12
英語の授業中、通太は、ビクビクしていた。
彼の後頭部に盛奥の睨みが突き刺さっているようで、オチオチ授業を聞いている余裕などなかったからだ。
授業終了のチャイムが怖かった。
それと同時に、盛奥が襲いかかってくる。
絶対にだ。
彼に直接蹴りを加えたのは、通太ではなかったが、原因は自分にある。
自分の汗で、盛奥の机がビショビショになったということは、紛れもない事実だ。
そんな事を通太が悶々と考え込んでいる間、時間は彼の上空を流れ、ついに英語の時間が終わった。
チャイムが鳴ったのだ。
通太は、首をすぼめた。
先生が教室を出て行ってすぐに怒声が響き、また胸ぐらを掴まれ、パンチの一発でもお見舞いされる、と予測しての体の自然な動きであった。
だが、十秒、二十秒経っても何の変化もない。通太の眉間のしわも次第に薄くなってきた。
(?)
通太は、少しだけ腰を回し、次に頭を少し動かし最後に目玉だけをゆっくり恐る恐る盛奥のいる席に向けた。
(あ)
通太は上半身を完全に反転させた。
盛奥は、席にいなかった。
英語の授業が終了し、通太は、盛奥の攻撃をビクビクしながら待っていたが、当の盛奥は、チャイムが鳴ると同時にふてくされた顔で教室を出ていた。
彼の仲良しグループもそれに続いていた。
その事を知らない通太は、キョロキョロ盛奥を探す。が、当然、教室に彼はいない。
キョロキョロしていた通太であったが、あるところで目が止まった。
一波綾乃の席だ。友達が、彼女を取り巻き、さっきの盛奥に対しての行動に対して色々質問しているようだ。
一波の外観を纏っているつくえは、無表情で友達の質問に答えている。
通太は、首を振った。何もあそこまでしなくてもいいのに、という心境であった。
三時限目以降も、盛奥は通太に危害を加えてくるといったことはなく、そのまま通太のこの日の学校生活は終わった。
盛奥は、友達を連れ立って静かに教室から出て行った。
(待ち伏せがあるかもしれない)
通太の脳裏には、もう放課後に探しに行こうとしていたお守りの石のことなど頭から消えていて不安感しかなかった。
このまま教室に居残り一晩あかすか、一瞬真剣に考えた通太であったが、暗闇の教室に一人いる自分を想像し、それに恐怖し絶句した。
通太は仕方なく帰宅を決断した。
決断と表現していいぐらい通太にしては、今日の帰宅は大層なものであった。
教室を出る時、ちらっと一波の外観をしたつくえを見た。
つくえは、友達に囲まれ、このあとどこに行って何して遊ぶか思案中だ。
通太に気付いたつくえは彼を見つめた。そして、かすかに頷いた。
その頷きが何を意味しているのか判らなかったが、通太もとりあえず頷き返した。
教室を出た通太は、重い気持ちを引きずりながら廊下を歩いた。よって歩行速度も当然遅い。
「はぁ……」
通太が、ため息をつきながら、階段を下りようとした時、
「稀川」
と彼を呼ぶ声がした。
通太は、声に反応して振り向いた。
後ろに立っていたのは、一波綾乃の親友、近藤加奈であった。
「稀川、あんた、綾乃に何かしたの?」
「えっ」
近藤加奈は、いつもと違う一波の様子が気になり、このことは通太が関係しているのではと推量して、質問するために追いかけてきたのだ。
「えじゃないわよ。綾乃が変わったの、確実にあんたが関係している」
通太は、咄嗟に近藤加奈の足元に目線を落とした。
近藤加奈は、通太の目の動きを見逃さない。
「ほら、逃げた。目がね。私の目から逃げた」
「そんな、逃げたなんて……」
通太は、目線を近藤加奈に戻し、弱く反論した。
「綾乃がおかしくなったの、今日のは、最大級的なのとして、昨日から予兆みたいなのはあったわ」
「予兆?」
「そうよ、一昨日、あんたが誰もいない教室で寝ていて、綾乃がそれを見てからよ。あれから綾乃変になった。昨日は、ぼー、今日は、ドッカーン、あんたほんと何したの?」
「ドッカーン?」
「ドッカーンでしょ。普通、男を足蹴りする? 綾乃は、活発で元気なコだけど、あそこまでしないわ。男子高校生を蹴り飛ばすなんてこと……」
「……そうですね」
通太は、そこは素直に認めた。男子に蹴りを入れる女子、中々いない。
「何があったか言いなさいよ、稀川!」
近藤加奈の語気が荒れる。
「言いなさいよっていわれても……何もないよ」
「ふん、無いことないはずよ。さっきも見たんだから。あんたと綾乃がアイコンタクトとってるの」
(!)
