第14話
特効薬は、その日のうちに城下町の診療所へ運ばれた。
最初に投与されたのは、最も重篤な患者——老婦人と、あの七歳の男の子だった。アンジェリカは自らその場に立ち会い、医師に投与の手順を説明した。一度に全量ではなく、数時間おきに少量ずつ服ませる。体温、脈拍、呼吸を、逐一記録する。
「……効いている」
半日後、医師が信じられぬような声で呟いた。
老婦人の呼吸が、明らかに楽になっていた。男の子の頬に、赤みが戻り始めていた。熱は、まだ下がりきらないものの、上昇は止まっている。
翌朝には、二人とも、三日ぶりに意識を取り戻した。
それは、奇跡のように人から人へと伝わった。
「銀糸病の特効薬ができた」
「ローゼンベルクのご令嬢が作ったらしい」
「銀狼卿が、わざわざ雪山から花を取ってこられたと」
噂は、城下町から周辺の村々へと、風のように広がっていった。
アンジェリカとディルクハルトは、薬の増産に追われた。城の温室に月光草の株を植え替え、薬草園の補助薬草を総動員して、日々、調合を続けた。ヨハンが人員を手配し、城の使用人たちも手伝いに加わった。
一週間で、三百人分の薬が作られた。
二週間目には、城下町の患者たちの大半が、快方に向かっていた。
三週間目、アンジェリカは、あの七歳の男の子の家を訪ねた。
小さな石造りの家の前に、母親が立っていた。彼女はアンジェリカの姿を見ると、何も言わずに、走り寄ってきた。
そして、地面に膝をつき、深々と頭を下げた。
「ローゼンベルク様……この子を、救ってくださって——」
母親の肩が、震えていた。
アンジェリカは、そっと彼女を立ち上がらせた。
「お母様、どうか、お顔を上げてくださいませ」
「あなた様は、この子の命の恩人です。一生、このご恩は——」
「いいえ」
アンジェリカは、優しく、首を振った。
「わたくしは、ただ、自分にできることをしただけですわ。お母様が諦めずに、この子をずっと看病し続けてくださったからこそ、薬が間に合ったのです」
家の中から、男の子がひょっこりと顔を出した。
まだ少し痩せてはいるものの、頬には健康な血色が戻っていた。彼はアンジェリカを見ると、はにかみながら、近づいてきた。
「ねえちゃ……」
小さな声で、彼は呼んだ。
「あのね、ぼく、元気になったよ。おくすり、にがかったけど、がんばって、ぜんぶ、のんだよ」
アンジェリカは、膝をついて、彼の目線に合わせた。
「偉かったわね。よく、頑張ったわ」
「ねえちゃ、ありがとう」
「いいえ。あなたが強かったのよ」
男の子は、小さな手で、一輪の野の花を差し出した。
摘んできた白い小花が、彼の指の中で、少し萎れかけていた。
「これ、おれい」
アンジェリカは、その花を、両手で受け取った。
何よりも、尊い贈り物だった。
その様子を、少し離れた場所から、ディルクハルトが見ていた。
彼は、何も言わなかった。ただ、灰青色の瞳で、静かに彼女を見つめていた。その眼差しには、誇りと、感嘆と——そして、もう一つの、名前をつけようのない感情が、混じっていた。
帰り道、二人は馬車ではなく、並んで歩いた。
夕暮れの街道に、二人の影が長く伸びていた。
「閣下」
「何だ」
「わたくし、今、とても幸せでございますわ」
アンジェリカは、胸に白い小花を抱いて、微笑んだ。
「この花、一輪の方が、王妃の宝石よりも、ずっと重うございますわね」
ディルクハルトは、少しの間、黙っていた。
それから、ぽつりと、呟いた。
「……お前は、不思議な女だ」
それから数日のうちに、領民たちはアンジェリカを、ある名で呼び始めた。
「北の聖女」
彼女自身は、その呼び名に強く抵抗した。
「聖女などと、とんでもないですわ。わたくしは、ただの薬草学者でございますのに」
だが、領民たちの口を塞ぐことはできなかった。
疫病で家族を失った者、自らが死にかけた者、幼子を救われた者——彼らにとって、彼女は紛れもない救い主だった。城下町の広場には、彼女への感謝を込めた花束が、毎朝、誰かの手で供えられるようになった。
ある夜、執務を終えたディルクハルトが、研究室の扉を叩いた。
「入るぞ」
「はい、どうぞ」
アンジェリカは、夜遅くまで書き物をしていた。疫病の記録を、今後の参考のため、詳細にまとめているのだった。
ディルクハルトは、彼女の作業机の前に立ち、しばらく何かを言いかけては黙り——を繰り返した。
珍しいことだった。
いつも明快に号令を発する男が、言葉を探している。
「——感謝する」
ようやく、彼は言った。
「え?」
「お前が来てくれたおかげで、俺の領民は救われた。——俺自身も、救われた」
アンジェリカは、筆を置いた。
彼の顔を見上げる。灯りの下で、その灰青色の瞳が、いつもより深い光を湛えていた。
「閣下、そのようなこと」
「礼を、言わせてくれ」
彼は、一歩、彼女の前に進み出た。そして、机を回り込み、彼女の傍に膝をついた。
視線の高さが、同じになった。
「——アンジェリカ」
彼が、初めて、彼女の名を呼んだ。
翡翠色の瞳が、大きく、揺れた。
「俺は、お前を、ここから帰したくない」
ディルクハルトの声は、静かだったが、揺るぎがなかった。
「あの『ついで』の求婚は、取り消す。改めて、お前に——」
彼は、言葉を選ぶように、一度、深く息を吸った。
しかし、そこまで言って、彼は小さく首を振った。
「いや、今は、やめておく」
「え?」
「お前は疲れている。俺も疲れている。こんな時に、大事なことを言うものじゃない」
彼は、立ち上がった。
「……だが、近いうちに、もう一度、きちんと、言う」
アンジェリカの心臓は、痛いほど鳴っていた。
ディルクハルトは、それだけ言い残して、部屋を出ていった。
扉が、静かに閉まる音がした。
アンジェリカは、一人、机に肘をついて、熱くなった頬を、両手で覆った。




