31
土日はあっという間に過ぎた。今日は登校日の月曜日だ。
朝四時から目覚めている通太にとって、現在の時刻六時までの二時間は、拷問のように思えた。
いや正確には、家から一歩も出ていない土日の時間の経過が、拷問だった。
それは肉体的にも精神的にも通太を蝕んだ。
つくえに出逢ってからの疲れが、一気に押しかかってきたようだった。階段から落ちた時に打ちつけた背中は、思い出したかのように疼き始め、シップを貼って対応し、背中の爪痕は、絆創膏を貼った。
精神面で彼を苦しめたのは、やはりつくえのことと学校のことだ。
学校には行きたくない。絶対に行きたくない。もうイヤだ。限界だ。頭がクラクラした。
彼にとって、つくえがいないということが最大の苦悶であった。
通太の父親は、息子に関してそんなに熱心な方ではない。会話もあまりないのだが、日曜日の夕食時、彼を目にした時は、その虚ろな表情を見て、思わず、
「どうした?」
と珍しく自分から声をかけたほどだ。
「なにもないよ。ごちそうさま」
と食卓を離れ、自分の部屋に背中をさすりながら戻る息子の足取りは、痛々しさを感じさせ、彼の両親は目を合わせ、心配した。
父親はそのとき、通太の担任の先生から金曜日に連絡があったと母親から教えられた。授業の途中で早退し、そのまま突然帰宅した息子のことを聞かされた父親は驚いたが、母親はとりあえず通太の様子を見ようという意見だった。父親も同意した。
その虚ろな通太は、起床してからベッドに座り、明けていく空をカーテン越しにさっきからずっと見ている。自分の心とは対照的に、嫌味なほど明るくなっていく外界。
――あの言葉さえなければ。
「学校に行くの誘いに行くから」
一波綾乃の声だ。
これが彼の枷となっている。
この言葉さえなければ、気持ちよく学校を休めているのに……。
しかし彼には矛盾するもう一つの感情があった。
つくえの存在を確認するため学校に行くということだ。これも遂行したい気持ちはある。
もうどうしていいかわからない。
「ううぅ」
通太は頭をかきむしる。
それから一時間ほどが過ぎ、一階にいる通太の母親が、なかなか朝食を食べに降りてこない息子を心配し部屋の前まできた。
「――通太ごはんよ」と母親はドア越しに話す。
「――今日はいらない」
「――調子悪いの?」
「――大丈夫だから、行って」
母親の声は無くなった。
「ううぅ」
それからも暫く、部屋全体に呻くような声を響かせていた通太は、突如立ち上がり着替え始めた。
制服にだ。
「わかりました! わかりましたよ!」
彼の目線の先には、先週の金曜日ゲームセンターで一波綾乃が獲得したクマのぬいぐるみがあった。ぬいぐるみの目は通太をずっと捉えている。そのぬいぐるみを見ていると、一波綾乃に催促されているようだった。
「学校に行くのよ」と。
着替えを終えた通太は、ダイニングに行き朝食を摂る。
パンに目玉焼きとハムをのせると、半分に折りたたみ一気に口へと押し込んだ。
母親が慌てて
「通太、どうしたの?」
と顔を近づけてくるが、通太は、ほおばった物をゆっくりと噛み砕いていく。
「なんか最近変よ、ほんと。学校で何かあったの?」
母親は、通太の目と口元を交互に見ながら、質問する。
通太は、オレンジジュースをコップに注ぐと、それで口の中の物を喉の奥へと流し込んだ。
そして、
「学校で色々、あるぅ!」
と血相を変え大声で言うと洗面所に向かった。歯を磨くためだ。
母親はキョトンとしている。
通太は身支度を素早く済ませ、家の前で一波綾乃がやってくるのをとりあえず待った。
(本当に来るのか?)
という思いが僅かながらある。
彼にしてみれば、金曜日に起こったことも、もっと言えば、机からつくえの声が聞こえた等、先週の事柄全てが現実だったのかと、考え込まざるを得ない状態になるときがあった。
この休みの間にも何回も考えた。自分が勝手に作りだした世界じゃないのか? 白昼夢でも見ていたのでは? そう思えば今見上げる青空も嘘のように晴れ渡っている。月曜の朝がこんなにも爽快に感じたことは今までない。月曜の朝はいつも最悪だったはずだ。
でも空だけで考えたら、この空は、格別に良かった。
(やっぱり、まぼろしを見てるのか?)
