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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第11話

 山に入って四日目、天候は急激に悪化した。


 朝までは晴れていた空が、昼過ぎには灰色の雲で覆われ、昼下がりには粉雪が舞い始めた。夕方が近づく頃には、視界が真っ白に閉ざされるほどの吹雪へと変わっていた。


 風は、刃のように肌を切り裂いた。


 騎士たちは身を寄せ合って歩き、松明も役に立たぬほどの吹雪の中、必死に足を進めていた。アンジェリカは、ディルクハルトの前でしっかりと外套の襟を握りしめていた。彼女の睫毛には、小さな氷の粒が凍りついている。


「——前方に、洞窟発見!」


 先行していた斥候の声が、風の向こうから切れ切れに届いた。



 ディルクハルトは即座に決断した。


「全隊、洞窟まで走れ! 吹雪を凌ぐ!」


 騎士団は、最後の力を振り絞って洞窟へと急いだ。アンジェリカも馬を降り、ディルクハルトに手を引かれて雪の中を進む。頬が痛いほど冷たく、指先の感覚はとうに消えていた。


 洞窟は、想像していたよりも奥深かった。


 天井が高く、奥行きも十分にある。かつて山賊や狩人が使っていたのか、壁際には石で囲われた古い炉の跡があった。騎士たちは手早く焚き火を起こし、馬を洞窟の入り口近くに繋いで毛布をかけた。


 ようやく、一行は一息ついた。



 アンジェリカは、火の傍に座らされた。


 ディルクハルトが自分の毛皮の外套を脱いで、彼女の肩に重ねた。すでに彼女は厚手の外套を着ていたが、それでも冷え切っていたのだ。


「閣下、ご自分が——」


「俺は平気だ。北で育った」


 アンジェリカは、小さく頷いた。


 無理強いしても彼は譲らないと、この数日で学んでいた。ありがたく、外套の温もりに包まれる。微かに、彼の匂いがした。革と、鉄と、清冽な冬の匂いが混じったような、不思議と落ち着く匂いだった。


 騎士たちは、各自で乾燥肉とパンの簡素な夕食を摂り始めた。食後には持ち回りで見張りに立ち、残りの者は横になって休む——山行きの規律は、確立されていた。



 やがて、洞窟の奥は、焚き火の爆ぜる音と、寝息だけが響く静寂に包まれた。


 アンジェリカは、眠れずにいた。


 体は疲れ切っているはずなのに、頭が妙に冴えている。明日以降の山行き、満月までの日数、月光草の開花条件——考えることが、次から次へと浮かんでは消えていく。


 ふと、彼女の隣で、微かに人の動く気配がした。


 ディルクハルトだった。


 彼は見張りの交代を済ませて、ちょうど戻ってきたところだった。焚き火の前に、アンジェリカと並ぶように腰を下ろした。



 しばらく、二人は無言で炎を見ていた。


 赤い火の粉が、時折、闇の中に舞い上がっては消えた。外では吹雪の音が唸っていた。だが、洞窟の中は、不思議なほど静かで、穏やかだった。


「……眠れぬか」


 低く、ディルクハルトが呟いた。


「はい。明日のことを、つい考えてしまって」


「そうか」


 それきり、また沈黙が落ちた。


 アンジェリカは、横目で彼の顔を見た。焚き火の光が、彼の横顔を淡く照らしていた。鋭い輪郭、高い鼻筋、引き結ばれた唇——いつもは硬質なその顔が、この瞬間だけは、どこか柔らかく見えた。



「——母のことだが」


 不意に、ディルクハルトが口を開いた。


 アンジェリカは、驚いて彼を見た。


「はい」


「ヨハンから、聞いたろう」


「少しだけ」


「母は、優しい人だった」


 彼の声は、いつもよりずっと静かだった。


「薬草を育てるのが好きで、領民の病を治すのを、自らの使命だと思っていた。俺が熱を出せば、夜通し薬を煎じてくれた。領民が怪我をすれば、貴族の身でありながら自ら診療所に駆けつけた」


 アンジェリカは、黙って聞いていた。


「十年前、同じような熱病が流行った。母は、自らも研究に加わり、薬草を調合し、患者を診て回った。そして——自らも罹り、三月後に、逝った」


 彼は、そこで一度、息を吐いた。


「俺は、十四だった」



「……お辛かったでしょう」


 アンジェリカの声は、小さかった。


「辛かった、というのとは違う」


 ディルクハルトは、炎を見つめた。


「悔しかった。母の夢を、俺は継げない。剣を振ることしか知らぬ俺には、薬草を育て、病を治すことは、できなかった。ただ、母が遺した書庫を守ることしか、できなかった」


「——それは」


「十年間、ずっと、思っていた。いつか、母の夢を継げる者が、現れないかと」


 アンジェリカの胸に、静かに、何かが込み上げてきた。


 彼女を修道院から連れ去った、あの「ついで」の求婚の真意が、今、ようやく、全て繋がった気がした。


 領民を救うため、だけではない。


 彼は——母の夢を、託したかったのだ。



「だから、わたくしを」


 ぽつり、と彼女は呟いた。


「そうだ」


 ディルクハルトは、顔を逸らすこともなく、まっすぐ炎を見つめていた。


「初めは、ただ、お前の知識が必要だった。森の中で、倒れた部下をあれほど鮮やかに救ったお前を見て——母に似ている、と思った」


「まあ」


「いや、似てはおらん。母はもう少し、控えめな人だった。お前はもっと、芯が強い」


 アンジェリカは、思わず小さく笑った。


「褒めておられるのか、貶しておられるのか」


「……褒めている」


 ぶっきらぼうな答えに、彼女はまた、笑った。



「だから、わたくしを選んだのですね」


 静かに、彼女は言った。


 ディルクハルトは、少しの間、黙っていた。それから、ゆっくりと、彼女の方を向いた。


 灰青色の瞳が、焚き火の中で、揺れていた。


「初めは、そうだった」


「——初めは?」


「今は、違う」


 アンジェリカの心臓が、跳ねた。


 その先を、彼は言わなかった。


 代わりに、彼は目を逸らし、焚き火に薪を一本くべた。火の粉が、洞窟の天井に向かって、淡く舞い上がっていった。


 外では、吹雪が、ようやく、収まり始めていた。


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