16
通太は、つくえと別れてから家に帰るため歩いた。心身は疲労困憊していたが、笹山露子と出逢いを思い出しては、一人にやけ、また歩いては、夕焼けを見るにはまだ時間がかかりそうな空を見上げながらにやけていた。今の通太の頭の中は、笹山露子のことでいっぱいであった。通太自身、女性にここまでときめいたことなど無かったことだ。恋というものに近い感情が彼を支配していた。心ここにあらず状態でのんびりと歩く通太。しかしそんな状態でも毎日行き来する道なので、正確に帰路を歩んでいた。
至福のまま、どんどん歩いて行くといつも渡る橋に来た。
海からはそんなに離れていないこの場所は、潮の香りが川の風にのって、とてもかぐわしい。
だが今の通太は、まるで甘い感情のぬめりが鼻腔をも支配しているようで、それを感じることができないでいる。
そんな状態でぼおとしながら歩いていた通太だったが、橋の中ほどに立つ人影が不意に確認できた。
人影は橋の欄干に寄りかかり、なにをすることなく斜め上を見ている。
「あ、れは、盛奥くん? …………」
橋を二、三歩歩いた通太の足が止まった。と、通太はグルリと身を反転させ、足早に橋から離れた。
「なんで盛奥くんが……なんで? やっぱり復讐のための待ち伏せ? そうだそうに違いない」
通太は独り言をブツブツ言いながら、身を小さくして盛奥の目の届かないところまで足早に歩いた。
「気付かれたかな? 大丈夫かな?」
躍起になって追いかけてくる盛奥の形相を想像しながら、通太はおそるおそる顔を後ろに向ける。
だが盛奥の姿はない。
姿が見えないことにホッとしたのも束の間、
(でもどうしよう?)
と通太は考える。あの橋を渡らなければ家には帰れない。このままこの辺をブラブラして、時間を潰すか、それとも駅の方にまで行って時間を潰すか沈思するが、盛奥は執念深くあの橋に佇んだまま、自分が通るのを待ち続けるだろう。それぐらい今日彼に与えた屈辱は大きいものだと通太は推察する。
仕方なく通太は、もと来た道を、考えが纏まらないままトボトボと歩いた。
「おぉい、おぉい」
大きい声がしたのに反応して、通太は俯き加減の顔を上げた。前方から中身はつくえの一波綾乃が手を振りながらこちらに走り寄ってくる。
「荷物を取って来るまで待っておいてくれてもよかったのに」
つくえは通太の目の前に到着すると不平を口にした。
「ええ、それが気になって戻ってきたんです」
通太は、嘘をついた。なんとも正直に、この先に盛奥くんが居て怖かったので戻ってきたんです、とは、言えなかった。
「おおそうか。じゃあ帰ろうか」
通太は仕方なく再び家路を目指すこととなった。
つくえは、苦虫を噛み潰したような表情の通太のすぐ隣に寄りつき、並んで歩く。
「それにしても、本当に笹山露子に逢えてよかった。おまえが今日逢わしてくれていなかったら次はいつ逢えたかわからなかったからな」
「ええ……」
「おれは、結局のところ寂しかったのかもしれない。自我ができてから笹山露子とたくさん会話し、それが出来なくなると誰彼にと話しかけ、しかし疎通は出来ずだった。それでも寂しいとは思わなかった。それがおまえと意思疎通できて、俺は狂喜したよ。そして察したんだ。おれは寂しかったんだと。誰かと対話したかったんだと。おまえには感謝している。笹山露子にも再びあわせてくれたしな。本当に感謝している――――おい! 稀川通太、聞いているのか?」
「えは! ええ、聞いていますよ。そうですこっちに僕の家があるんです、そうです」
「なにを言っている、誰もおまえの家のことなど聞いていない。そんなこと一波の記憶で知っている」
「ありゃ、なんの話でしたっけ? ――あそうか、笹山露子さんと逢えた話でしたっけ? 本当によかったですね逢えて…………」
通太の言葉にはまったく気持ちが入っていない。そんな通太の不審な様子をつくえは見逃さなかった。
「どうした? なんだかおまえおかしいぞ」
「そうですか? なんともありませんよ、ははは」