と通太がうつつを抜かしていると
「お、やるじゃん」
と声が聞こえた。
目の目には、一波綾乃の姿が。
「――現実か? やっぱり現実なのか?」
通太は顔を振った。
「何言ってんの? 行くよ学校」と、綾乃は歩きだした。通太は彼女の僅か後方について渋々続いた。
通太は一波綾乃の後頭部を見ながら歩いている。そしてその後頭部にいつ質問をぶつけようかとそわそわしていた。もちろん、先週の金曜日、彼女との別れ際に聞けなかったことをだ。
「何してんの、横にきなさいよ」
綾乃の後頭部が顔の半面に変わり、肩越しに彼女は通太に声をかけた。
そのタイミングで通太も彼女に問いかけた。
「一波さん! 教えてください、一体どういうことなんです? なんで僕と学校に行くんですか? 教えてください!」
「ああ」
通太の大声とは真逆に素っ気なく声を出した綾乃は、前に向き直った。
話し出してくれるんだと期待する通太とは裏腹に綾乃の頭には、説明の二文字はなく、少し先に見える人影を捉えているだけだった。
「あいつ来るなっていったのに」
綾乃は前方を見ながらそう言った。
「え? なんて?」
通太は、一波綾乃が、説明をし出したと思い耳をそばだてた。
「いい稀川? わたしがあんたにもし話ふったら、合わせてね。詳しい事はあとで話すから」
「は? どういうことですか? なんですか?」
「いいから。あっちから堂地が来る」
「へ?」
通太は訳もわからないまま、何気に前を見た。
一波綾乃の言う通り、巨漢堂地がこちらに向かって歩いてくる。
「な……なんで? 学校とは逆方向のこっちにあの人、なんで来るんですか?」
「いい? わたしに話を合わせるのよ」
綾乃は、通太の言葉は無視して、さっき言ったことを繰り返した。
「お嬢ぉ」
巨漢堂地は、綾乃を確認したのか、急に破顔し、駆け足で彼女と通太の元にやってきた。
「来なくていいって言ったでしょ」
綾乃は、きつく堂地に言う。
「すみません」
通太はこのやりとりの意味がわからない。というか何もかもわからない。一波綾乃が何を考えていて、自分と一緒に学校にいくのか? なぜ巨漢が我々の前に現れたのか? そして二人のこの会話。なにを言っているのか予測さえもつかないでいる。
「稀川さん、おはようございます」
「あ、お、おはようございます――え? 敬語? それにサン? 稀川サン? それよりもなんで僕の名前を知ってるんだ……」
「もうほんと来なくていいからね。金曜日にあれほど言ったのに……」
綾乃は、歩き始めた。
「すみません。どうしても心配になって」
そう言うと巨漢堂地も歩き始めた。
通太は、前を行く二人を見て、慌てて彼ら続いた。
二人の会話は続く。
「やっぱり、危険だと思うんです。いつ見城高校の石崎とかいうやつがくるかわかりませんよ」
「もう大丈夫よ、解決したの。それにもし、また石崎が来てもわたしには稀川がいるしね。ね? 稀川?」
「え? なんのことですか?」
「ね?」
綾乃は振り返り、通太にウインクした。
通太は戸惑う。そのウインクは何を意味するんだ。
堂地は、綾乃と通太の秘密めいたやり取りなど気付かず、話を続ける。
「まあ、そりゃそうですね。稀川さんがいれば百人力だし。でも一応心配になってやってきたんです」
「ほんと大丈夫よ。明日からは来ないでね」
「はい、すみません」
それからは、ほとんど堂地一人が喋っている状態で、自分がお嬢の子分になれてよかったとか、通太と、お嬢はお似合いのカップルだとかを口走っている。
通太としては、彼の話は突っ込みどころ満載であったが、話と話の間に割り込む隙間などなく、堂地に対して頷いたり、引きつった笑みを返したりして終わっていた。
「あ、そうだ」
綾乃は、一人喋る堂地の話を途中で遮り、唐突に声を出した。
「稀川、携帯買った?」
「はい? ああ、携帯ですか? 携帯買ってません」
「買いなさいって言ったでしょ? 今日放課後お店行くわよ」
「ええぇ? 無理ですよ、お金ないですし……」
「稀川さん携帯持ってないんですか?」
堂地が割り込んでくる。
「そうなのよ、今の時代に携帯持ってないってねぇ」
「でも。でも親の承認とかもいるんでしょ、携帯買うのって……」
通太は小さく声を出した。
「そうか、そうよね。じゃあわたしが契約してそれあげるわ」
「へぇ?」
「さすがは、お嬢。やることが豪快ですな、がはははは」
「じゃあ、その携帯買うために親と一緒に放課後ショップに行こっと。稀川もついてきてよ」
綾乃は歩行速度を上げ、悠々と先に行く。
通太は、大きく溜息をついて頭をもたげた。もう全部どうでもいい気がしてきた。
一波綾乃が何を考え、何をしようとしているかをだ。




