33
教室が近づくにつれ、通太には、ある目的が芽生え始める。
先生に謝り、胸につかえていたものは多少なくなったが、金曜日、一年五組の生徒たちには、奇行をさらけ出している事実はまだ残っており、そこのところはまだ、彼の中では消化されていなかった。恥辱に堪えないと、と自分を戒める。
――目的――
自分の机につくえがいるかもしれないという希望は、まだある。
彼の中では風前の灯なる希望にも思えていたが、確認したいという気持ちはずっと持ち続けていた。だが裏腹に、確認したくない気持ちもあった。声が聞こえない場合、本当につくえとの関係は終わってしまっているという現実を飲みこまなくてはいけなかったからだ。だがそれも教室に入らないといけない。奇異の視線が群がる教室に。
一年五組の前まで来た。
綾乃は、当然のことながらなんの躊躇もなく、教室に入って行く。
通太は立ち止った。
だが、早く確認したい、つくえのことを。
彼は密林を掻き分ける心境で教室へと踏み込んでいった。教室内にいる生徒は見ない。
視界は散漫。音も生徒の声もなにも聞こえない。
とにかく机へ。彼の今の最大の目標は、机に到着し、突っ伏すこと。
向こうの窓から三列目、前から三番目、そこが通太の席。
朦朧な意識のままなんとか到着。カバンをフックにかけ、すぐさま椅子に座る。
薄く開けていた目を完全に閉じ、深呼吸をし、いざ、机に覆いかぶさろうとする。
が、声が。
「稀川くん!」
という声がした。
「へ?」
通太が目をあけるとそこには近藤加奈と数人の女子生徒が立っていた。
「あ、ああ……」
近藤加奈に金曜日の件で怒鳴りつけられる。そう通太は思い、奥歯を噛みしめ顎を張った。
しかし通太の耳に届いた言葉は予想外の優しい声色で、内容も意外であった。
「稀川くん……ごめんね。あなたのこと誤解してて」
「ふえ?」
「全部綾乃から聞いた。あなた、綾乃を守ろうとしてくれていたのね。たった一人で」
「あの……なんのこと――」
そう言いながら、通太はチラッと綾乃の方を向いた。彼女はまたウインクする。
「……」
「とにかく、私たち稀川くんに謝りたくて……。それじゃ」
近藤加奈たちは、立ち去った。
通太は何が起きているのかちんぷんかんぷんで、首を傾げたり、頭を掻いたりした。
やはり一波綾乃の主導で何かが起きている。
それを聞き出そうと、登校中も一波に質問したが、堂地の乱入で答えは聞き出せなかった。
再び、一波綾乃に目を向けると、彼女は、近藤加奈たちと楽しそうに喋っている。
(――あ、そうだ)
通太はつくえの存在を確かめるため机に突っ伏す。これが今日の最大の目的だ。
その横を、たった今登校してきた盛奥が通り過ぎる。通太を横目に見ながらだ。
彼は、カバンを机に投げやると、先に登校している自分のグループの輪に加わる。
「おう、盛奥」
「どう? 一波に蹴り教えてもらえるのか?」
「あ? ああ。まぁな」
盛奥は、机にうつ伏せる通太に目を移す。
その視線に気がついた男子生徒が思い出したように言う。
「そういえばさっきよぉ、近藤たちが稀川になんか謝ってたぜ」
「そうなんだよ、なんだったんだあれ。なぁ?」
「ああ。なんか異様だったよな」「おう」
盛奥のグループは、その話題で盛り上がる。
「あいつよう――」
そこへ唐突に盛奥が口を開いた。皆、注目する。
「稀川って、すげえんだよ」
「なにが?」
「俺、あいつに蹴り習うんだ」
「はぁ?」
盛奥の友達たちは、そろって顔をしかめた。
「なんでおまえが稀川から蹴り習うんだ?」
盛奥の友達らは話がまったく見えてこない。
「先週の金曜日、近藤と一波の家に行ったろ――」
盛奥は話しだした。
稀川通太は本当はすごいんだぞ計画
一波綾乃が勝手にこう命名した計画は、うまくいっている。
彼女が、この計画を思いついた発端はズバリ通太への恋慕による。
彼女も予期せぬ通太への恋は、通太がつくえの為に、笹山露子が属するクラスを知るために、綾乃のお姉さんへ露子のクラスを教えてもらうということから、端を発している。
そのことを頼んできた通太の必死の顔に、綾乃はイチコロとなったのだ。