通太は、近藤加奈の観察眼に驚いた。さっき通太が教室を出る時、一波綾乃の外見をしている机と目線を合わせた際の頷きのことを言っているのだ。そこまで注意を払っていたなんて、彼女は本気だ。本気で一波のことを考えている。本気で一波がどうしたのか原因究明を望んでいるのだ。通太はまずいと思った。でも、本当のことなんて言えない。実は一波は、つくえに精神を乗っ取られているなんて言っても信じてもらえないことは、通太にも十分に判っていた。
「あんた、あの放課後の日、綾乃の弱みかなんか握って、あのコを脅しているんでしょっ。そうでしょ!」
近藤加奈はヅイっと通太に詰め寄ってきた。
「あ!」
通太のカバンを持たない方の腕は、空でクロールを泳ぐが如き、回った。
近藤加奈に迫られて、通太は思わずたじろぎ、自分の背にあった階段を踏み外していた。
近藤加奈もさすがに慌てた。敵視していた通太に反射的に救いの手を差し伸べる。
が、届かず。
通太は今日の朝同様、階段から転落――となる。
が、通太の体は、階段の角に叩きつけられる前に静止した。
踵が接地した階段の角から四十五度の角度で通太の体は、空で保たれた。
近藤加奈は、ゆっくり通太の手首を握って、自分の方に寄り戻した。
「だ、大丈夫?」
近藤加奈は、目をま開き、通太に言う。
「は、は、はい」
通太は、胃がまだ空中に漂っている感覚を憶えながら近藤加奈に応えた。
「びっくりしたぁ」
通太の後ろで声がした。
通太と近藤加奈は、同時に声の方を見た。
「あっ」
通太だけが驚きの声を上げた。
「あぁ、えぇと稀川くん、だっけ?」
通太の後ろにいたのは、笹山露子だった。
「どうしたの? 突然人が階段から倒れ込んできたから、思わず手で支えちゃった。まさかその人が、稀川くんだなんて」
そうなのだ。通太が、近藤加奈の詰め寄りによって、たじろき、階段から落ちそうになったのを止めてくれたのは、笹山露子であった。
「ささやまさんが助けてくれたんだ」
通太は、笑顔を笹山露子に向けた。
「ほんとどうしたの?」
笹山露子はそう言うと、残った階段を登り切り、通太の横に立った。
「ええと、はい、そのぉ……ちょっと目眩が……」
通太は、眉毛に手をやり、不自然に頭を少し揺らしそれらしく見せた。
「ちょっと本当に大丈夫? 保健室連れて行こうか?」
笹山露子は、心配そうに通太の顔を覗き込んだ。
「いや、大丈夫ですっ。すぐに良くなりますから」
「でも背中から落ちてくるなんて、稀川くん体が反転しているのよ。意識が一瞬無かったんじゃないの?」
「暑さのせいで、よろめいたのかな、ははは。でも本当にもう平気です」
「そお」
「はい。――」
と、元気よく返事した通太はあることに気が付いた。
近藤加奈が、通太たちの周辺にいない。
「あれ? そういえば今ここに誰か居てなかったっけ?」
と笹山露子も通太の傍らにいた近藤加奈の存在を確認している。
「え、そ、そうですか。誰か居ました? とゆうか、どうしたんですか? 一年の階に笹山さんが来るなんて」
と強引に話をはぐらかした。
「あぁそうだ、稀川くんに話があったの。ちょうど会えてよかった。もう帰ってるんじゃないかって急いでここまで来たの」
「どうしたんです?」
「うん、実は、明日の放課後、つくおに逢う約束したでしょ。あれ延期してほしいの」
「延期?」
「そう、ごめんね。私のおじいちゃんが今日の昼過ぎに倒れちゃって、今から母親の実家に帰らないといけなくなったの」
「そうなんですか……」
「うん、だからつくおに謝っておいてくれる?」
「はい、言っておきます。でも、今度いつつくえさんに逢ってもらえます? すごい楽しみにしていたみたいだから」
「わからないの。おじいちゃんの容体がよくなれば来週の月曜日には、登校できると思うけど……」
「そうですか、そうですよね……」
「じゃあ私行くね。つくおによろしく」
笹山露子は、髪をなびかせ、階段を降りて行った。
彼女の髪の残り香が、階段の踊り場に漂った。
(いい匂い)
恍惚の表情を浮かべた。だが、すぐにその表情は曇る。
通太は、笹山露子のおじいちゃんが倒れたという悲しい出来事より、つくえの悲しむことの方が頭に浮かんでいる。
(どうしよう)
明日、笹山露子と逢うことをとても楽しみにしていたつくえに、なんて言えばいいのか?
