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#09 消えゆく夢

 不自然な静寂が、楷の耳に響いていた。その時、奏が小さく呟いた。


「謝るのは、私達の方です」


 奏はあの頃とは違う、少し大人びた距離のある口調でそう言った。


『全部、私のせいだから』


 楷にはとても、分からなかった。響の言葉の意味も、その後悔の音の理由(わけ)も。


    *


 人生は少し、ソナタに似ているのかもしれない。

 夢の様な主題を立て、その夢に向かって生き方を展開していく。調や拍子を変えても、夢だけはいつも正しい旋律を刻み、繰り返し演奏を続けるのだ。


 私の夢は、ピアニストになることだった。

 ヴァイオリニストの母と指揮者の父に育てられ、一つ上の姉・奏とはまるで双子の様に物心ついた頃からずっと、二人で音楽だけをやってきた。奏はヴァイオリン、私はピアノ。私達は幼い頃から天才と呼ばれ、たくさんのコンクールで評価された。

 同年代で、同じ様にピアノに打ち込むライバルも居た。そんな仲間や家族に囲まれた、幸せな日々だった。私も、人生のソナタを演奏するのだと、そう思っていた。


 小学三年生になった頃。

 ピアノの音が遠く感じたり、声を掛けられてもどこから話し掛けられているのか分からないことがよくあった。しかし、ピアノを弾く分には何の支障も無かった。それどころか、今までと変わらぬ称賛を得た。だから、最初は気にも留めていなかった。

 高学年になると、少しずつ勉強についていけなくなった。みんなが聴こえている音と、私が聴こえている音には少し(ひず)みがあることに気付いた。それでも、ピアノの音だけは鮮明だった。幼少期から刷り込まれた確かな音が、私の中にはあったから。


 だから私は、今まで以上にピアノに打ち込んだ。

 すると、大きなホールで演奏が出来る様になった。最年少で単独公演を務めたと、少しばかり話題になった。同世代で初の快挙だった。

 耳が変でも問題ない。

 むしろ、私の耳が聞こえないわけが無い。私は誰よりも、そう思っていたのかもしれない。


「響、少し休憩したら?」


 専用の防音室でピアノに向かう私に、母はそう言って優しく肩に触れた。


「後ちょっとだけ」


 母は一度だって、私たち姉妹に無理な練習をさせたり、音楽の道を強制したりはしなかった。


「そう。あ、今度のコンクールが終わったら奏と三人で、食事に行きましょう。お父さんには内緒で、女子だけのスペシャルランチなんてどう?」

「いいね。練習頑張るね」

「無理はしないでね。応援してるわ」


 母は楽しそうに、リビングへ戻って行った。

 無邪気で私や奏に惜しみない愛情を注いでくれる母が、私は大好きだった。そんな母の居る音楽の道に進みたいと思った。

 母が褒めてくれたピアノで、いつか母と一緒に舞台に立ちたいと思っていた——。


    *


 中学に入った頃、響の耳はほとんど聞こえなくなっていた。人と話をすることも、少しずつ難しくなっていた。後ろから話しかけられると、全く反応が出来ないほどに。

 いつかドラマで見た読唇術を、下手に真似る日々だった。勉強も随分前に諦め、もうずっとピアノしかしていない。


 そんな時、響は奏から担任の話を聞いた。少し変わっているが、正しい先生だと。



 ある日の放課後。

 響と奏は二人並んで、昇降口に向かっていた。

 いつもの様に、奏の手には好物のオレンジジュースが握られている。


「あ、ごめん響。提出物出すの忘れた。ちょっと行ってくるから、これ持ってて」


 奏はそう言って、響にオレンジジュースのペットボトルを手渡した。


「うん。門のとこで待ってるね」


 私は奏からペットボトルを受け取り、昇降口で靴を履き替えた。


「あ、奏さん」


 そう、響の背後から教師が声を掛けた。

 しかし、響にはその声が聞こえなかった。それでも気配を感じ、響は振り返った。


 そこには男性教員の姿があった。その教師は続けて「さようなら」と、表情を変えることなく、でもとても穏やかそうにそう言った。

 教師の首から下がった名札には、『渡瀬』と書かれていた。話に聞いていた、奏の担任だった。


 楷は僅かに、響の手元のペットボトルに視線を移した。響もその視線を気にしつつ、何故自分のことを知っているのだろう。何よりまず、そう思った。しかし直ぐに、奏が話したのかも知れないなとも思った。