とつくえの指摘に顔がひきつり、笑って返す通太だったが、歩く速度も次第に遅くなってきた。
「おい稀川通太、速く歩け、そしてどうするこのあと? おまえの家に行くかそれとも一波の家に行くか?」
「なにがです?」
「なにがじゃないだろ。このあと俺とおまえが喋るところをどこにするかということを言っているんだ。もう少ししたら日没現象で辺りも暗くなってくるだろう。だからどちらかの家でそうした方がいいだろう?」
「ななにを言ってるんですか! どっちの家にも行きませんよ!」
「はあ? ばかを言うな。俺は笹山露子と逢えた俺の歓喜をおまえに聞いて欲しいんだ」
つくえはよほど熱くなってきているのか、声は大きくなり、目も大きく広がっている。
「もうつくえさんの気持ちはたくさん聞きましたよ」
「まだまだだ。まだまだ聞いて欲しい。それに俺に残された時間はもう多くない。だから今のうちに自由に動けるときに自由に喋れるだけ喋っておきたいのだ」
「えっ? それはどういう意味ですか? その残された時間が多くないって?」
「だからそのことも含めて多くを談じたいのだよ」
通太は立ち止った。つくえの意味深な発言に自分の目の前にある不安が一気に飛んだ。
なんなのだ、残された時間がないというのは?
「さあ行くぞ。よし、おまえの家に行くか」
通太と同じく立ち止ったつくえだったが再び歩きだした。通太もつられて続く。
「つくえさん、教えてください。どういうことなんですか、時間がないって?」
つくえは、無視して先を急ぐ。
「ちょっとつくえさん答えて下さいよ」
通太が尋ね、つくえが無視して歩くことを繰り返していくうちに、いつの間にやら橋まで二人は辿り着いた。
橋に着くとまず、つくえが立ち止まった。
「どうしたんですか急に――あ!」
通太はつくえが見つめる視線の先を追いかけ、橋の中央に盛奥の存在を確認すると、さっき飛んだ不安な気持ちが一気に甦ってきた。
「忘れてた」
通太は肩を落とし、無表情のままそう言った。
さっき盛奥を確認した時は、彼は通太の方は見ていなくて、その場から退散できたが、今回は確実にこちらに顔を向け、自分とつくえ、まぁ、盛奥からしてみれば、一波綾乃の姿を凝視している。
とその盛奥が突然二人に猛然と駆け寄ってきた。
たすき掛けのカバンが盛奥の体に追いつこうと、彼の後ろではためいている。
「あああああ」
通太は思わず悲鳴をあげ、目をつむり両腕で顔を防御する形をとった。その動作は、傍から見ていればとても滑稽なものだった。
通太の隣にいるつくえは誰にも教わったことなどないのに、武道家のようにそれらしく身構えた。それは、通太と違い防御の姿勢をとるのではなく、いつでも攻撃できるよう、手に持ったカバンを放り投げてから、両腕をダランとたらし、左足を少し前に置き、素早く右足で盛奥を蹴れるように準備する構えだった。
走る盛奥は、スピードを緩めない。
もう盛奥が二人の五メートル先まで来た時、急に彼の頭の位置が変わった。
彼はこちらに頭から滑りこんでくるような低い姿勢になったかと思うと、地面を蹴り前方にダイブ。
そしてそのまま空中を滑空して、二人のすぐ前で両手両膝を地につけ着地した。
通太、つくえは、同じ姿勢を崩さない。
唯一盛奥のことを、彼が走り出した時から目を離さず見ていたつくえは、注意を解かず、眼下の盛奥の様子をジッと観察している。
通太といえば、盛奥の地面を蹴る音が消えたこと、そして自分の前で何かが落ちてきたような音がしたので恐る恐る片目だけを開けてみた。
自分の頭部を守るため目の前にかざした腕の隙間から盛奥は確認できない。
少しずつ、腕の隙間を広げていき、広げていく過程で、盛奥が地面に伏しているのがわかった。
盛奥がなにをしているか理解できない通太は、とりあえず横にいるつくえを見た。
つくえは、依然として鋭い眼差しで盛奥を見下ろしている。
その見下ろされている盛奥というと、微動だにせず土下座状態で、彼らの前で平伏したままだ。
そのひざまずいている盛奥がガバリと顔を上げ、
「一波!」
