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一時限目の授業終了後、一波綾乃の周りには、朝一同様、人だかりが出来ていた。
「綾乃、大丈夫? 平気なの?」
「ああ、大丈夫」
「それにしても、さっきの綾乃なんか凄かったよね」
「そうそう、先生に怯むことなく、堂々としていたよね」
「怖くなかったの?」
「うん」
一波を取り巻く面々の主な話の内容は、彼女が突然倒れたことから、さっきの数学の時間、川下先生に臆することなく振る舞った、一波の態度へと移っていた。
さっきの数学時間の一波綾乃の態度は、教室にいる男子生徒の話題にもなっていた。
「ほんと一波、迫力あったよな」
盛奥のグループでも一波のことが話されている。
「あいつ、もともと堂々としていて、先生たちに臆することなんかなかったけど、さっきの時間は、また別物だったなぁ」
「まぁな確かにそれは言える。凄みすらあったもんな。それに引き換え、あの男は……」
盛奥寛治は、通太を目で探した。
「あれ、あいつどこいったんや?」
「ん? 寝てるやろ?」
「いや、いない」
いつもの時間なら通太は、確実に寝ていた。
だが通太は机に突っ伏すことなく、どこかへ行っているみたいであった。
「トイレ違うんか」
「さっき俺、トイレいったけどおらんかったで」
「家帰ったんちゃうか?」
「おかぁさぁーん、一波さんに文句言われてこわかったよぉ、っていいながらな」
「ぎゃはははははぁ」
一年五組で盛奥グループに大笑いされている通太は、その頃体育館裏にいた。
「ない! ない!」
体育館裏の階段下で彼は一人、まだ少し痛む背中をさすりながら地面をキョロキョロしていた。
「ない! どこにいったんだ?」
通太は、数学の授業が終わるのと同時に静かに教室を離れ、階段の踊り場までくると、体育館裏目指して、走った。
「きっと階段から落ちた時に落したんだ。だからこの辺に……」
彼は、いつも胸ポケットに入れている、お守りの青い石を探しているのだ。
その石は、自宅から自転車で二十分ぐらいの距離にある雑貨店で通太が自ら購入したものであった。
石としての効き目が、邪気を取り除くということで、そこが気に入ったのだ。
購入当初、通太自身、本当に自分を守ってくれるのか、半信半疑であったが、毎日石を身に着けることによって、その行為が習慣となり、今では効果はともかく、持ち歩かないと不安になってしまうぐらいの存在になっていた。
「だめだ、ない! 時間もない!」
二時限目の始まりを告げる時間は刻一刻と迫っていた。
次の授業も遅刻となっては、どうしようもない。
通太は、石の探索をとりあえず諦め、教室に戻ることにした。
授業が始まるまで、あと三分足らずだ。
通太は、約一時間前と同じ様に、全力で教室にむかって走った。
全力で駆けた甲斐があったようで、チャイムと同時に何とか教室に戻れた通太は、フラフラしながら自分の席に着いた。いや、自分の席に着いたつもりでいた。
疲労困憊の表情で当たり前のように通太が座った席は、彼の席ではなく一つ後ろの席、盛奥寛治の席だった。
「ふぅ」
通太は盛奥の席で、机に両腕を置いて一息ついた。通太の白シャツは、汗でビショビショになっていて、それは湿っているのを越え、濡れていると表現した方が良かった。
その日は、確かに夏も近い暑い日だったが、通太の様に、全身ずぶ濡れになっている生徒は、一年五組の教室では、彼以外いなかった。
ここ数日、稀川通太は、このクラスで注目を集めていた。
奇行が目立った。しかも爆裂級のがだ。
この、他人の席に座るというのもその一つだ。
他人の席に素の意識でドカリと座るということは、全国広しと言えど誰もいないであろう。
通太は、それをしたのだ。
「おい、盛奥、あれ、稀川」
盛奥の仲良しグループの一人が、盛奥に通太の異常行動を教えた。
「あぁ?」
盛奥は、通太の席の方に視線を移した。
「ああ、あいつ、戻って――あっ! あれ、あれ俺の席!」
盛奥は、目を見開き、自分の席に座る通太を驚きの表情で見た。
「おいっ」
盛奥は、完全にキレていた。
昨日も通太によって自分の机から教科書は落とされるし、今も、自分の席になぜか稀川通太が居座っている。盛奥にしてみたら、おちょくられているとしか考えられなかった。あんな弱弱しい萎縮人にだ。しかもそのことが教室にいる全員に見られているのだ。弱い稀川に、盛奥は馬鹿にされている。その事によって自分のレベルが下に見られてしまうと感じた彼は、その何の根拠もない理屈に、羞恥心を覚え、その羞恥心を癒す為に、怒りという自分の自尊心を保つ、そして周りの人に俺は強いと訴えかける感情を無意識のうちに出現させていた。
その怒りは、机から教科書を落とされた時よりも、数段激しさを増していた。
「おい、稀川!」
盛奥は通太の元に駆け寄ると、
「おまえ何してんねん!」
と怒号を一発した。
「えっ! えっ!」
「おまえ何や? 俺をおちょくってるんかっ、あぁぁ?」
「何が? 何が?」
通太は、盛奥がなぜこんな剣幕で自分に迫っているのか、検討がつかないでいる。
「ふざけんなやおまえ――」
盛奥は通太の胸ぐらを掴み、グイと自分の方に強引に寄せつけた。
「あ!」
通太はなされるがまま強制的に立たされた。
先生は、まだ教室に到着していない。一年五組の生徒たちは固唾をのんで事の成り行きを見守った。
「おまえ、自分の席も判らんのかっ、あっ?」
「え?」
漸く通太は、自分が何をしでかしているのか理解出来た。
「ああ、ご、ごめん、ここ盛奥くんの席だよね、ごめん」
「ごめんとちゃうわ、これ見てみろ!」
盛奥はそう言って、通太の胸ぐらを手放すと、自分の机を指した。
盛奥の机は、通太の汗でビショビショになっていて、タオルか何かで拭かないといけない状態になっている。椅子も同様に通太の太股の汗で湿っているようであった。
「汗まみれの状態で俺の席座りやがって、キモいねん!」
「ごめん、すぐに拭くから」
通太はポケットからハンカチを取り出すと、盛奥の机を拭いた。
「おまえみたいなやつの汗が染みた机と椅子で授業なんか受けられるか! 新しい机と椅子どっからか持ってこい!」
「そそれは……」
通太が、ビクビク盛奥の罵声を聞いている時だった。通太の肩に何かがポンと乗ったかと思った次の瞬間、ズシリと重みが加わった。
それと同時に、盛奥が床に倒れ込んだ。
床にうずくまる盛奥を見て、通太は、食いしばって閉じていた口がポカンと開いた。
(何?)