「今日も練習ですか? 頑張ってくださいね、ヴァイオリン」

「うん……」


 響は咄嗟にそう返事をしたが、とてつもない違和感を感じた。楷の口が、『ヴァイオリン』と動いた気がしたから。ピアニストを目指す響に、ヴァイオリンと言うのはいくら何でもおかし過ぎるから。


 その時響は、ふとある事を思い出した。奏から聞いた、楷は人の顔を覚えるのが少し苦手だという話だ。しかし、響と奏はいくら双子の様に育ったとはいっても、所詮姉妹だ。見分けが付かない程ではない。

 そもそも担任を持っている生徒と、学年も違う響を間違えるのだろうか。


 全く人の顔を区別出来ない人が居るということを、その頃の響は知識として知らなかった。でも恐らく楷は、響の事を奏だと勘違いして話し掛けている。

 そのことだけは響にも、何となくすぐに理解が出来た。


「まだ、帰らないんですか?」


 響の困惑は楷の耳には正しく届かず、勘違いしたまま質問を続けた。


「あ、えっと、待ってる」

「あ、妹さんですか? 確か、ピアノをされている」

「うん」


 その妹が私です。なんて思いながらも、響は口には出さなかった。響自身も何故そうしたのかはよく分かっていなかったが、楷を傷付けまいとしたのだろう。それに響も何となく、その方が気が楽だったのだ。