と叫び、一呼吸おいて
「一波! 頼む、俺に蹴りを教えてくれっ」
とこれまた大声で叫んだ。
一波の姿をしているつくえは、微動だにせず盛奥を見つめたままだ。
通太は通太で盛奥の意外な申し出に耳を疑っていた。
「蹴り? 蹴り?」
「ああおまえいたの?」
盛奥は、通太の方に真顔を向けそう言うと
「一波! マジだ! 俺におまえの蹴りを教えてほしいんだ!」
と一波に顔を戻し再び地におでこがつくくらいに伏せて懇願した。
通太とつくえは顔を見合わせる。
通太は、
「どういうことか聞いてみたらどうですか?」
と一波の耳元に顔を近づけ小声で助言した。
つくえは、それをうけ
「なぜ教えてほしい?」
と威厳たっぷりに質問した。
「それはもちろん今日のことでだよ」
盛奥は顔を上げ教えを乞いたい理由を言い始めた。
「今日おまえに蹴りもらって、正直びっくりしたんだ。俺、最近はさぼってあんまり行ってないけど、空手道場行ってんだ」
盛奥が空手道場に行っていることは、通太も、一波も知っている。中学時代は、県大会で優勝したこともある盛奥だ。その名前は全国にも轟いている。当然、一波の知識を共有できるつくえもそのことは知ることができた。
「たまにしかいかなくても、大学生よりおれの方が強えぇ。練習なんかしなくても俺が最強って思ってた。やりゃあ、うちの道場の師範代よりおれの方が強えかもしれねぇ。まあ実際やらしてもらえねぇからわかんねぇけど。でもよ、おめえから今日蹴りもらって、愕然としたんだ。おまえの蹴りは超一流だって。あとからダチに訊いたら、一発目も、一波の蹴りだってわかってな。こいつはほんまもんだって確信したんだ。不意打ちとはいえ、おれが床に這いつくばったんだ。マジすげえ蹴りだよ」
盛奥は一旦唾を呑み、話を続ける。
「二発目の蹴りなんかは、こいつを後ろに引き下げ、瞬間的におれへ蹴りを入れた。おれはなにも出来ず後ろに吹っ飛んでしまう始末。お手上げだぜ。まいったよ」
こいつとはもちろん、通太のことを指している。
その通太だが、盛奥の熱弁に魅入られていた。彼は話が始める前まで、これは盛奥の演技でなにかの作戦、一旦こちらを油断させておいて、反撃してくるのかと疑心していたが、どうやらそんなことなさそうだと思い始めた。話もそうだが、目が違う。一波に訴えかける目が彼の本気を表しているようにも見えたのだ。
「だからどうやったらあんな凄え蹴りを放てるか教えて欲しいんだ。それともなにか? おまえもどっかの道場に通ってるんか? それだったらその道場紹介してくれよ」
「いや、どこにも通っていない」
つくえは一波の履歴から答えた。彼女は過去、スポーツを習ったりしたことは皆無だった。
ただ補足しておけば、スポーツ全般で一波綾乃はセンスがあった。その評価は小中学校で行われた体育でも実証されていて、中学校の時などは、短距離走でも陸上部所属の生徒の誰よりも速い記録を持っていたし、バスケ、バレー、水泳も平均以上の技量は持ち合わせていた。それでもなぜかどのクラブにも入部していなかった。この能力は――厳密に言えば彼女の潜在能力は、つくえによって遺憾なく発揮されている。盛奥に蹴りをいれたのもそうだし、今、彼の突進に対して、臆することなく身構えたのも、つくえの恐怖心の無さと、一波綾乃の潜在的な高度な運動能力を使用したつくえによって行われた結果だったのだ。
「そうか。そうだろうな。どっかの道場に所属していたら、絶対おまえの名前、きいただろうからな……それでどうだ? 蹴り教えてくれるか?」
「……」
つくえは無言のまま通太の方に顔をむける。その無言の動作には、どうする? という尋ねが含まれている。
「けえぇぇ?」
つくえの無言の尋ねを察した通太は、奇妙なかすれ声を出し、困惑の表情を浮かべた。
ぼくはきめられません
くちぱくでつくえに返す通太。
「なに? なんて言っている?」
耳を近づけてくるつくえ。
そんな二人のやり取りを見て、少し冷静になった盛奥は、
(こいつらそういえば、なんでこんな仲いいんだ?)
