22
教室を出た通太らは、体育館裏の階段に腰を下ろしている。
「このあとどうする?」
つくえの状態は少し前よりはマシそうだが、やはり息が荒く、目つきは悪い。
「これです」
通太はポケットから紙を取り出した。
紙はポケットの中で汗のために蒸れたのか、硬さが無くなり、通太の指先からダランと垂れている。
「なんだそれは?」
「笹山露子さんの携帯番号が書かれています。今から露子さんの携帯にかけてみます」
「おお」
つくえは目を輝かせた。
「で、では、では笹山露子と喋れるんだな?」
「そうです。そして露子さんの状況を聞くんです」
「状況を聞く?」
「はい。今日中に舞峰町に戻れるのかどうなのか。そしてもしこっちに戻れないのなら――」
「戻れないのなら?」
「戻れないのなら……もし戻れないのなら、行ける範囲なら僕たちから露子さんに逢いに行きます」
つくえは口を真一文字に結んだ。唇は震えている。
「つくえさん?」
「…………」
「つくえさん? どうしたんですか?」
「い、いや、なんでもない。携帯だな、携帯電話は――ゴホゴホゴホ」
つくえは咳きこみながら、一波綾乃のカバンから素早く携帯電話を取り出した。
携帯を目の前に突き付けられた通太はそれを手にし、現代では当たり前のように世の中に普及している物をめずらしそうに見入っている。
「どうしたんだ稀川通太?」
「いえ、あのぼく、携帯電話扱ったことないから、その……。つくえさんは、一波さんの経験で携帯電話の使い方わかりますよね?」
「ああ、わかるぞ。その紙に書かれている番号通りにボタンを押す。うぅ、それから受話器のボタンを押す。いや、そっち側でない。そうそっちだ。それを押すと相手につながる」
つくえはそう言うと、大きく息を吸い込んだ。
「え? え? あの、つくえさんが電話掛けてくれるんですよね?」
「おまえがしてくれ。俺は視点も合いにくくなってきているし息も絶え絶えなんだ。それに見ろ」
つくえは、一波綾乃のすらっと伸びた指を見せた。小刻みに震えている。
「はぁはぁ……なにもかもが不調だ。だから頼む稀川通太、おまえがしてくれ」
「わ、わかりました」
つくえの疲労が限界に達しているのを察した通太は、意を決しその場に立つと、親指でボタンを押し始めた。番号を全て押し終えた通太は、最後の受話器ボタンを押せないでいる。表情は深刻。
「どうした?」とつくえ。
「いえあの……、緊張してきて」
「あのな稀川通太、俺には時間がないんだ! 頼んでおいて偉そうに言うのも何だが、俺は切羽詰まっているんだ! だから早くしてくれ!」
「はいわかってます!」
通太はヤケクソ気味で受話器ボタンをプッシュした。
だが携帯電話を耳にあてない。
つくえは、思わず舌打ちし、静かに立ち上がって、通太の耳に口を近づけた。
「もうそこまでしたのなら腹をくくれー! ゲホゴホゴホ」
つくえとしては、通太という人間がわからない。さっきは笹山露子さんにこちらから逢いに行きますと強い気概を示しつくえも感動を覚えたのだが、一方その直後には、携帯番号を押すことに躊躇している気弱な半面が出てくる。
(強くなれ)
つくえは通太に対して、そう希望していた。気弱な彼を毎日の対話で強くしてやろうという考えをひそかに持っていたのだが、それももう叶わないと諦めている。意思が机から抜け出し、自由に動ける体を手入れることはできたが、もうその体の中に存在できる時間が刻々と減ってきているのだ。まだ確実なことはわからないが、つくえは自分が消滅すると覚悟していた。その絶望感の中、彼は通太の成長を目の当たりにした。彼に笹山露子と逢わせてくれと言ったら、教室を飛び出し、どこからか笹山露子の携帯番号を調べてきてくれ、今電話をかけてくれようとしてくれている。
しかし急に怖気付き、今も電話の最後のプッシュをためらっていた。
(もっとこいつの傍にいれたらな)
通太を完全に強くすることができる、とつくえは確信していた。
つくえは、笹山露子をきっかけに、人を強くしたいという願望を持ち始めたようだった。
露子の歌でこの世に出現し、彼女に対して慈悲心が芽生え、彼女と対話することで、自分も楽しみ、また、相手が日に日に活き活きしてくるのが、彼の至福となった。
しかし至福に浸る時間はそう長くなかった。彼女はいつしか去った。