さっきの笹山露子とのやり取りの間、教室に戻り、一波の外見をしたつくえを引っ張って来るという方法もあったが、今思いついたことで、あとの祭り――いや、いやいやいやぁ! 通太の内で何かが弾けた!
先程までしゅんとしていたのが嘘のように彼は目を輝かし、自分の教室に俊足に駆け寄ると、
「つくえさん!」
と絶叫。
教室に残っていた面々は、通太の声に驚いた。
通太は、一波綾乃の姿をすぐさま発見すると、彼女の手首をとるや否や再び廊下に出た。
「稀川、どう――」
「つくえさん、ついてきて下さい!」
また絶叫。
通太は、一波の手首を持ったまま走り出す。
二人は、朝とは逆の立ち位置で廊下を走った。
「どうしたんだ?」
つくえは、通太の背に声をかけるが、通太は無視。
というより声は彼に聞こえていない。
通太は必死につくえを伴い、階段を駆け下りた。
今日は何回階段を使ったか。しかも殆どが、ダッシュ。
しかし通太の今には、疲労などない。
「稀川ぁ!」
つくえは張り上げられるだけの大声を出した。
その声は通太に届いた。
三階の踊り場で止まると、一波の手首を離し、
「とにかく僕についてきて下さい!」
と言い、また走り出した。
つくえは、階段を下りていく通太を、不思議そうにただ見ている。
通太はつくえがついて来ていると思い、そのまま構わず走り続け、三年六組に到着した。
「えぇ! もういない!」
通太は、瞬時に教室内を確認し、笹山露子がいないことを確認すると、瞬時に次の行動に移ろうとした。
「あれ? つくえさんはっ?」
通太は振り返ると、つくえがいないことに驚き、辺りを見渡した。
「もう!」
通太は、階段に戻った。
戻ってみると階段の途中で、ボウと立ち尽くしている一波の姿がある。通太が冷静にその姿を見れていれば、つくえの異常な表情に気がついたかもしれないが、今の通太は蒸気のように熱くなっていて、つくえの様子を冷静に見ることが出来なかった。
「つくえさん! 何してるんですか? 早く着いてきて下さい!」
「あ? ……ああ。ああ? どこに行くんだ?」
「笹山さんのところです!」
「なに?」
一波の目が急速に輝き始めた。灯がともったと表現してもいいだろう。
「もう教室にはいませんっ。靴箱です、靴箱に行きましょう!」
通太としては、つくえがあんなに逢いたがっていた笹山露子が、急用で明日学校にこれないと判り、つくえが気を落とすだろうと、一目だけでも彼女の姿を見せてあげたく必死になっていたのである。
ただ、笹山露子は教室にはいなかった。数分前まで自分と対面していた彼女がもういない。さっき彼女は、カバンを持ってはいなかったので、通太は、彼女が一旦教室に戻り帰宅しただろうと推測し来てみたのだが、一足遅かったようだ。よほど急いでいるのだろう。
彼女が学校から出ていれば、通太としては笹山露子がどこに住んでいるのか探しようがない。
だから彼女が学校を出るまでが勝負だ。
(靴箱にいなかったら、もう駄目か。いや、学校を出ていてもまだ走れば……)
そんなことを考えながら、通太は、靴箱に急いだ。
つくえも、幾分かの疑問を引っ提げてつつではあるが、通太について行く。
通太が何をここまでしゃにむになって笹山露子を探索しているのかわからない。明日になれば彼女に逢えるのだ。まさか明日、彼女と逢えないということを知らないつくえが、通太の行動をいぶかるのは、当然である。
兎にも角にも靴箱に着いた二人は、三年生のエリアを見た。
「おい稀川通太。どうしたのだ? 笹山露子がどうかしたのか?」
つくえは、のんびりと通太に尋ねた。
「詳しい事はあとで言います! ろこさんを探して下さい!」
「ああ。でも俺は笹山露子――」
の最近の容姿を知らない、と言おうとしたつくえのむこうに、靴の爪先を地面へトントンとたたく笹山露子を通太は見つけた。
「ささ――」
通太が名前を呼び終わらないうちに、笹山露子は、走り出した。
「!」
自分の視界から消えた笹山露子を追う通太。
靴箱から出た彼は、露子の背中を見て驚いた。もう彼方に彼女は走り去っている。
「速い!」
と口惜しく嘆く通太の横には、一波のなりをしたつくえの姿が。
「あれが、笹山露子か?」
「はい、あの走っている人です。でももう見えなくなりました。駄目だ、今から追いかけてももう……」
と通太がひざに手をやり首をダランと垂らした時、風が起きた。
「ん?」
前方を見れば、今横にいた一波のなりをしたつくえが疾駆している。
「速い……」
通太が呆気にとられるぐらい、一波のなりをしたつくえの走力は尋常でなかった。
通太はとりあえず、後を追った。