と疑問が浮かんだ。
この疑問は、今の瞬間だけ生まれたものではない。今日の英語の授業が始まる前、一波は、通太を庇い、自分に打撃を加えてきた。なんでこんなキモイやつを庇う? という感情が、一波の蹴りの驚きに支配される脳の片隅で存在していた。しかも今日急に二人はなんの前触れもなく接近した。首を傾げ、二人を仰ぐ盛奥の鼓膜に、突然、聞き覚えのあるイヤな音が響いた。
「なにやってんの盛奥? この時代に土下座かぁ?」
この声に、通太、つくえも反応した。
声の主は、三人から少し離れて、詳しくいえば、通太の左後方でへらへらした表情で立っていた。へらへら顔の両脇には、連れらしき姿が確認できる。中でも、通太ら三人から向かって左側に、そびえると表現していいぐらいの丸坊主の巨漢がいる。
「あっ、もしかしてそのコに土下座して愛の告白でもしていたのかな?」
へらへら顔はそう言うと、締めくくりに大笑いした。
「つっ」
盛奥は舌打ちし、素早く立ち上がると、
「一波、すまねぇ。また改めてお願いしにくるわ」
とその場を立ち去ろうとした。
だがへらへら顔は、盛奥の肩を強く掴み、彼の行動を止めた。
「おいおい盛奥くん、もういいのか? こちらのお嬢さんに了解を取り付けたのかぁ……うん? これはまさか、こちらは一波藤子の妹さんじゃないのか?」
へらへら顔は一波の顔を覗き込みながらそう言った。
つくえは、へらへら顔とは目を合わさず、
「稀川行こう」
と、歩き出した。
「ははい」
通太は、つくえが放り投げたカバンを見つけて持つと早足でつくえの後を追った。
「おいおいおい、行っちゃうよ盛奥くん。いいのか行かせて。愛の告白終わったの?」
「うるせ、手どけろよ、弱い先輩」
盛奥は、へらへら顔を睨みつける。
「ふふぅん」
へらへら顔は鼻の穴を大きくして、不気味な笑みを浮かべた。
そして、
「いいのか、そんな態度で。先輩は敬わなくっちゃ……そうじゃないと、痛い目あうぜ」
と言葉を続けた。
「痛い目ぇ? よく言うよ。寸止め空手やってるあんたらが俺を殴れるの? そんな無駄口たたいてないで学校戻って練習行ったら? 空手ごっこをよぉ」
そう言うと盛奥は、へらへら顔の手を払いのけ、歩こうとする。だが、行くてを巨漢に阻まれた。
「なんだ? これどういう意味ですか? 環川先輩」
「意味? 意味なんてねえよ、後輩盛奥」
盛奥に環川と呼ばれたへらへら顔は、ズイっと彼に近づいた。
盛奥はいつの間にやら四方を囲まれていて(一つは背にしてる橋の欄干)身動きが取れなくなっていた。
このへらへら顔環川先輩と盛奥には、ある因縁があった。その因縁以降環川は、一方的な自分の恨みを果たそうと機会をうかがっていたのだが、盛奥はいつも何人かの取り巻きと行動していたので、それに自分も空手部に所属していたので喧嘩沙汰はご法度という縛りもあって、なかなか鬱憤を晴らせなかったのだ。しかし偶然にも、盛奥が一人で下校しているという情報を聞いて(巨漢じゃない方の連れが橋まで盛奥を尾行して、学校にいる環川に携帯で連絡)急いでここまで来たのだ。
通太は歩きながら後ろを振り返りして盛奥の状況を心配そうに見ている。
「つくえさん、盛奥くん大丈夫でしょうか?」
つくえは聞く耳持たずで構わず歩き続ける。もう少しで橋を渡り切ろうとしている。
「ねえ、つくえさん、あれ見て下さい。盛奥くん囲まれていますよ」
そう言われて、つくえは足を止め、後ろを振り返った。
