EP 9
ヤンデレ覚醒と胃袋の完全制圧
「……あの、優也さん」
キャルルの小さな手が、俺のエプロンの裾をきゅっと掴んでいた。
振り返ると、コット(簡易ベッド)に座る彼女が、前髪の隙間から、どこか熱を帯びた湿度の高い瞳で俺を見上げている。
「どうした。まだどこか痛むのか?」
俺が尋ねると、キャルルはふるふると首を横に振り、ポツリポツリと話し始めた。
「私……ずっと、誰かを守らなきゃいけないって思ってました。獣人王国にいた頃も、このポポロ村の村長になってからも。私が強くならなきゃ、私が傷を癒やさなきゃって……」
彼女はかつて、レオンハート獣人王国の第三姫君であり、近衛騎士隊長候補だった。
強さこそが絶対の価値基準である獣人族の中で、彼女は常に『与え、守る側』であることを強要されてきたのだろう。
血を吐いてでも他人の傷を治すあの自己犠牲の精神は、美徳というより、呪いに近い。
「でも……他人に守られて、こんなに温かくて美味しいご飯を作ってもらって、介抱されたのなんて……生まれて初めてです」
ポロリと。
キャルルの大きな瞳から、涙の雫がこぼれ落ちた。
「優也さんの背中、すごく大きくて……安心しました。スープ、とっても温かかったです。私……私……っ」
彼女は両手で顔を覆い、しゃくりあげるように泣き始めた。
張り詰めていた村長としての責任感や、姫としてのプライドが、三ツ星のスープの温もりによって完全に決壊したのだろう。
俺は小さく息を吐き、空いた手で彼女の頭にポン、と手を乗せた。
ウサギの耳がビクッと跳ねるが、嫌がる素振りは見せない。
「……背負い込みすぎるな。お前はまだ、たかだか二十歳のガキだ。大人の都合や村の治安を一人で抱えて、血を吐く必要はねえよ」
「優也、さん……」
「客(民)が腹を空かせてりゃメシを食わせるし、理不尽に泣いてる奴がいりゃ助ける。それが俺の店のやり方だ。お前も、しんどくなったらまたいつでも食いに来い。とびきり美味いもんを出してやるからな」
料理人として、そして祖父から受け継いだ流儀として、ごく当たり前のことを言ったつもりだった。
しかし、俺のその言葉と掌の感触が、彼女の中の『何か』のスイッチを完全に押し切ってしまったらしいことに、俺はこの時まだ気づいていなかった。
「…………はい」
泣き止んだキャルルが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳孔が、先程までの純粋な涙目から一変していた。
ハイライトが薄れ、どこか暗く、底なし沼のような重い執着の色を宿している。
「いつでも、食べに来ていいんですね……? 優也さんの、特別で温かいご飯を」
「ああ。金さえ払えばな」
「ふふっ……」
キャルルは俺の手を両手で包み込むように握りしめ、自らの頬にすり寄せた。
「私をこんなに甘やかして、胃袋まで掴んで……もう、責任をとってもらうしかありませんね。私、今まで自分が持っていたものなんて全部どうでもよくなりました」
「おい、どうした?」
「優也さんは、私のものです」
キャルルは俺の目を真っ直ぐに見据え、うっとりとした、それでいて背筋が凍るような暗い微笑みを浮かべた。
「この温もりも、美味しいご飯も、あの圧倒的な強さも……全部、全部、私だけのもの。誰にも渡しません。もし優也さんに害をなす虫がいれば、私が全部すり潰しますからね……♡」
(……ん? なんだこの急激な湿度の上がり方は)
明らかに村長としての顔でも、姫としての顔でもない。
いわゆる『ヤンデレ』というやつが覚醒した瞬間に立ち会ってしまった気がするが、俺はとりあえず「……そうか、村長直々の護衛は心強いな」と適当に流しておくことにした。
「マスター! ダーリン! 終わりましたよー!」
その時、厨房の扉がバンッ!と開き、リリスとリーザが元気よく飛び込んできた。
「あの生ゴミ共、路地裏のゴミ捨て場に綺麗に重ねておきましたっ!」
「あと、持ってた小銭はしっかり回収しておきましたよ!」(※リーザのサバイバルスキル)
「お前らな……まあいい、ご苦労だった。お前らにもまかないを作ってやる」
俺が二人に声をかけた瞬間。
キャルルが、俺の背後からリリスとリーザに向けて『絶対零度の殺気』を放った。
「ヒッ……!?」
「な、なんですかこの空気……!?」
リリスとリーザの動物的な本能(女神と人魚だが)が、最高レベルの警報を鳴らしたらしい。ガタガタと震えながら抱き合っている。
キャルルは俺の背中にぴとっと身を寄せたまま、二人に向けてだけ、音のない口パクでこう告げた。
『――優也さんは、私の、だから。馴れ馴れしくしたら、殺すわよ?』
「あわわわわわ!!」
「は、はいぃぃぃっ!!」
意味も分からず全力で土下座する二人の店員を見て、俺は首を傾げた。
「どうした? 急に土下座なんかして」
「い、いえっ! 何でもありませんマスター!」
「そうか。じゃあ、今日のまかないは余った角煮のタレで作る『絶品まかない炒飯』だ。キャルル、お前も食っていくか?」
俺が振り返ると、キャルルは先程の殺気が嘘のように、満開のひまわりのような愛らしい笑顔を浮かべた。
「はいっ! 優也さんの手料理なら、何杯でもいただきます♡」
こうして、俺の異世界での定食屋経営は、底なしの胃袋を持つ女神と人魚、そして重すぎる愛を抱えたヤンデレウサギ村長を常連に迎えることとなった。




