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#11 Coda

 いつにも増して鮮やかな黄昏の空が、白い季節はすぐそこだと告げていた。


「いやぁ、まさか楷先生が来てくれるとは」


 顔を見なくても分かる様な嬉しそうな声で、早瀬はそう言った。


「別に、いつもわざと断っていた訳では……」


 楷は、烏龍茶の入ったジョッキを持ち上げた。


「私服だと、名札とか無いっすもんね」

「……早瀬先生って、ずっと気付いてましたよね」

「当たり前っすよ。俺、繊細なんすから、そういうのすぐ分かるっす」



 夕陽町には、夕陽が沈んだその後に光を灯す店が一軒だけ存在する。二人はそんな町で唯一の居酒屋に居た。

 早瀬と楷は初めて、飲みに来ているのだ。



「で、どうだったんっすか?」


 ビールの泡を上唇に付けた早瀬が、そう尋ねる。


「無事、滞りなくというところですかね」


 楷は少しだけ口角を上げてそう言った。


 あれから奏は、留学のため日本を発った。楽しく元気にやっているらしい。時たま届く、響宛の手紙にそう綴られていたらしい。

 響の方も無事、作品展の最終日を迎えた。主催者に目を掛けられ、週末だけギャラリーで働かせてもらえる事になったらしい。いつか個展を開く夢も、さほど遠くはなさそうだ。そして母親への手紙も無事、書き上げたのだった。


 手を上げた早瀬は、おかわりのビールを頼んだ。


「響さんのお母さん、ちょくちょく来てるみたいっすね」


 楷も勢いよくジョッキの烏龍茶を(あお)り、おかわりを注文する。


「はい。手紙を読んだそうで、よくお見かけしますね」

「一緒には、暮らさないんっすか?」

「どうなんですかね。今は、色々なことに触れたいとは仰ってましたけど」


 響は最近、千代の家に行っては農作業を手伝い、自然豊かな山々やそこで働く人々を描いているらしい。



 注文していた焼き鳥と飲み物を、店員の男性が勢いよくテーブルに乗せた。


「ところで早瀬先生、今日はまた何用でこんな山奥まで?」

「嫁の里帰りってのもありますけど、一応俺の故郷っすから」


 早瀬の父は郵便局長の鏑木だ。両親は離婚したものの、早瀬の妻が千代の娘ということもあり、早瀬はよく夕陽町に顔を出していたのだった。


「あ、そうでした。丈さん、呼びますか?」


 楷はそう言って、スマホを取り出した。


「いや、呼ばなくていいっすよ。これから毎日の様に会うんですから」

「それは僕も、同じじゃないですか?」


 早瀬は春から、この夕陽町の郵便局に郵便局員として配属となったのだ。

 元々早瀬は、郵便局で働きたかったらしい。

 母親はそんなことは気にも留めていなかったらしいが、共に暮らす母親に申し訳ないと諦め教師になったそうだ。しかし今期で鏑木が現役を退くことになり、妻の里帰り出産を機に夕陽町で暮らす事に決めたそうだ。


 春からは楷と早瀬、また同じ職場で働くことになる。もちろん鏑木は退職後も、郵便局の隅で住民達の悩みに頭を悩ませ、居眠りを続けるのだ。



「また、よろしくお願いしますね。楷先生」


 早瀬はニヒルな笑みを浮かべ、焼き鳥を口へ運んだ。


「早瀬先生、僕はもう先生ではないですよ」

「それを言うなら楷先生も」

「あ」

「じゃあ俺が光之助(こうのすけ)だから、楷くん、(こう)くんで!」

「……それより千代さん、せっかくタブレットの操作覚えたのに娘さんが帰ってくるなら必要なかったですね」


 楷は早瀬の言葉を華麗に避け、話題を変えた。


「あ、それが案外使ってるみたいっすよ。農協の人とのやり取りとか、遠くの知り合い、それこそ奏さんともたまに話してるらしいっす」

「そうだったんですね。それなら良かったです」

「はい。楷くんのおかげっすね」


 早瀬は、そう言って少年のように微笑んだ。

 楷は少し照れくさそうに、今度はぎこちなく話題を変えた。


「……そろそろお開きにしましょうか」

「何でっすか?!」


 楽しそうな二人の夜は、この後もまだ少し続いた。



    *


 ——二年後。


 男は、一枚の絵を眺めていた。

 その絵はどこか懐かしく、哀愁を感じる。

 けれどもとても美しくて、温かい。



「こちらの絵は、購入出来るのかね?」


 見知らぬ老人が、男にそう尋ねた。

 男は少し驚いた様に、「はい」と静かに答えた。


「この絵を見ているとね、亡くなった妻を思い出すんだよ。ピアノを弾く人だったんだ。まるで本当に、私の記憶を見ている様だよ」


 老人がそう言って眺めている絵には、『記憶』そうタイトルが付けられていた。


「いきなりすまなかったね。では、失礼するよ」


 老人はそう言って、去っていった。


「……本当に夢を、叶えたんですね」


 そう呟いた男の手には『青谷響 初個展の招待状』と記された葉書が握られていた。

 そんな男の肩に、誰かが優しく触れる。


「楷先生」


 振り向くとそこには、楽しげに微笑む奏と響の姿があった。


『今からここで、小さな演奏会があるから見ていってね』

「今日だけの、スペシャルステージです」

「はい、楽しみです」


 楷はそう言って準備に向かう二人を見送り、手に持った葉書を誇らしげに見つめた。


 しばらくすると会場に綺麗な声のアナウンスが鳴り響き、小さなステージの前に観客たちが集まり始めた。

 たくさんの絵に囲まれた小さなステージ。

 ステージに立っているのは奏と——かつて、天才と称されたあの頃のままの響だった。

 訪れた人々は誰もが、二人の姿に釘付けだった。観客からも、温かい音が響いていた。


 それはきっと過去の天才姉妹では無く、今の美しく寄り添う姉妹に向けられた、純粋で優しい祝福の音。

 楷の瞳にもその美しい人々の、姉妹の輝く表情がはっきりと見える様だった。


「きっと僕はこの景色が、見たかった」


 そう呟き、楷はステージで輝く二人の姿を目に焼き付けた。


 いつか語った未来を過ごす三人はまるで、温かく美しい絵画の様な景色だった。

 そんな三人の姿を、一枚の絵だけが見守っている。


 人生を(とも)に奏でてきた、悲しくて寂しくて、どこか懐かしい大切な過去達。

 窓から差し込む夕陽の光が、過去を優しく照らしている様な。今に寄り添う輝きが、正しく響き渡る絵だった。

 ——『伴奏者 画家・青谷響』


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