「盛奥寛治は強いのだろう? なにかあったとしても大丈夫だ」
「それでも相手は三人なんですよ」
「おまえは心配性だな。あれを見ろ。ただ会話をしているだけだ。心配ない」
つくえは、再び歩こうとした。
「でもでも、あの人、空手部の環川という人だと思います」
「そうだろうな」
「知っているんですか?」
「一波の記憶で知っている。おまえたちが舞峰南高校に入学して間もない頃、一年五組によく来ていて、しつこく盛奥を空手部に勧誘していた者だろう。盛奥は入部する気がなく断っていたらしいが、あまりにもしつこく誘ってくるから、盛奥寛治がある日の放課後、廊下で環川を投げ飛ばした」
「そうです! そういういきさつがあるから、環川さんは、盛奥くんに対していいふうに思っていません」
「だからといってすぐにいざこざとは……ああ、なりそうだな」
「え!」
通太は、急いで橋の中央に目をやる。
もはや一触即発の状態は、距離の離れている通太からもよくわかる。
「あのままじゃあ喧嘩になってしまう……つくえさんなんとかなりませんか?」
「ならない。というより元々俺たちには関係ないことだ。さ、おまえの家に行くぞ」
「あぁ!」
通太が突然絶叫した。
盛奥が環川の挑発に堪え切れなくなったのか、彼の顔面にむけ、拳を素早く繰り出したのだ。
環川は、辛うじて盛奥の拳を手ではたくと、彼の脇腹めがけて蹴りをお見舞いしようとした。
が、盛奥はその攻撃をいとも容易く、肘で防御する。
防御したのち盛奥は素早く環川のこめかみめがけ、足蹴りを繰り出そうと動作したが、それよりも速く、彼の横顔に衝撃が走った。
巨漢が、盛奥のガラ空きの左頬にパンチをヒットさせたのだ。
「ぐおぉ!」
苦悶の声を上げた盛奥は、欄干部分に片手でしがみつき、倒れるのを懸命にこらえた。
「盛奥くんよぉ、忘れちゃこまるよ。こっちは三人いるんだ」
余裕の表情で、盛奥を見下す環川。
「寸止め専門のおまえらが、マジで打撃かよ……。でもいいんか? 喧嘩沙汰が学校に知れたら、空手部は、謹慎でも喰らうんじゃねえのか?」
そう言うと盛奥は、左頬を手の甲で一撫でしてから、よろけた体を立てなおした。
「ふふ、いいんだよそんなこと。俺ら三年はもう少ししたら引退だから、空手部が謹慎しようがなにしようが、関係ねえんだよ。それによぉ、実際おめえから手出したろ。こっちは、正当防衛を主張するよ。このことを目撃した奴がいたとしてよ」
彼らが出くわしてからこの橋を渡った者は一人もいないが、このままだと通行人に目撃される恐れはある。環川は、もし通行人が学校にこのいざこざを言えば自分たちは、しらを切ると言っているのだ。
「どっちにしろ、おまえの負けなんだよ盛奥。誰かに見られてもおまえの負け。やり合うにしろおまえの負け。おまえがそこそこ強いっていっても俺たち三人は無理だろぉ。 ―――おっ、そうだ、土下座しろよ。さっきの女にしてた時みたいに、土下座しろよ。得意だろ、ど、げ、ざ。それしたら許してやるよ。ひひひ」
環川のいやらしい笑い声に反応してか、連れの二人もニヤけだした。
「……」
盛奥は、その三人を睨め回すが、不意に全身の力を抜くと、崩れ落ちるように、両膝を地につけた。
「ん?」
盛奥に意外な行動に、一瞬呆気にとられた環川だったが、
「おお、素直じゃないか盛奥。きちんと謝る気になったか、得意の土下座で――」
と盛奥に顔を近づけた。
それが環川の見せた油断の行動だった。
盛奥は、機先を制し、環川の腹めがけて自分の肩をぶつけにいった。