進級しても何回か笹山露子はつくえのもとを訪ねたが、交信はなぜかできなかった。
つくえは独りになり、それから対話相手を探した。
だがこちらの問いかけには誰も反応してくれない。
それには理由があった。それは、彼の誕生した性質が物語っていた。
笹山露子の歌を聞き、憐れみの心を持って誕生したつくえの思いと同調――シンクロできる者――心に多大な傷を持った者しか対話できなかったのだ。つくえはそんなこと知らない。自分の席につく者に構わず問いかけた。だがやはり反応はなし。
鬱屈する日々だった。様々な情報は、生徒の会話、授業での知識で入ってくるが、こちらの思いを誰も共感してくれない。苛立ちにも似た感覚で自暴だったが、自分を使用する相手に問いかけは続けた。
そして、笹山露子との別れから二年の歳月を経て、適性者――稀川通太と出逢った。
彼も露子同様弱者だった。
つくえは、通太を応援しようと思った。
が、笹山露子の存在を聞いて、通太どころでなくなったが、露子ともう一度逢う目標が達成できた後は、通太の面倒をみてやろうと思っていた。
がその猶予はもうない。
今は、笹山露子と出逢うことが彼の最大の願いだった。
「も、も、も、もしもし!」
どうやら笹山露子と電話が繋がったらしい。
通太は、汗を飛ばしながらあたふたしている。
でも通話相手は笹山露子でない。
留守電の音声が、携帯から流れている。
「あれ? あれ?」
「どうした?」
「露子さんじゃない、誰だ?」
「誰なんだ?」
「あ!」
「どうした?」
「発信音が……これ留守電だ」
「はぁ?」
つくえは、電話に関しての知識があまりない。そこで一波綾乃の知識を使って、理解しようとしたが、彼女との同調が芳しくなくなってきているのか、上手く情報が共有できないでいて、留守電という単語の意味を理解できないでいた。
「何だ、ルスデンとは?」
「留守電とは…………、えぇとまた後で説明します。とにかく今は露子さんと喋れない状況です。どうしよう?」
通太は悲痛な面持ちをつくえに向けた。
「なんだ、連絡は……連絡はとれていないのか?」
「はいそうです。露子さんは携帯をどこかに置いたまま、どこかに移動しているのと思います。今手元には持っていないようです」
「もう、よくわからん、ゴホゴホ、り理解できない…………万事休すなのか」
「万事休す――――いえ、いいえ。まだです。まだですよつくえさん。もう一度かけましょう。トイレかなにかかもしれません。もう一度――」
通太はご丁寧に初めから番号を打ち直し電話をかけた。携帯電話には発信履歴が残り、ボタン一つでかけ直せるのにだ。だが、誰も彼をバカにできないだろう。一作業二作業増えたからといって、彼が電話をかけ直したことは事実だ。そこが大事だ。
つくえも彼の立ち直りに感心した。強さということが安定だとすれば、通太のそれはまだまだだが、でもしかし、通太はフラフラしながらも結果を自分の手でたぐり寄せようとしている。
いつもなら弱い自分に精神を曲げられ、そのまま折れるところだが、バネのようなしなやかさが出始めているのか、ある程度の耐性は出てきたようだ。
「おもしろい」
と、つくえは口に出して言った。
通太は、携帯を耳にやりながらつくえの方を見た。
目を大きくして、首を突き出し、何か言いました? といわんばかりにだ。
つくえは首を横に振った。
「あー! もしもしもしもし、笹山さんですか!」
今回は笹山露子本人が出た。
「露子さん! 僕です、稀川通太です。露子さんのお友達に露子さんの携帯番号を教えてもらってお電話したんです。すみません、急に電話して。あの今お時間いいですか?」
通太は足元の階段に何度もお辞儀している。横にいるつくえは、その動きを危なっかしそうに見つめている。いつバランスを崩してまた階段から落っこちるか、ハラハラする。
「おい落ち着け、稀川通太」
つくえの注意にも通太は聞く耳持たずに話を続ける。
「あの至急お聞きしたいことがあって、あのその、いつ、いつこっちに戻ってくるのですか?」
つくえもふらりと立ち上がり、通太の肩にもたれかかるようにして携帯に耳を近づける。
「そうですか…………、いえ実は、つくえさんが露子さんにもう一度逢いたいって言ってるんです、それで……」
通太から現在のつくえの事情を説明された露子は納得したようだ。
「――ありがとうございます!」