かつて、綾乃に告白してきた男子は多くいた。しかし悉く撃沈。頭脳明晰、容姿端麗な人物も彼女の心を射とめることは無理だったのだ。ではなぜ、通太が選ばれたのか? それは彼の必死さが伝わったから(通太は付き合いを求めたわけではないが……)。表情、声の大きさ、動作。全てが一波綾乃にとって合格だった。それで心がときめき、通太に恋した。このことは、彼女にとって初めてのことだった。異性を好きになるということがこんなに自分を占めることなんだと彼女自身驚いた。しかしすぐに、つくえに体を乗っ取られ、恋にときめく乙女はできないでいたが、つくえが体からいなくなったため、晴れて、通太を想うことを再開できた。
想うことを再開したのと同時に彼女は通太を上昇させようと画策する。
力なし、覇気なしという、どうしようもない高校生とクラスメイトに認識されている通太。が、稀川には、実は秘めた力強い情熱がある。それを知った綾乃は、自分以外の人にも稀川の真の姿を知ってもらいたいと願望した。綾乃の場合、想いの人に恋する気持ちは、通常の十代の恋人を想うそれを通り越して、どこか母性に通ずるところがあった。しかも通太の意思は無視して無理矢理。通太は上昇なんて望んではいない。いや、望んではいる。でも自分の知らないところで勝手に事が進行していくことは、通太でなくとも誰でも面食らうようなことだ。それを綾乃は実行し出した。
具体的に動いたのは、通太と別れた金曜日の夕方。あの日綾乃が家に帰宅すると、彼女を待つ人がいた。
近藤加奈、盛奥寛治、それと堂地参三郎だ。
彼らは放課後、一波綾乃の見舞い、あと、それぞれの思惑を抱え、彼女の家に赴いた。
一波綾乃の家を知らない盛奥は、一波と仲のいい近藤加奈に家の所在を聞いた。近藤加奈も今から綾乃の家に行くからということで、同行した。一波綾乃の家についた彼らは早退したはずの綾乃がいないことに愕然とした。彼女になにが起きているのか? 近藤加奈は特に心配したが、根っからの明るい人物――綾乃の母親――に家で待っておいてと弾む声で言われ、待たせてもらった。そこでもう一つ驚きな出来事があった。巨漢堂地がいたからだ。彼は、お嬢が早退したことを聞きつけ、彼女の姉にくっついて家までやってきたのだ。堂地も心配していた。お嬢はどこにいったんだと。近藤加奈がメールしても返信はなく、ただただ、三人で、居間のテーブルに座り、出された紅茶を啜って時間を過ごした。
そこへ、一波綾乃が帰宅してきた。
綾乃は驚いた。近藤加奈はともかく、なんで盛奥と堂地がこの家に。
しかしすぐにその理由は推察できた。つくえからの記憶からだ。
盛奥は、蹴りを教えてもらうため。堂地は、子分志願をかなえるため。もちろん、彼らとしても見舞いが大部分であったのだが、一波綾乃の具合が良ければ、彼らは各々の要望を遂げようとしていた。
「綾乃! どこに行ってたの!」
近藤加奈が、真っ先に抱きついてきた。それから、綾乃の体を撫でまわし、彼女に異常がないか確認する。
「大丈夫よ加奈。ありがとう」
この時ばかりは、綾乃も感動した。自分の体がつくえに乗っ取られている時、つくえは彼女に対して冷たく接していた。近藤加奈は、綾乃の変化に戸惑い、それが通太のせいだと決めつけ、なんとか原因を究明しようと奮闘してくれていた。
つくえが自分の体を操り、つれなく彼女に接していたところも綾乃は知っている。さすがに加奈はわたしから離れていくだろうなぁと、混沌とした意識の中、思っていた。
でも近藤加奈は離れていかなかった。家にまで来てくれて、こうやって自分を心配してくれている。
「ありがとう」
綾乃は込み上げてくる感情でいっぱいになり、少しの間、その余韻に浸った。
「お嬢、ご無事ですか?」
巨漢堂地が二人に割って入ってきた。
綾乃は、ここで気持ちを切り替えた。
通太はすごいぞ作戦を発動させようとしたのだ。通太と別れてからすぐに作戦を練り始めた。
わたしの彼氏(あくまでも彼女一人がそう思っているだけ)をどうやったら、一人前にできるか、考え込んだ。そのまま帰宅したら、近藤加奈らがいたわけだ。そして彼らを利用しようと考えた。
「どこ行ってたの、綾乃?」
近藤加奈の疑問。
早退したはずの自分が家にいなくてどこにいってたのか? 綾乃は理由を考え、どうしたものかとあぐねたが、その問題を通太の上昇作戦とうまくリンクさせようとした。
「全部、解決したよ」
と、筋が見えない綾乃の答え。
「なにが?」
「……、実は――」
綾乃は喋り出した。
彼女の話はこうだ。
綾乃は石崎という架空の人物を創り上げた。彼は隣町に実在する、見城高校に在学。腕っ節が強く、喧嘩っ早い。その彼が、自分に付き合ってくれと、前からしつこく迫っていた。その現場を町で通太が偶然見たことにして、自分を助けてくれたということにした。