通太は混乱していたが、彼以外の生徒たちは、そこで何が起きたのか一部始終を見ていた。
一瞬遅れて通太も自分の視界の異変に気付いた。
自分の右目のすぐ横を通って足が伸びているのだ。
しかも女の子の足。
「へ?」
通太は、間の抜けた声を出した。彼の背後から伸びている足は、彼の視界から消えた。彼は、その足を追いかける様に振り返った。後ろには、一波綾乃の姿があった。
そうなのだ。盛奥を、蹴りの一撃によって床に這いつくばらせたのは、一波綾乃だった。正確に言えば、一波の外見をしたつくえだった。
しかしこの事件を目の前で目撃している生徒たちにすれば、そんなことは知らない。正真正銘の一波綾乃が盛奥をダウンさせたと受け止めている。
生徒たちは、通太と盛奥のやり取りを凝視していたが、やがてその二人に近づく一波を何人かの生徒は視界に捉えることとなる。
つくえは、二人にツツっと近づくと、まず通太の背後から彼の右肩に左手を軽く置き、そこを支点に踏ん張り、通太の前でがなっている盛奥のコメカミに蹴りをお見舞いしたのだ。
見事な蹴りであった。
彼女の振り上げた足の角度は、体に対して鋭角に三十度ぐらいにはなっただろう。
場所によっては、彼女のスカートの中が見えていた生徒もいたかもしれない。
「どうしたんですか?」
通太は、なぜ自分の後ろに、一波の外見をしているつくえがいるのか判らなかった。
それは、つくえの蹴りによって盛奥が倒れたということも理解していないということだった。
そして通太と同じ様に、そのことを判っていない人間がいた。
盛奥寛治だ。彼は、中学卒業まで地元の空手道場に通っていたつわものだ。今でも昔ほどではないが、たまに道場に顔を出して練習する。その彼が、一撃で尻もちをつかされる状況となったのだ。
「野郎、いい度胸だぜ、稀川……」
盛奥は、自分に手を出したのは、通太だと思い込んでいる。
蹴りを受け脳が揺れたのか、盛奥はフラフラしながら、ゆっくり立ち上がろうとしていた。
「まさか、おまえが手ぇ出すとはな。不意打ちとはいえ、びっくりだぜ、俺に打撃を与えるとはよ」
完全に立ち上がった盛奥は、左腕をダランと前に垂らし、右手は握り拳を固めている。
通太は今さらながら、盛奥の鍛え抜かれた体躯を見て恐怖した。中でも二の腕に目を見張った。自分とは形が違う。二の腕の内側にも筋肉はついているが、外側も異様な形で筋肉が盛り上がっている。
もはや誰も彼を止められない。何かに向けて怒りを表現しないと彼としては気がすまない。表現したところで気がすむとは思えないが……。
「おおお――」
雄たけびと同時に左足を前に出した盛奥は、空手で習得した正拳突きを通太に喰れてやろうと動作した。なんの躊躇も手加減もなくの拳をだ。
が、盛奥の拳が通太の顔面に到達するよりもっと速く通太の体は後方に引っ張られ、変わって一波が前に出てきた。
そして、右足を盛奥のみぞおちめがけ素早く突き出した。
「ほんごぉ――」
奇妙な声を出した盛奥は、四肢を投げ出して後ろに吹っ飛び、床に背中から着地しそのまま滑った。
盛奥は、両側に並ぶ机に一触れもせず、通路を真っ直ぐ滑った。彼の体は、教室の一番後ろの壁に頭のてっぺんがゴツンと当たることでようやく止まった。
「すまぁん、遅くなって――あれ?」
英語担当の先生がようやく教室に到着した。先生は、やけに静まり返っている教室に首を傾げた。
「みんなどうした、早く席に着け。ん?」
先生は、生徒たちが唖然とした表情で、ある一点を見つめているのに気付いた。
そちらに先生も注意を向けた。
教室の後ろで生徒が寝転んでいる。
「どうした、盛奥?」
「ぐぐぐ」
盛奥寛治は、両肘で体を支えつつ、上半身を起こそうとしている。
「そんなとこで寝ていると風邪ひくぞ。まぁ今は六月と言っても暑いからな、床で寝るのは気持ちいいか、ははは」
先生一人が自分で言ったことに大笑いしているが、他の生徒は、誰一人として笑っていなかった。
というか、先生の声など初めから耳に届いていない。
今の休み時間の一瞬の出来事に、皆心奪われているようであった。
一波は、自分の席に戻った。
通太も、自分の席に恐る恐る座った。
やや遅れて最後に盛奥が、通太の汗を吸った自分の机を目の前にして椅子に座った。