「ごっ!」
環川は奇妙なうめき声を上げた。
タックルにいった盛奥は、そのまま出だしのスピードを緩めることなく反対の欄干に自分と環川もろともぶつかる勢いで突進した。
なされるがままの環川は、欄干に背中を打ちつけられ海老反り状態になり、悶絶。
だが、盛奥の頭も深く環川の横っ腹脇に入ったためか、環川の背中より少し出ていて、その分が、欄干の手すりに衝突。頭頂部に激痛が走ったが、痛みを無視して環川の尻に手をやり、持ち上げ川に落とそうと動作した。
その行動を見て焦った巨漢は、見た目からは判断できないぐらいの俊敏さで盛奥に近寄ると、まず彼の背中に拳で一撃し、続いて腰部分にしがみつき、環川から強引にひっぺはがした。そしてそのまま力任せに羽交い絞めにして、いきりまく盛奥を抑える。
「おい、大丈夫か?」
もう一人の連れが、環川に近づき心配した。
「うがあ、こ、こ、こいつ……」
環川は、興奮して連れの心配など見えていないのか、彼を手で押しどけると、羽交い絞めされてる盛奥の目の前に立つ。
「いいタックルだったぜ盛奥。おまえラグビー部に入ったのか? ああ? ――」
「ごふ!」
盛奥は、腹にパンチをお見舞いされた。
首がダランとし、意識が朦朧としてくる。今のパンチのダメージより橋の欄干で頭を打った方がこたえているようだ。
「おい、盛奥ちゃん。だいぶこの橋も、人の通行量が増える時間だ。場所変えて遊ぼうか? おれに火つけたの、おまえだぜ。折角ゆるしてやろうとしたのによ……。おい、この橋の下でやるぞ」
と、環川が巨漢に命じて、場所を変えるべく歩きだした時だった。
前方からさっきこの場を去って行った、女子高生一波綾乃が走り寄ってくるではないか。
「ああ? なん――」
「だ」と最後の言葉を発する前に彼の口は、つくえの飛び蹴りによって塞がれた。
足裏全面が彼の顔にめり込む。
「か」
と意味不明の一音言い残し、環川は顎をのけ反らせ、空を漂った。彼が背中から地に落ちる前に、そして自らも地に足をつける前につくえはもう一仕事するつもりで、目の前の物々しい音に驚いた盛奥が顔を上げたところ、
「盛奥、顔は伏せてろ」
というやいなや、盛奥の後ろにいた巨漢の側頭部に――サッカーでいうオーバーヘッドキックの状態から――素早く足の爪先を鋭くねじ込んだ。盛奥は顔を伏せる間もなかったが、つくえの足蹴りは盛奥に触れることなく終了。巨漢は音なく崩れ落ち、それと同時に、空中を漂っていた環川も大きな音をたてて橋床に落ちてきた。それからほんの少し遅れて、つくえがふわりと両足を地につけた。
一瞬の出来事であった。
環川のもう一人の連れは、その光景に驚愕して、口をあんぐりしている。
通太が遅れて、つくえに駆け寄ると、つくえは、
「終わった。約束通りおまえの家にいくぞ」
と言って、もう歩きだしている。
通太は、盛奥のことよりも、一瞬で倒されてしまった、環川と巨漢のことを真っ先に心配した。
二人とも声にならない声をだしもがいているので、生きてはいる。それでも通太は言わずにはいられない。
「加減を……、加減をしようよ……」
通太は、環川たちにやられそうになっている盛奥を助けるべく、つくえに救援に行くようお願いした。行ってくれたら、僕の家に来てもいいということを約束して……。
つくえは、いとも簡単に目的を達し、今はもう、通太の家に向かうべく、橋を渡り切ろうとしている。
通太は、そばにいる盛奥に
「大丈夫?」
と声をかけた。
