#10 夕陽が昇る
響、奏、楷の三人は、静寂に包まれた別荘のリビングで、ペットボトルに入ったままのオレンジジュースを囲んでいた。
楷は、あの時話していたのが響だったことを、少ししてから知った。だからこそ自分の欠点が問題に上がった時、素直に仕事を辞めたのだ。
『青谷響』
そう聞いて楷は、真っ先に響が奏の妹であることに気付いた。そして今度は絶対に間違えない様、毎日名前を確認して手紙を届けていたのだ。
「僕が職を追われたのは、紛れもなく僕自身のせいです」
『でも先生は、私の心の音を聴いてくれた』
「え?」
『私本当は、もうピアノを続けるのは限界だった。でも、その異変に誰も気づいてはくれなくて。どんどん弾けなくなって、聴こえなくなっていくのに周りからはずっと評価されて。だんだんピアノが、自分が嫌になっていった。そのことに、先生だけが気付いてくれた。先生が、私を救ってくれた。それなのに……』
その時、ずっと黙っていた奏が静かに呟いた。楷には何故か、痛みに少し似た音がした。
「私のせいです。私が、貴方を——」
*
私には、一歳離れた天才ピアノ少女と称された妹が居た。両親も音楽をしていたけど、選択の自由はあった。それでも私は、音楽の世界を選んだ。
初めの頃は、響と一緒にピアノを習った。けれど結局、私は母と同じヴァイオリンを選択した。幼い頃に観た、母の舞台での姿に憧れたから。それに、妹と同じ土俵には立てないと思ったから——。
そんな奏も稀に、天才少女と称されることがあった。同級生ピアニストの結城伴と、天才コンビだなんて呼ばれ、二人でコンサートをすることもあった。
伴は、響と同じコンクールに出場する様な実力者。でも天才の響にはやっぱり叶わなくて、いつも二番手のピアニストだった。
「あんた達、天才姉妹が羨ましいよ」
それが伴の口癖だった。
「私と伴ちゃんだって、天才コンビでしょ?」
奏はいつも、そう言って笑った。
伴は奏の親友だった。そして奏と響は、実に仲の良い姉妹だった。
何をするにも響は奏と伴の後を追った。通う学校も、音楽教室も。学年が違っても互いのクラスはどうだとか、先生が誰でどんなだとか、とにかく何でも話す仲だった。
中学二年の春。
奏と伴のクラスは、楷が受け持つことになった。
担任が発表された時、クラスの生徒の半数以上が不服そうな顔をした。
生徒にも敬語で堅苦しく真面目な楷は、生徒達から厳しい先生だと思われていたからだ。
「僕は、人の顔を覚えるのが少し苦手です」
楷は、担任を持ったその日の挨拶で、生徒達にそう言った。
奏は初日にそんな事を言うなんて、少し変わった先生だなと思った。
「先に謝らせて下さい。でも、絶対に覚えます。傷つけることがない様、努めます。だから、僕に少しだけ時間を下さい」
そう言って楷は、頭を下げた。
すると一人の生徒が、自己紹介を始めた。自分はいつも、黒い眼鏡をかけていると。その言葉に楷は、感謝を述べ「眼鏡素敵ですね」と笑った。
そんな楷を見て、他の生徒達も次々に自己紹介を始めた。奏も、オレンジジュースが好きでいつも持っていると伝えた。
それから数日も経たずに、楷はクラスの生徒達と打ち解けた。奏の思った通り、楷は変わった教師だった。
帽子が好きだと言う生徒が居れば、帽子について調べ毎日被っている帽子の型番を当てたり、いちごが好きだと言う生徒と一緒に、グラウンドの隅でいちごを栽培したり。
オレンジジュースが好きだと言えば、色々なメーカーのオレンジジュースを買ってきて飲み比べの授業をしたりしていた。生徒の声に、とにかく耳を傾ける教師だった。声を受け止め、共に歩む教師だった。
奏も伴も、変わった教師の楷が好きだった。
*
木々が色づき始めた、ある日のこと。
奏は楷に、病院を勧められた。
昨日、耳が聞こえないと言った件だと。奏には、何のことだかまるで分からなかった。帰りに、楷には会っていない。でも、思い当たることはあった。
人の顔が覚えられない楷が、奏と誰かを見間違えた可能性だ。
昨日の帰り、奏の好物であるオレンジジュースを持っていたのは、妹の響だ。
