切らせながらも、足は止めなかった。頬は紅潮し、睫毛は凍り、それでも翡翠色の瞳は、澄んだ光を湛えていた。


 騎士たちは、そんな彼女を、畏敬の念を持って見るようになっていた。最初は「貴族令嬢のお荷物扱い」だったのが、今や「姫様」と自然に呼ぶようになっている。誰の指示でもなく、自発的に。



 満月の夜は、今夜だった。


 一行は、日暮れ前に目的地に到達した。


 標高三千尺ほどの尾根の北側、岩場に囲まれた小さな窪地。古い薬草書に記された、月光草の自生地である。雪に覆われているものの、岩陰には確かに、銀色の葉をした低い植物が、辛うじて頭を覗かせていた。


「——ありました」


 アンジェリカは、手袋をはめた手で、そっと葉に触れた。


 月光草。まだ蕾の状態だが、間違いない。銀色の葉の裏には、細い光の糸が走っていた。これは、月光を吸収して蓄える特有の葉脈だった。


「花は、月が昇ってから開きます。それまで、少し休みましょう」


 ディルクハルトは頷き、騎士たちに野営の準備を命じた。



 日が落ち、空は深い藍色に染まっていった。


 岩場の陰に焚き火を小さく起こし、一行は静かに月の出を待った。風は弱く、空気は凍りついたように澄んでいる。東の空が、ゆっくりと明るくなり始めた。


 アンジェリカは、ディルクハルトの隣に座っていた。


 二人は、昨夜の続きを話すことはなかった。だが、沈黙は、心地よかった。彼が隣にいるというだけで、彼女の心は、不思議と凪いでいた。


 やがて、東の尾根から、月が昇った。


 ——それは、息を呑むような光景だった。



 満月は、雪原を、青白く染めた。


 世界が、銀色の光に満たされた。雪の結晶が、一つひとつ、月光を反射して輝き、岩場の影は深く、深く、沈んでいた。


 そして、窪地の月光草が、一斉に、花を開き始めた。


 銀色の蕾が、ゆっくりと、まるで息をするように開いていく。花弁は透き通るように薄く、月光を通してさらに強く発光した。窪地全体が、地上に降りた天の川のように、光り輝いた。


「——なんて」


 アンジェリカは、声を詰まらせた。


 一生、忘れない。彼女は、そう思った。



 彼女は、銀の鋏と桐箱を持って、窪地の中へと入っていった。


 一株一株、花の状態を慎重に見極めていく。完全に開いたもの、まだ開ききらないもの、花弁の光が強いもの、弱いもの——全ての個体差を見定めながら、薬効が最も高い一輪を探していった。


 月が、中天に近づいていく。時間は、限られていた。


 彼女は、ついに、それを見つけた。


 窪地の奥、一番深い雪の中に、一際強く光る一輪があった。


 アンジェリカは雪を掻き分けて膝をつき、銀の鋏を取り出した。呼吸を整え、花弁を傷つけぬよう、慎重に、慎重に、茎を切った。


 ぱちり、と、小さな音がした。


 銀色の花は、彼女の手の中で、静かに光り続けていた。



 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 その時——。


 少し離れた場所に立つ、ディルクハルトの姿が目に入った。


 彼は、こちらを見ていた。


 いや、——見つめていた。


 月光の中で、彼の灰青色の瞳が、焚き火の時とは違う、静かな熱を帯びていた。戦場での鋭さでもなく、母の思い出を語る時の哀しみでもない。もっと、もっと、柔らかく、深い光だった。


 アンジェリカは、思わず、息を止めた。



 彼女の白い息が、月光の中で、ゆっくりと流れた。


 銀色の花を手に、雪に膝をついたまま、彼女もまた、動けなかった。


 ディルクハルトは、何も言わなかった。


 ただ、その瞳だけが、雄弁だった。もはや「業務」でも「母の夢」でもない——一人の女を見つめる、男の視線だった。


 アンジェリカの頬が、月光の下で、淡く染まった。


 彼女は、急いで視線を逸らした。心臓が、痛いほど鳴っていた。


「——採取、完了いたしましたわ」


 かろうじて、彼女はそう言った。声が、少し、震えていた。


 ディルクハルトは、ゆっくりと歩み寄ってきた。彼女の前に膝をつき、手を差し伸べた。



「立てるか」


「はい……」


 差し出された手を取ると、引き上げられた。


 気がつけば、彼の顔が、すぐ近くにあった。銀色の光の中で、吐く息が、白く、重なった。


 彼の瞳は、まだ、彼女を見つめていた。


 二人の間に、何か、柔らかく、壊れやすい空気が、ゆっくりと流れた。


 アンジェリカは、目を閉じかけた——。


 だが、ディルクハルトは、そっと、彼女の手の中の銀色の花を見下ろした。


「……帰ろう」


 静かな声だった。


「領民を、救うために」


 アンジェリカは、我に返って、深く頷いた。


「——はい」


 二人は、並んで窪地を歩き出した。手には、月光に濡れた、一輪の銀の花があった。


 月は、静かに、静かに、彼らを見送っていた。


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