「耳、聞こえにくいですか?」

「え……」


 その言葉に、響は心底驚いた。

 響を響だとは分からないのに、今まで誰も気付かなかったことを、さらりと言い当ててしまう。

 奏の言っていた通り、少し変わった先生だと響は思った。


「違うなら良いんです。その……あくまで一つの可能性を言ってみただけで、すみません。気にしないで下さい」


 響は、思わず頬を緩めた。


「僕の声が小さかったとか、話すのが下手だとかそっちですね、きっと。では、また明日」


 そう言った楷の声は、響にはほとんど聞こえていなかった。


「ありがとう」


 響はただ嬉しくて、そう呟いた。


 楷だけが、本当の自分を見てくれた。気付いてくれた。響はそう思った。誰も知らない心の声を、楷だけが聴いてくれた様だった。

 ——ピアノの伴奏の様に、私にそっと寄り添ってくれた。そんな気がした。



 翌日。

 終礼が終わると、教室の外にすごい剣幕(けんまく)の奏が待っていた。


「何?」


 響はそう尋ねたが、奏は黙ったまま響の手を引きズンズンと家の方へ歩き出した。

 学校を出て、最初の曲がり角を曲がった辺りで響はまた、声を掛けた。


「どうした? なんか怒ってる?」


 響のその言葉に、奏は凍った様に足を止めクルッと振り返った。


「響、聞こえてないの?」


 響にはすぐ、楷が勘違いしたまま奏に話したのだと分かった。


 ——私の秘密は、ここで終わる。


 そう響は思った。喪失感と絶望そして、僅かな安堵。それらが一気に響の中を占領した。


「耳が聞こえにくいって何? ピアノの音も、私の声も、ずっと聞こえてなかった?」


 何も答えない響を見て、奏は悟った様にまた歩き出した。その口元は『ごめん』響には、そう動いた様に見えた。


 その日の内に、響は病院に行って検査を受けた。

 騒音性感音性難聴と診断された。


 以前の様に、耳が聞こえる様になることはないとのことだった。父も母も、気づけなかった事をとても悔やんでいた。辛い思いをさせてしまったと、何度も何度も響に謝った。


 そして響は、学校に行くのをやめた。


 母の勧めで、ピアノや今までの環境から距離を取るためだった。勉強が必要なら、家庭教師を付ければ良いと。幸い響の家は、裕福だった。


 響の世界は、それから直ぐ静かになった。

 響は夢を、失った。


 ピアノを置いていた部屋に入ることも無くなり、響はピアノに触れられない手持ち無沙汰を、絵を描くことで補った。不思議と熱中することが出来た。

 母も上手だと、響の絵をよく褒めてくれた。その表情は、少し辛そうだと響は思ったが、音の無い静かな人生も悪くないと思えた——思い込もうとした。


 しかし響がどれだけピアノから、音楽から遠ざかっても不意に音楽を感じてしまう。

 何故なら響の家は、有名な音楽一家だから。毎日の様に誰かが何処かで音楽に触れ、練習を繰り返す。来週はコンクールで、来月は演奏会だと。そんな会話の旋律が飛び交うのだ。

 そんな中、響は音も無く一人で絵を描く日々だった。


 家族も次第に響の前で、音楽の話を避ける様になった。辛そうな顔で響を褒め、優しく接する様になった。そんな空気も、そうさせてしまう自分も何もかもが、響には耐えられなかった。

 家族の正しい優しさが、今はただ痛かった。


 こうしてかつての天才ピアノ少女は、邸宅に住む何者でもない孤高の女性になった。



 響は音楽を辞め、高校にも進学しなかった。

 しかし、別荘での暮らしは快適そのものだった。母親が付けた家庭教師も、父親から振り込まれる生活費も十分だった。


 耳の事もやっと受け入れられる様になり、音声読み取りアプリなんかをスマホにダウンロードするくらいだった。活用する機会はそれほど無かったが、その代わりに絵を描く時間が沢山取れた。

 学校にも通わず、働きもせず、絵を描くことを生き甲斐に変えて、懸命に前だけを向いて過ごしていた。

 幸い響の家は、裕福だった。


 それでも時々、思い出したかの様な絶望が押し寄せる。自分で選んだ一人の時間に、孤独に飲まれ、もうピアノは弾けないと。母と並んで演奏することは出来ないと。ソナタを弾くことは、もう永遠にないのだと。



私は音を、失ったのだと——。



 そんなある日、響の住む別荘に二人の郵便配達員が来た。

 以前は鏑木一人だったが、少し若い男性が一緒に来ていた。今度から配達を担当する新人だと、鏑木は響に説明した。


 しばらくすると、その新人が一人で来るようになった。

 新人は帽子を深く被り、俯き加減であまり話すこともない。手紙を届けると直ぐに帰ってしまうが、いつも丁寧に名前を確認して間違いなく手紙を届ける配達員だった。



 その日は珍しく手紙を届けたにも関わらず、配達員はしばらく玄関に立ち尽くしていた。他に郵便物があるのかと響は思ったが、どうやら違うようだ。

 不思議な沈黙の後、困った様に帽子をフワッと被り直した。

 響は自分の目を疑った。居るはずのない人の顔が見えたからだ。



 それは、——私の耳の不調に、心が壊れそうな音に、唯一気付いてくれた人だった。



 先生、そう声を掛けようとして響は躊躇(ためら)った。


 ——先生は、私のことを覚えているのだろうか。覚えていないのなら、このまま——


 響は、また別人のフリをした。

 ただこの孤独から、抜け出したくて。ただ、楷に助けてもらいたくて。


 響は楷を少しでもこの場所に繋ぎ止めようと、急いで部屋に戻り、手紙に書かれた言葉の意味を尋ねた。

 楷はいきなりにも関わらず、嫌な顔一つせず丁寧に説明を始めた。そのことがすごく嬉しくて、やっぱり少し変わった先生だ。そう響は思った。


 また誰にも聞こえない心の声を、確かに聴いてくれた気がした。音を失くし、ピアノを手放した響の、心を流れる唯一の伴奏。

 静寂の世界のどこかで、ソナタが聴こえた様だった。


 響はこの音を、今度こそ失くすわけにはいかなかった——。


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