「稀川がぁ?」
話を聞き、真っ先に盛奥が声を上げた。
「あの根性無しがぁ?」
とまで言った。しかし盛奥が疑問に思うのも無理ない。
学校では、目立たないネクラ野郎。その稀川が、盛奥は聞いたことはなかったが、石崎とかいう強者から一波を助けた。信じられるはずがない。
綾乃は、石崎が理由で、最近調子を狂わせ、おかしくなっていたと言った。
「それで綾乃変だったのぉ」
「うん。今日はね、その石崎と稀川は決闘したのよ。わたしを懸けて」
「ええ!」
全員が声を合わせた。
「それで早退したの?」
「うん」
「で?」
「稀川が勝った。あいつももうわたしに手は出さないって約束してくれた」
「ほう」
堂地は、腕を組み二重あごをさらに浮き彫りにして頷いた。彼は感心した。もちろん通太にだ。男気のあるやつだと思った。
「稀川……わたしたちには黙ってそんなことしてたんだ……」
近藤加奈は沈痛な面持ちで呟いた。
「そう。彼、みんなには黙っててねって言うの。だからわたし、誰にも言わなかった」
綾乃は、よくもこんな嘘が次からつぎへスラスラ出てくると自分のことを変に感心した。
「でも大丈夫。全部解決した」
そう言って、綾乃はテーブルについた。
そこへ彼女の母親が、紅茶を持ってきた。
一口飲み、前に座る盛奥に
「盛奥、蹴りを習うなら稀川の方がいい。彼の蹴りの方が強力よ」
と言った。
「えっ?」
「わたしの蹴りより、彼の方がいい。わたしも彼から習った」
「そ、そうなのか……」
盛奥は、通太に畏怖を覚えた。日頃は、机に俯き、暗く学校生活を送っていたあいつにそんな凄さがあったとは……。いつもがいつもだっただけに、反動が大きかった。そのギャップが逆に話の信憑性を高めた。
近藤加奈たちは、一波綾乃の術中にまんまとはまった。
あとは、彼らが広めてくれる。通太偉人伝をだ。
そして月曜の朝。
もうすでに通太の凄さは広がりつつあった。
盛奥から金曜日の出来事を聞いた彼のグループ全員は、呆気にとられていた。
「本当かよ……」
グループの一人が俯きつつ言った。
「あいつが……」
グループ全員が通太の背中を見つめる。
今回は嘲笑われる対象でない通太は、机に伏せ、つくえとの交信を試みている。
(つくえさん! つくえさん! つくえさん!)
さっきから心の中で叫ぶ通太の脳裏には、何も聞こえてこない。
「…………。駄目だ……つくえさん、いない……」
ある程度は予想していたことだが、ショックは大きい。
通太の心の中に、じわじわと不安が広がり始める。
つくえと学校生活を送ったのは、たったの四日間。しかしその四日間は通太にとって、とても有意義であったし、これからもその大事な時間は続くと思っていた。でももうつくえは通太の机に存在しない。背骨が折れたような感覚。体に力が入らない。こんな状態で今日一日を、いや、これからも続く日々を、過ごしていけるか不安で、その感情が脳内を駆け巡る。今、彼の机に突っ伏す格好は、水揚げされたイカのようだった。
もう少しすれば、予鈴が鳴り、朝一の点呼が始まる。生徒たちの中には自分の席に着席し出す者もいる。
盛奥も自分の席についた。前には、軟体動物稀川通太が、べっちゃりと机に伏せている。
(こいつ、本当にすげえのか?)
そう思わざるを得ないだろう。なんの闘争心も力強さも感じられず、いつもの稀川通太がそこにいるだけ。いや、いつもよりもっと頼りなさげにも見える。
盛奥としては、放課後にでも改めて通太に蹴りを直伝してもらおうと頼みこむつもりだった。
(なんか急には喋りづらいな)
盛奥ほか、一年五組の生徒たちは悉く、通太を無視していた。
いつも机に突っ伏し、誰とも喋らない通太を、クラス中の生徒は、陰気くさいダメ人間と決めつけていた。自分たちの中で格下の人間を作り上げることで、無意識、または意図的に自己満足していたのだ。盛奥も、通太のことをゴミ扱いしていた。だが、もうそんな色眼鏡では通太のことを見れなし、ゴミのように接することはできない。自分の師匠になるかもしれない人物だから。
予鈴が鳴った。
通太は顔を上げた。なにか特別な視線を感じる。
(なんだ?)
通太の武勇伝を聞いたものは、国宝でも眺めるが如く彼を見ている。
担任の先生がやってきて、点呼する。
この日の通太の学校生活が始まった。