その考えに至ったと同時に、奏は教室を飛び出していた。響の耳が、聞こえない訳がない。
奏は心の中で、必死に何度もそう唱えた。
——こんなに近くに居たのに、気付けないはずが無い。
奏は響に問い掛けた。響に「そんなはずない」「何の話だ」と、笑い飛ばして欲しかった。でも響は、何も言いはしなかった。
ただ寂しそうな、悲しそうな顔をしただけだった。
「気付けなくて……ごめん」
奏はそう言って、響の手を引いた。
——そうして響は、音に溢れた私達の世界から姿を消した。
それからすぐに、楷も奏の担任ではなくなった。
天才コンビと言われた奏の親友、伴の瞳が輝きを失い始めたのも、同じ頃だった。
「最近、どう?」
奏は伴に、そう尋ねた。
「どうって何。奏の方こそ、響どう?」
「まぁ、何とか。でももうピアノは……」
「そっか」
「でも、無理を続けるよりはね。先生が気付いてくれて良かったよ。……先生、何で辞めちゃったんだろうね」
伴は、何故か少し悲しそうな表情だった。
「伴ちゃん、やっぱ何かあった?」
「ごめん、私……」
「どうした?」
伴は、俯きながらあの日のことを話し始めた。
「あの日、昇降口で響を見かけたんだ。声掛けようと思ったら、先生が来て——」
伴はそのまま、その会話を聞いていたそうだ。
楷は響を、奏だと勘違いしている様だった。そのことは、楷のクラスの生徒なら不思議に思うことはない。問題は、その内容だった。
響の耳が聞こえないかもしれない。
——伴は、そのことを既に知っていた。ライバルだからこそ、分かることがあったのかも知れない。しかし響自身が、そのことを隠している様だった。だから伴も、黙っていた。
そして伴は、奏が気付いていないことも分かっていた。だが、伴が伝えてしまえば奏はきっと、気付けなかった自分を責めてしまうに違いない。
知るならそれは、響の口から出なくてはならない。伴はずっと、そう思っていた。
でもこのままでは、楷が奏に知らせてしまうかもしれない。善意だったとしても、それは奏にとって優しい言葉じゃない。
伴はただ、親友に傷ついて欲しくなかった。
「担任の楷先生さ、生徒の顔見分けられなくて間違えるんだよね。今日もさ、」
帰宅した伴は、そんな愚痴をつい親に漏らしてしまった。伴にはほんの僅かな、無意識の意図があったのかも知れない。
ただ少しだけ、奏と響が話をする時間を稼ぎたかった。
そんな我が子の話を聞いた母親は、すぐに学校へ連絡を入れた。
「そちらの楷先生、生徒の顔がわからないんですって? そんな人が教師だなんて、信じられませんわ。間違えられた生徒が、どれだけ傷付くとお思いですか?」
伴の母の保護者間での声は大きかった。
伴の些細な一言が、思いもよらず大きな問題となった。そして結果として楷は学校を辞め、響はピアノを辞めた。
「……私のせいなんだ」
伴は、そう静かに呟いた。
結局奏は楷から話を聞き、傷付いた。そして伴も、望んだ訳ではない繰り上げられた天才の称号を手に入れただけだった。
それぞれが、大切な人を想っていたはずだった。しかし想いは必ずしも、正しく伝わるものではないのだ。
奏は、もし自分も同じ立場なら、きっと同じことをしただろうと、そう思った——。
*
テーブルのオレンジジュースを見つめた奏は、決して伴の名前は出さなかった。
奏が母に話し、母が学校に話したとそう伝えた。響も、何も言わなかった。
「だから、私のせいです……先生は生徒に寄り添う、頼りになる先生です。先生は一度だって、人を傷つけていない。それだけは、確かです」
「そうでしたか。じゃあ、誰のせいでもないですね」
僅かな沈黙の後、響は何やらスマホに文字を打ち込んだ。
『ん?』
「え? あ、いや、2人共私のせいだと仰いますが、そうでしょうか? 僕が口止めしていた訳ではないので、奏さんは当たり前のことを言っただけですし、響さんに至っては直接は何も関わっていないのでは?」
楷はただ素直に、そう首を傾げた。
『でも、私と話しているのを見られたからで……』
「僕が勝手に、間違えてしまっただけです。すみません」
「でも、先生は仕事を……」
そう言った奏からは、後悔の音が聴こえた。
