EP 5
悪徳貴族の寝室と、月兎の誇り
ルナミス帝国広域管轄・ゲルド子爵邸、三階の最奥。
重厚な防音扉に守られたVIP用寝室は、むせ返るような媚薬の香炉の煙と、悪趣味な真紅のシルクで覆われていた。
「ゲフフフ……。スゥゥゥゥ……ハァァァァ……ッ!!」
巨大な天蓋付きベッドに腰掛けたゲルド子爵が、薄いシルクのガウン一枚という醜悪な姿で、鼻の穴をヒクつかせている。
彼がねっとりとした視線を向ける先には、部屋の中央で両腕を抱きしめ、小刻みに震えているキャルルの姿があった。
「あぁ、素晴らしい。怯える月兎族の表情……。そのピンと立った白い耳が、恐怖でわずかに震える様……! 芸術だ! これぞ私が求めていた至高のコレクションだ!!」
ゲルドは恍惚とした表情で立ち上がり、純銀のヘアブラシをチャキチャキと鳴らしながら、キャルルへとゆっくりとにじり寄っていく。
「……約束は、守っていただきますよ。私があなたの夜伽の要求を飲めば、ポポロ村の物流封鎖はすぐに解除すると」
キャルルは後ずさりしながらも、必死に声を振り絞って睨みつけた。
「ええ、ええ。もちろん。……あなたが私を『満足』させている間は、ね」
ゲルドがニチャァ……と、口の端から涎を垂らして笑う。
「ですが、もし私のブラッシングに逆らったり、少しでも歯向かったりすれば……その瞬間に村の塩は止め、あの小生意気な定食屋の主人も、反逆罪で蟹工船行きにしてもらうよう手配済みですよ。ゲフフッ!」
「ッ……この、卑怯者……!」
「卑怯? なんという褒め言葉! さあ、小娘。無駄な抵抗はやめて、私にその美しい毛並みを委ねなさい……ッ!!」
ゲルドの脂ぎった太い指が、キャルルの顔へと伸びてくる。
逃げ場はない。ここで抵抗すれば、村が、そして優也が破滅する。
(……ごめんなさい、優也さん。もう、あの甘くて美味しい『人参のグラッセ』は食べられないけれど……)
キャルルはギュッと目を閉じ、己の運命を受け入れようとした。
月兎族として生まれた呪い。権力者の慰み者として、誇りも尊厳も奪われる屈辱の夜が始まる。
ゲルドの汚らしい手が、キャルルの白いウサギ耳に触れようとした、まさにその絶体絶命の瞬間だった。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
寝室の分厚い防音扉が、爆発でも起きたかのように木端微塵に吹き飛んだ。
「な、なんだァッ!?」
ゲルドが悲鳴を上げて飛び退く。
吹き飛んだ扉の破片と、もうもうと舞い上がる粉塵。
その奥から、ガラガラと静かな車輪の音を立てて、一台のルームサービス用ワゴンが押し出されてきた。
「……お食事中(お楽しみ)のところ、失礼するぜ」
粉塵を切り裂いて現れたのは、純白のコックコートを纏い、口にLarkを咥えた一人の男。
「ゆ、優也さん……!?」
キャルルが信じられないものを見るように、大きく目を見開いた。
「貴様は! あの定食屋の親父!! なぜここへ入れた! 護衛はどうしたァ!!」
ゲルドが泡を食って後ずさる。
「護衛なら、一階の厨房でお昼寝中だ。俺たちは『出張ケータリング』として正面から堂々と通してもらったんでな」
優也の背後から、黒のスラックスにワイシャツというギャルソンスタイルで決めた、リリス、リーザ、ダイヤの三人が、氷のような殺気を放ちながら姿を現す。さらに、ワゴンを押していたリバロンが、完璧な角度でお辞儀をした。
「……ッ! バ、バカな! ここは子爵邸だぞ! 貴様ら、ただで済むと――」
「定食屋の親父が、常連の客を回収しに来ただけだ」
優也はキャルルの前へ歩み出ると、その小さな頭にポンッと手を乗せた。
「キャルル。村長が、俺のメシも食わずにこんなカビ臭え部屋で泣いてんじゃねえよ」
「ゆ、優也さぁん……っ!」
キャルルはこらえきれず、優也のコックコートに顔を埋めてボロボロと泣きじゃくった。優也はその背中を不器用な手つきで軽く叩いてやる。
「お、おのれ……! ええい、出会え出会えッ!! 曲者だァ!!」
ゲルドが狂ったように叫ぶと、寝室の奥の隠し扉から、完全武装の凄腕の私兵(暗殺部隊)が十数名、一斉に飛び出してきた。
「閣下! ご無事ですか!」
「その平民どもを殺せ! 八つ裂きにしろォ!!」
抜刀し、殺意を剥き出しにして優也たちを取り囲む暗殺部隊。
だが、優也は全く動じることなく、ワゴンに乗せられた銀のドーム型フタ(クロッシュ)に手をかけた。
「……ルームサービスだ」
優也はポケットから、一粒のコーヒーキャンディを取り出した。
それを無造作に口へ放り込む。
「客の食い扶持(物流)を人質に取るような豚には、極上の【下処理】を振る舞ってやる」
――ガリッ。
奥歯でキャンディを噛み砕く、硬質な音が寝室に響いた。
その瞬間、銀のフタが弾け飛び、中から極上の冷気を纏った愛刀『白雪』が、定食屋の親父の手に握り込まれる。
三ツ星シェフの、最高に理不尽で爽快な『チャンバラ(成敗)』の幕が、今切って落とされた。