が、盛奥は
「あいつ、あんな秘められた力持ってたのかよ」
と、質問には関係ない返答をした。
「おーい、稀川通太、はやく行くぞ」
つくえが、彼らの方を振り返り、大声で叫んでいる。
「はい、はぁい」
通太は、とりあえず返事して、
「盛奥くん、この状況どうしよう?」
と困惑した表情で盛奥に尋ねた。
もちろん、通太の困惑は、橋の上で倒れている二人をどうしたらいいのかということを指している。
「こいつらは、ほっときゃあいいよ。じきに起き上がってすごすご退散するだろ。俺もすぐこの場からいっちまうし。おまえも早く行けよ」
盛奥は、欄干でぶつけた頭を撫ぜながらぶっきら棒に言った。
「うん、わかった……、それじゃあ」
そう言うと通太は、ゆっくりとした足取りでその場を立ち去った。彼は、つくえの所まで辿り着くと、もう一回後ろを振り返り、橋中央を見た。
盛奥は、ポケットに片手を突っ込んで、まだこちらを見ている。
「なにしてる? はやく行くぞ」
つくえにせかされて、通太はつくえと並んで歩き始めた。
そんな二人を見送った盛奥は、続いてこちらの先輩方に目をやった。
連れの一人に支えられている環川は、上半身を起こし、無事を確認したいのか、しきりと手で左右に顎を動かしている。
巨漢は、いつの間にか四つん這いになっていって、意識をはっきりさせたいのか、首をブルブルと横に振っている。
さっきまで威勢を張っていた者が、急に静かになっているさまのギャップが滑稽に見え、盛奥の口元に、思わず笑みの線が出ていた。
「環川さん」
盛奥は、真剣に顎を心配する環川に声をかけた。
環川はなにも言わず目だけを盛奥に向けて、次の発言を待った。
「今日のことは、他言しないってことでいいよな? あんたらさっきまでは、空手部なんてどうでもいいとか、正当防衛を主張するとかなんとか言ってたけど、空手部の男二人が、女一人に一瞬でやられたんだ。こんなことが学校に知れ渡ったら、あんたら顔上げて残りの学校生活送れねえよ」
盛奥は自分のことは棚に上げ意見した。彼も今日、一波に蹴りを入れられ痛い目にあっているのだ。
だがそんなことは知らない環川の表情が曇る。盛奥に図星を言いあてられ、ぐうの音も出ないでいる。
「その顔は、了解ってことだね」
盛奥は、電車で通学している。環川に無言の了解を取り付けると駅に向かうべく彼のすぐそばを通り抜けようとした。
「あいつらは! あいつらが言いふらすかもしれんだろっ」
環川は、通太と一波綾乃のことを言う。
「大丈夫。あいつらなら誰にも言わないさ。心配なら自分で言いにいくんだな。って環川先輩、早く立ち上がった方がいいんじゃねえか? あっちからうちの生徒が自転車でくる。みっともない格好さらしてたら恥ずかしいぜ」
環川が首をめぐらすと、確かに女子生徒が二人が自転車で並行してこちらに向かってくる
「くうぅ、うう」
環川は、よだれを垂らし、連れに支えてもらいながら懸命に立ち上がり、立ち上がってすぐ
「堂地! いつまでそんな格好している! さっさと起き上がれ!」
と、まだ四つん這いになっている巨漢に叱咤する。
堂地と呼ばれた巨漢もよだれの糸をいくつも垂らしながら、必死に起きた上がった。
その頃には盛奥は、その場を立ち去っており、かわって自転車の二人が不思議そうな顔で三人を見つめつつ、通り過ぎて行った。
橋中央で取り残された三人は、暫くして、環川の
「おいいくぞ」
の声でようやく動いた。当然三人の足取りは重い。