「今の仕事も、案外気に入っているんですよ。だから、気にしないで下さい。そもそも僕が、人の顔を判別出来ない事が、最大の原因だと思います」
「それこそ、先生は何も……」
「じゃあやっぱり、誰も悪くないですね」
その言葉を聞いて奏は目を丸くし、響はスマホの画面を楷に見せた。
『やっぱり先生は、変だね』
二人からは、安堵した様な音が聴こえた。
「そうですか?」
楷は真剣な表情で、そう言った。
『よし、じゃあ過去の話はおしまい。未来の話をしよう』
「急ですね」
楷は戸惑いつつも、響の言葉を待った。
『私はいつか、個展を開きたい。私の絵だけで埋め尽くしたその空間で、知らない老人が私の絵を買うの。妻との思い出を感じるなんて言ってね。そこには二人も居て、その様子を微笑ましく見ているの。どう?』
「素敵ですね」
『はい、じゃあ次は奏』
「え、私も?」
奏は躊躇いつつも、オレンジジュースを一口飲んだ。
「私はやっぱり、プロのヴァイオリニストになりたいかな。いつか母の様な大きな舞台に立つのが夢です。その為に音大に通ってて、来週から留学です」
「音楽、続けてるんですね」
楷がそう言うと、奏は少し照れくさそうにこう言った。
「はい、伴ちゃんも一緒に行きます」
「伴さんも……それは何よりです。もし可能なら、僕も楽しくやっているとお伝え下さい」
楷のその言葉で、本当は全て分かっているんだと奏は思った。
「はい、必ず伝えます」
『奏と伴ちゃんは、今も注目を集める名コンビなんだよ』
響はとても自慢げで、とても嬉しそうだった。
「凄いですね」
『まぁでも奏は、今だにオレンジジュースばっかり飲んでるお子ちゃまだけどね』
響が悪戯っぽくそう言うと、奏も少し子どもっぽく言い返した。
「別にいいでしょ。これが一番美味しかったんだから。ね、先生」
「授業でしましたね、飲み比べ」
そんな姉妹のやりとりに、いつの間にか楷の心にも愉快な音が響いていた。
あの日の生徒達が、未来に向かっている姿が実に微笑ましくて、教師をしていたあの頃のような高揚感に満ちていた。
いつか自分の欠陥も、愛おしく思える様な気がした。
『え、いいなぁ。私もしたかった』
「また、しましょう」
楷には二人の表情は、分からなかった。けれど、どこか楽しそうに笑っている様な、そんな音が聴こえた。
「……あ、もう時間です」
楷はそう言って、時を告げるスマホを見た。
「あの、明日は僕仕事が休みで……」
『そっか。奏も明日には帰っちゃうし、寂しいね』
「はい。だからと言うわけでは無いのですが明日、少し時間をいただけませんか?」
*
楷は二人を車に乗せ、ある場所に向かっていた。
「今日は、何するんですか?」
響の問い掛けを、奏が運転中の楷に口頭で伝える。
「課外授業。と言いたい所ですけど、実は頼みたいことがありまして」
「頼みたいこと?」
「はい。あるご婦人が今時な人に、電子機器の操作方法をご教授願いたいとのことでして」
「響、よく使ってるもんね」
『あ、それでこれ?』
響は、鞄の中から持ち運び式の無線LANルーターを取り出した。
「はい。田舎でもルーターがあれば、テレビ電話くらいは繋げるとのことだったのですが、僕の勉強不足でまだ最適の商品を見つけられておらず、今回だけ響さんにお借りしようと」
『これで良かったら、その人にあげるよ。持ち運ぶことがないから、余ってるんだ』
「それはとても助かります」
そんな会話を繰り広げながら山道を下った。
それぞれのドリンクホルダーには、いつものオレンジジュースが置かれていた。
農道を通り抜け、一軒の民家に辿り着く。
楷は、年季の入った引き戸を慣れた手つきで開いた。
「すみません、楷です。若者を連れて参りました」
楷がそう声を張り上げると、奥から千代が顔を出した。
「いらっしゃい、楷くん」
楷は両者の間に立ち、それぞれに紹介した。
「こちら今日手伝ってくれる奏さんと、響さん。そしてこちらは千代さんです」
「あら、助かるわぁ」
そう言って千代は、三人を居間にあげた。
『何から教えればいい?』
「これの設定と、使い方を教えてほしいとのことです」
