10
何回かの問答のあと、通太は、笹山露子に逢いたがるつくえを何とか説得し、彼(彼女?)を伴い、一年五組の教室に向かった。二人は、陸橋を渡って校舎に入り、外階段を使って四階まで一気に駆け上がった。外階段から教室に向かう方が圧倒的に早い。
なぜ一波に扮したつくえが、わざわざ遠回りのルートで通太を連れ立ち生徒に周知されやすい校内の階段で体育館裏まできたのか、この時の通太には、そのことを考えている余裕など微塵もなかった。
ぜいぜい言いながら通太が一年五組の教室に駆け寄ろうとした時、
「おい、稀川通太」
と机が、通太を呼び止めた。
「何ですか?」
「遅刻して授業に臨む時は、職員室に行き、そこにある紙になぜ遅刻したか書いてから、教室に入らないといけないのではないのか」
「あ」
通太は、机の一言で思い出した。
そうなのだ、遅刻した時は、今机が言った段取りののち、教室に行かなくてはならない。
初めて遅刻して授業に臨む通太は、このことが完全に抜けていた。
「急いで、職員室に行きましょう」
二人は、職員室のある二階へおりた。
慌ただしく職員室に入った通太と、至って冷静な一波綾乃の外見をしたつくえは、紙のある場所を、先生に聞き、紙にクラス名、名前を記す。
「遅刻の理由欄はどう書く?」
「ええと……ええっと……」
「一波綾乃はいつも、寝坊と書いているぞ」
「寝坊? 一波さんが?」
「ああ。この子は、今まで三回遅刻していて、その度に寝坊と書いている。もっとも本当の理由は、違う学校の友達と午前十時まで家の近所の公園で喋っていた、それと――」
「つくえさん、続きはまたあとで聞きます!」
通太は腕時計を見た。もう授業が始まって、十五分が過ぎようとしている。通太は一分一秒でも早く教室に戻りたい。悠長に、一波綾乃の遅刻の理由を話そうとしているつくえに、通太は、もどかしさを感じた。
「寝坊と書きましょう。書けました?」
「書いた」
「教室に行きましょう」
二人は、再び四階に駆け上がった。
「むは、はぁはぁはぁ」
四階に着くとすぐ通太は階段の踊り場にへたり込んだ。下あごは、横にスライドして歪み、あえいでいた。その横では、一波の外見を纏っている机が、涼やかな顔をして通太を見下ろしている。
「つくえさんは、はぁはぁ、しんどくないんですか?」
「ああ。感覚としては、一波を通じて判るが、俺自身は、疲れるということはない」
「そ、そうなんですか」
「そうだ」
「その辺も、僕以外の人と接する時は、表現した方がいいと思います」
通太は、息を整えつつ、立ち上がった。
「まずつくえさんが、教室に入って下さい。それで――」
「それで、この紙を先生に渡し、席に着く。友達に、何があったか聞かれたら、昨日の放課後稀川が私にぶつかって、謝りもせずに帰って行き腹が立ったから呼びだした、と言えばいいんだろ」
「は、はい」
机は、通太の驚いている顔をよそに、教室へと歩いて行く。
と、すぐに歩みを止め、
「今日、学校ではおまえと接触しない方がいいか?」
と自分(一波綾乃)の肩越しに訊いてきた。
「そ、そうですね」
「では自宅に電話する」
とつくえはそう言い残し、教室へと消えていった。
「自宅に電話……」
独り誰もいない踊り場で通太はポツリ呟く。
(学校ででは、つくえさんとは喋れないんだ)
途端通太は、元気が無くなった。
彼は、トボトボ教室の前まで歩き、力弱く戸を横にスライドさせた。
戸の開く音に反応して教室内にいる全生徒の目が通太にいった。
その視線の圧に教室から押し出されそうになった通太だったが、何とか一歩を教室内に入れ、そのまま教壇まで前進した。
そこには、先程まで体育館裏で、大声でどなり興奮していた、稀川通太はおらず、いつものオドオドした彼がいた。
数学の川下先生は、教室に入ってきた通太など意に反さない様子で、黒板に数学の問題を白チョークで書いている。
通太は恐る恐る、遅刻の理由を書いた紙を教卓の上に置き
「遅れてすみません」
と一言小さい声でいい、自分の席に戻る。
通太が、自分の席の横まで来て、椅子に手をかけようとした時だった。
「稀川くん」
と彼の背後で声が上がった。
「え」
