第10話
城に戻ったアンジェリカは、すぐに準備に取りかかった。
まず、疫病の患者たちを少しでも楽にさせるための対症療法薬を調合し、診療所に送り届ける手配をする。月光草の特効薬ができるまで、患者たちの命を繋ぐための薬だった。完治はさせられないが、熱を下げ、苦痛を和らげる効果はある。
次に、月光草の採取と運搬のための道具を揃えた。
銀製の鋏——鉄製では薬効を損なうため、銀でなければならない。月光草専用の桐箱、湿度を保つための苔、運搬用の革袋、記録用の帳面と炭筆。研究室の古い書物を開き、過去の採取例を一つひとつ確認していく。
気がつけば、窓の外は真っ暗になっていた。
扉が、控えめに叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、ヨハンだった。彼は銀の盆に、湯気の立つ茶と、薄切りのパンに生ハムを乗せた軽食を運んできていた。
「お食事もお摂りにならず、根を詰めておいでとのことで」
「まあ、もうこんな時間に」
「夜半過ぎでございます」
アンジェリカは驚いて、窓の外を見た。月が、中天に近い位置にある。疫病調査から帰って、既に六時間ほど机に向かっていたことになる。
「ありがとうございます、ヨハン」
彼女は、ありがたく茶を受け取った。
ヨハンは少し下がった場所に控え、机の上に広げられた書物や道具を、静かに眺めていた。
「——ヨハン」
「はい」
「閣下は、今、どちらに?」
「執務室におられます。山行きの準備で、指揮系統の再編成をなさっておいでです」
「そうですか」
アンジェリカは、茶を一口啜った。
温かい液体が、喉を滑り落ちていく。疲労が、じわりと体に広がった。
「閣下は、雪山に慣れておいでなのですか」
「ええ。先々代の頃から、国境警備のために竜の背骨山脈には頻繁に入っておいでです。ただし——」
ヨハンは、そこで一度言葉を切った。
「冬の山行きは、閣下ご自身が真っ先に危険に身を晒されます。部下を先にやらず、必ずご自分が先頭を歩かれる——そういうお方ですゆえ」
「……まあ」
「奥様を亡くされた十年前から、ずっと、そうでございます」
アンジェリカは、カップを両手で包んだ。
温もりが、指先に染みてくる。
「ヨハン、一つ、お願いがございますわ」
「何なりと」
「わたくしの分の防寒着を、できるだけ丈夫で動きやすいものに仕立てていただけませんでしょうか。毛皮の外套、厚手のブーツ、手袋——全て、実用第一で」
「承知いたしました」
「それから、昨夜お願いした道具一式、すべて銀製でなければなりません。鉄製のものを混ぜないよう、厳重にご確認くださいませ」
「既に職人に依頼してございます」
抜け目のない老執事に、アンジェリカは微笑んだ。
ヨハンは深く一礼すると、扉を開けた。そして、出ていく間際に、ふと振り返って言った。
「ご令嬢」
「はい」
「閣下の傍を、どうか、離れぬよう」
その声は、主の命令を伝えるものではなく——老執事自身の、祈りのようだった。
翌日から三日間、怒涛のような準備が続いた。
ディルクハルトは選抜した二十名の精鋭騎士団を編成した。雪山経験豊富な熟練者ばかりである。食料、天幕、医療品、松明——全ての装備が点検され、馬には特別な蹄鉄が打たれた。
アンジェリカは、薬草園から採取用の予備苗を育てる準備も整えた。万一、月光草の株ごと持ち帰れた場合、城の温室で増殖させるためである。
疫病の患者は、この三日間でさらに七人が亡くなった。
城下町の空気は、日に日に重くなっていった。
出発の朝、城の中庭には騎士団が整列していた。
アンジェリカは毛皮の外套に身を包み、防寒用の編み上げブーツを履いていた。背嚢には採取道具一式、腰には小さな水筒と非常食。貴族令嬢の面影は、もうどこにもなかった。
ディルクハルトは、馬上から彼女を見下ろした。
「最後に、もう一度問う」
「はい」
「本当に、行くのだな」
その声は、心配と、微かな期待が混じった、奇妙な響きを持っていた。
アンジェリカは、真っ直ぐに彼を見上げた。
「参ります」
「乗れ」
ディルクハルトが手を差し伸べた。
アンジェリカは、予備の馬に乗るつもりだった。だが、彼は自分の馬の前鞍を示していた。
「……閣下?」
「俺の前に乗れ。山道では、予備の馬は足手まといになる」
なるほど、と彼女は思った。
確かに、険しい山道では、一頭でも身軽な方が良い。貴族令嬢を別の馬に乗せて気を配るよりも、手元に置く方が、彼にとっても安全なのだろう。
アンジェリカは、差し出された手を取った。
強い力で引き上げられ、気がつけば彼の前に抱きかかえられるような姿勢で鞍に乗っていた。背中に、彼の広い胸が触れる。体温が、外套越しに伝わってきた。
思わず、頬が熱くなった。
ディルクハルトは、構わず手綱を引いた。
「出発!」
銀狼騎士団が、一斉に動き出した。
北へ、北へ。
一行は、冬の入り口に立つ竜の背骨山脈へと向かった。
馬蹄の音が、凍りついた大地に響き渡る。風は刃のように冷たく、空は鉛色に低く垂れ込めていた。アンジェリカは外套の襟を引き寄せ、ふと顔を上げた。
遠く、遠く——山の峰々が、白く輝いていた。
その向こうに、この地を救う花が、咲いている。
——待っていてくださいね。
彼女は、胸の奥で、そっと呟いた。そこには、あの七歳の男の子の顔があった。泣き崩れた母親の顔もあった。診療所で息絶えた老人の、安らかな死顔もあった。
必ず、この花を、持ち帰る。
背中に触れるディルクハルトの温もりが、なぜか、彼女に静かな勇気をくれていた。