楷はそう言って、棚の上に置かれていた真新しいタブレットを見せた。
「そうそう。遠くに住む娘と、テレビ電話が出来るって聞いて楷くんにタブレットを買ってきてもらったはいいものの、使い方がてんでわからなくてね」
千代は、お茶とお菓子を出しながらそう言った。
「では、僕は蔵の片付けをしてますので、そちらはお任せします」
「楷くんも悪いわね」
「いえ」
楷はそう短く返事をし、千代家の裏にある蔵の掃除に取り掛かった。
奏達も楷に言われるがまま、丁寧にタブレットの操作方法を教え始めた。
「これはこっちで大丈夫。通知とかはあった方が良いですよね」
「……通知。そうねぇ、きっとあった方が良いわよね」
千代は、やっぱりよく分かっていない様子だった。
『これで大体の設定は終わりだね。これ、ざっくりと使い方書いてみたから良かったら』
響は、数枚の紙を手渡した。
「あら、響ちゃんは絵も上手なのね」
千代にそう言われ響はどこか嬉しそうで、楽しげに机を指で弾いていた。
「試しに一度、かけてみますね」
奏はそう言って、自分のスマホから千代のタブレットに電話を掛けた。
「あ、音が鳴ってるわ。ここを押して、こっちのカメラのマークを……これで良いのかしら。もしもし?」
千代は、響から貰ったばかりの説明書を見ながらぎこちなくタブレットを操作した。
「もしもし、完璧です。これで娘さんとも、顔を見ながら話せます」
「嬉しいわ。二人共ありがとうね」
『着信音変えたりも出来るよ。する?』
千代は嬉しそうに頷き、響にタブレットを手渡した。
「千代さんは、音楽とか聴くんですか?」
「クラッシックを少しね。昔、楽器をやってたのよ」
「え、何してたんですか?」
そんな楽しげな会話が、蔵で作業をする楷の所にまで響き渡っていた。
*
空の赤色が、夕刻を告げていた。
「終わりました」
庭から楷がそう声を掛けると、台所の方から千代達が顔を出した。
「楷くん、お疲れ様」
「一応、蔵にあった農具以外の物は外に出したんですけど……」
楷と三人は、陽が落ち始めた庭に出た。
「あら、懐かしいわぁ。これ、重かったでしょう」
その視線の先には、少々古びたピアノが一台置かれていた。
「まあ、少し。それよりこれは、千代さんが使っていた物ですよね?」
想像するよりコンパクトなそれは、アップライトピアノと言うらしく限られたスペースでも弾くことの出来るピアノなのだそうだ。
「ええ、ずいぶん昔に趣味でね……そうだ。良かったら、貰ってくれない?」
千代は、そう言って奏達の方に体を向けた。
「私は弾かないし、響は……」
奏がそう言い淀むと、千代は不思議そうにこう言った。
「響ちゃんは、今も弾けるんでしょう? さっきも、指が動いてたわ。きっと体が覚えてるのね。古い物だけど、弾いてあげてくれないかしら?」
一番驚いた顔をしたのは、きっと響だった。
ピアノを弾くことは、弾ける日はもう二度と来ないと思っていたのだろう。それでも弾きたいと、そう思っていたのだろう。
だが、響は迷っている様だった。過去の暗い雲に、まだ覆われている様だった。楷と奏は、正しい言葉を探していた。その雲を吹き飛ばすことが、出来ずにいた。
そこに、千代の言葉が最も容易く響に光を見せた。
「あら、ピアノはピアニストしか弾いちゃいけない訳じゃないわよ? 私だって趣味で弾いていたし、別に上手じゃなくたって、弾きたい時に弾けばいいのよ。音楽ってきっとそういう、楽しい物でしょう?」
響は何やらスマホに打ち込み、楷にズイっと画面を見せた。
『先生、家に運ぶの手伝ってくれる?』
そう瞳を輝かせた響に、楷は穏やかに口角を上げた。
「もちろんです」
その様子を見守る奏からも、美しい光がキラキラと輝く様な音が聴こえた気がした。
「さ、みんなご飯食べて行って」
その日は、絵に描いた様な日本食をみんなで囲んだ。
楽しそうに食卓を囲むかつての生徒達を、楷は微笑ましく見守っていた。
しばらく日本を離れる奏が、響と日本での思い出を作れるよう。響がまた、輝く音を奏でられるよう。
今日は楷のそんな想いが込められた、先生としての紛れもない課外授業だった。