通太の顔が晴れる。どうやら笹山露子と話がまとまったようだ。
電話を切ると、真横にいるつくえに報告。
「つくえさん、露子さん戻って来てくれます! おじいさんの容体も持ちなおしてもう大丈夫みたいです。今日と明日まではおじいさんの実家に泊って日曜日にこっちに帰る予定をくんでいたみたいですが、つくえさんの状態を言うと、こっちに戻ってくることを快く了解してくれました」
「そうか」
とつくえはかすかに言い、突然体のバランスを崩した。
息をのんで通太は、一波綾乃の脇に手を滑らせ支えた。
「あー!」
女性の微妙な部分近くに触れたため、反射的に手を離す通太なのだが、そうしたら一波の体は階段を転げ落ちてしまう。
「すみません」
通太は、一波の腰に腕を巻きつけ彼女の体を肩に乗せ、遮二無二に階段を駆け上った。
階段の一番上の広い場所に一波の体をおろした。そこはもう体育館裏でなく体育館の表玄関がすぐ見える場所だ。
通太は一波の顔を見た。白目を剥いている。
「つくえさん! しっかりして下さい」
通太が声をかけると、一波の体が大きくビクンと跳ねた。
そして陸に揚げられた魚みたいにその場で小刻みにのたうち回る。
「ちょっとなんだこれ!」
通太は焦りながらも、震える一波の体を止めようと覆いかぶさる。
「つくえさん! しっかりして下さい!」
「つ、つぐえぇ?」
一波の口から言葉が漏れた。
「つくえさん?」
「だ、誰が、誰ぎゃ、机なの? あんた何、何言ってんの? バカバカじゃない」
「え?」
「どこここ? 外? 何? わたし何してるの?」
「ワタシ? つくえさんが自分のこと『私』って? ……、まさか…………一波さん? 一波さんなのか?」
一波の体の震えは徐々に収まりつつある。
「一波さん? 一波さん!」
通太は大声で呼びかける。
「あ、当たり前じゃない……私はわたしよ、あんたバカじゃないの? ばがよ、よぉ、うう、うぅ、ぐぅふ、ぐううううううぅ、うわあああああああああああー!」
一波がゾンビのように通太の体にしがみついてきた。
爪はシャツを裂き、通太の肉に食い込む。
「いたいいいいィィ!」
通太の絶叫が体育館表にこだまする。それに負けず劣らずの唸り声が一波の喉から発せられる。
「ギャオオオオオ」
もはや怪獣だ。怪獣の咆哮が可憐な少女から放たれるのは、地獄絵図に等しい。
「なんなんだなんなんだなんなんだ――」
逃れようと、通太は勢いよく立ち上がったが、一波綾乃の手は彼の体から離れない。通太は振り払うことは諦め、天を仰いで一波の乱が沈静するのを待った。
咆哮は止んだ。
指の力も弱まった。
残ったのは荒い呼吸音。
いつしか二人は、体育館の出入り口横の、外壁のすぐ近くに立ち尽くしていた。二人の間の足元には湿った何かが点々としていた。一波の口から垂れたよだれだった。
通太は迷った。今自分の目の前にいるよだれを流す人の中身は誰なのか? つくえさんか? それとも一波さんなのか?
「一波さん?」
「はあ、はあ、はあ」
「つくえさん?」
「はあ、はあ、はあ」
様子を見守る通太。
不意に声が空気をはらった。
「どっちがいい?」
「え?」
一波の唇は妖しい笑みをつくり通太に訴える。
「女子高生と机。どっちに出てきて欲しい?」
「やめて下さい。つくえさん、正気に戻ったんですね?」
「ふふ。ふぅ。はぁ。ゴホゴホ。驚いた。い、一波の出現が思ったより早まるかもしれない。一瞬この体が一波に乗っ取られた。あぶなかった」
乗っ取ったのはつくえさんだろうに、と通太は突っ込みたかったが言わなかった。
「一波さんの意識が戻るのが早まるんですか? その時間、具体的にはわからないですか?」
「昼時までは無理だ。それはわかる」
「ほ、ほんとですか? ……まずい」
「何がだ?」
「露子さん、こっちに戻って来るの二時か三時にはなるって言ってました。やはり……」
「やはり?」
「やはりこちらから露子さんに近づいて行くしかない。そうすれば距離が稼げて早く露子さんに逢える。うん、そうしましょう」
通太は、今つくえに傷つけられた背中の爪痕の痛みなど忘れて、爽快に喋る。
「稀川通太、俺のために――ありがとう」
つくえは頭を下げた。
「やめて下さい、つくえさん。なんだかつくえさんらしくないですよ」
「そうか?」
二人は、体育館を後にして学校を抜け出した。