通太は一瞬声の主が判らなかった。
川下先生は無口で、いつも一人で淡々と授業を進行していき、チャイムが鳴ると、どれだけ区切りが悪くても、授業を中断し、教室をあとにする。生徒を指して、問題を解かせるということもしない。生徒が遅刻しようが何をしようが、川下先生は、どこ吹く風と授業を進める。よって川下先生が生徒の名前を発したことなどなく、今、
「稀川くん」
と言った言葉に、通太のみならず、教室にいる誰もが違和感を覚えた。
しかし紛れもなく声の主は川下先生で、既に黒板に問題を書き終え、教卓の左右の端に手のひらを置き、通太を眼鏡越しに見ている。
「稀川くん」
川下先生は、また通太を呼んだ。
通太は返事もせず、先生の方に振りむいた。
「君は、この紙に、遅刻した理由は、寝坊したためと書いてあるが、これは本当かね?」
「えっ?」
「私は、君を八時十五分ごろ、この学校の中で見ている。靴箱付近でだ」
通太は、呆然と川下先生の顔を見ている。
「それとも君は一度学校に来て、再び家に戻り、寝て、また起きて登校し、今この教室に入ってきたのかね?」
通太は、顔面が蒼白となった。まさか、まさか、遅刻の理由を突っ込まれるとは……。予想外のことが起き、彼は動揺しまくっていた。
「あ、あ、あのそれは……」
か細い声で訳を語ろうとするが、通太の頭の中は真っ白。
川下先生は、通太を見続けている。眼鏡が光に反射して、先生の目自体が見えにくく、それが、先生の不気味さを醸し出している。
その二人を見守る一年五組の生徒たちの心境はだいたい二通りに別れていた。先生の偏屈ぶりに、通太に対して同情を引いている者も数人いて、
(どうでもいいやん)
と思う者。
(おもろいおもろい)
と愉快がっている大多数の者。
その中で一人、どちらにも属さない思考の持ち主がいた。
その人物は、突然席から立ち上がった。
「先生」
川下先生が声の方に顔を向けた。
そこには、一波綾乃が立っていた。
無表情に立つ一波綾乃は、口を開いた。
「稀川……クンは、私が呼び出した為、授業に遅れたのです。昨日の放課後、私にぶつかった稀川……クンは、謝らずに、そのまま帰って行ったのです。私は、それに腹が立ち、今日の朝、授業が始まる前に、彼を教室から呼び出し、彼に文句を言っていたのです。謝罪を求めたのです。そのため授業に出るのが遅れたのです」
「ふむ」
川下先生は、眼鏡の中央を中指でグイっと上げると
「では、君も遅刻の理由が変わりますね。君も寝坊ではない」
と言った。
「そうです。書き直します」
一波のなりのつくえは、シャーペンを持ち、教卓の前に進み出ると、自分の遅刻用紙を見つけ、寝坊と書かれてある字の上に訂正の為のサインである横棒二本を引き、稀川くんを呼びだし、文句を言っていた為に、授業に出るのが遅れた、と記入し直した。
書き終えると、一波は、通太の遅刻用紙を取り上げ、それを通太の方にさし出した。
無言で、通太にも書き直すようにと言っているようだった。
導かれるように通太も前に出た。
前に出たものの、書くものを忘れたことに気付いた通太は、慌てて席に戻ろうとした。
が、つくえが彼の目の前にシャーペンを出し、動きを封じた。
通太は、シャーペンを受け取ると、遅刻用紙に目を向けた。
「ええと」
全身から汗が吹き出ていることも気付かないぐらい動揺している通太は、遅刻の理由の文面をどう書くか、考えあぐねていた。
シャーペンがいたずらに、紙の上をウロウロしている。
「一波さんに呼び出されて、文句を言われていた為に、授業に出るのが遅れたと書けばいい」
通太の横でつくえが助け舟を出す。
オドオドしながら、その後二、三回つくえに文面の内容を聞き返しながら、遅刻の理由を書き終えた通太は、疲労困憊の体で席に戻った。もちろん、一波のシャーペンを持ったままだ。
一波の外見をしたつくえは、そのことに気付いていたが、言わなかった。
「授業を再開します」
川下先生は、何事もなかったかのように再び数学の問題の説明に取り掛かる。
その声の下で、通太の記入した遅刻用紙が僅かな湿り気を残し、置かれていた。
紙に書かれた文字は、異様に波うっていた。




