EP 2
好色なる豚、ゲルド子爵
ポポロ村の中央広場は、かつてないほどの緊迫した空気に包まれていた。
「……随分と大仰なご到着ですね。ルナミス帝国広域管轄・ゲルド子爵閣下」
広場の中央。村長であるキャルルが、毅然とした態度で前を見据えていた。
彼女の背後には、天魔竜聖剣の柄に手をかけ、今にも飛びかからんばかりに歯を食いしばるダイヤと、無表情のまま冷たい殺気を放つ執事・リバロンが控えている。
彼らの対面には、ルナミス軍の精鋭部隊に護衛された、豪奢な巨大馬車。
その馬車から、過剰なほどに甘ったるい香水の匂いと共に、一人の男がねっとりとした足取りで降り立った。
「スゥゥゥゥ……ハァァァァ……ッ! あぁ……素晴らしい。なんという芳醇な『希少種族』の匂い。帝都の香水など足元にも及ばない、野生と気高さが入り混じった極上のフェロモンだ……ッ」
男は、丸々と太った脂ぎった顔を歪め、恍惚とした表情で空気を肺いっぱいに吸い込んでいた。
ルナミス帝国中央貴族、ゲルド子爵。
ザック男爵よりも上位の権限を持ち、この国境一帯の物流や行政を合法的に止める力を持った男だ。
彼の右手には、ベルベットの布に包まれた『純銀のヘアブラシ』が握られており、それを自分の頬にすりすりと擦り付けている。
「初めまして、美しい『月兎族』の村長殿。私はゲルド。……ああ、そのピンと立った白く美しいウサギの耳。想像するだけでたまらない。私のこの特製ブラシで、一晩中、毛の根元からたっぷりと……優しく、優しくブラッシングして差し上げたい……ゲフフッ」
舌なめずりをしながら、粘着質な視線でキャルルの全身を舐め回すゲルド。
絵に描いたような好色豚の変態だ。
そのあまりに気持ちの悪い言動に、キャルルのウサギ耳が嫌悪感でゾワリと粟立った。
「……ご挨拶は結構です。ゲルド子爵閣下。村の物流を止める『兵糧攻め』など、一体何の真似ですか。ザック男爵の汚職事件なら、すでにオルウェル内務卿の監査部に……」
「ええ、ええ! 知っていますとも! だからこそ、私が直接『特別調査』に赴いたのですよ」
ゲルドは銀のブラシを懐にしまい、ニチャリと笑った。
「ザックのような小物が、この美しい村の流通を不正に牛耳っていた。……実に嘆かわしい! そこで私は、帝国の広域行政官として、この村の『流通システムが正常化されるまで』、安全のために街道を全面封鎖する措置をとったのです。法に基づいた、正当な行政手続ですよ」
「ふざけないで! 塩も魔石も入ってこない状態で、野菜の出荷も止められたら、村の農家は数日で干上がるわ!!」
ダイヤが怒りのあまり前に出ようとするが、リバロンがその肩を掴んで無言で制止した。
ここで手を出せば、ザックの時と同じく「帝国への反逆」として村が法的に焼き払われる。
「おや、野蛮な剣士だ。……まあ、おっしゃる通り、このままでは村は干上がってしまうでしょう。ですが、安心してください」
ゲルドはニタリと下卑た笑みを深め、キャルルに向かって一歩近づいた。
「村長であるあなたが、私の屋敷に来て……私に『特別な協力』をしてくれるなら、この調査はすぐにでも終わらせることができます」
「特別な、協力……?」
「ええ。私の屋敷の寝室で……毎晩、私の手でたっぷりブラッシングを受けながら、その美しい声で鳴いてくれれば良いのです。そうすれば、私はあなたを私の『特別な愛玩動物』として優遇し、この村の自治と物流を永遠に保証して差し上げましょう」
つまり、自らの『夜伽(妾)』になれという、権力を笠に着た最悪の脅迫だった。
「ッ……! き、貴様ァッ!!」
ダイヤが今度こそ剣を抜こうとしたが、キャルルがスッと片手を上げてそれを制した。
「……キャルル!?」
キャルルの前髪が影を作り、その表情は窺えない。
だが、小さく握りしめられた拳は、怒りと屈辱でブルブルと震えていた。
「……私が、行かなければどうなりますか」
「ゲハハハ! 決まっています! 調査は無期限に延長! 村の農作物は腐り落ち、餓死者が出ようと塩一粒、魔石一つたりとも村には入れません! もちろん、村で最近評判の『定食屋』とやらも、食材が尽きて潰れるでしょうなァ!」
ゲルドのその言葉が、キャルルの胸に決定的な一撃を与えた。
村人たちの生活。そして何より、自分が愛してやまない、あの優也の『白雪』が潰されてしまう。
自分の身一つを犠牲にすれば、皆が助かる。
月兎族として生まれ、権力者から妾として狙われ続けてきた彼女にとって、それは幼い頃から幾度となく突きつけられてきた『呪い』のような選択だった。
「……今日の夜。私があなたのお屋敷に向かえば、必ず、村の封鎖は解いていただけるのですね?」
「キャルル様!? いけません!」
リバロンが思わず声を荒らげたが、キャルルは振り返らなかった。
「ええ、誓いましょう! 帝国の貴族の名において! ゲフフフ……あぁ、たまらない! 月兎族の女を私好みに躾けられる日が来るとは! 今夜は最高級のシーツを用意して、寝室でお待ちしていますよぉ!」
ゲルド子爵は歓喜の奇声を上げ、己の欲望を満たす喜びに浸りながら、馬車へと乗り込んでいった。
護衛の部隊と共に、砂埃を上げて去っていく馬車。
広場に取り残されたキャルルは、一人静かに空を見上げた。
「……ごめんなさい、ダイヤちゃん、リバロンさん。でも、これしか……優也さんのお店を守る方法は、ないから……」
誰にも見られないように、ポツリとこぼれ落ちた月兎の涙。
だが、彼女は忘れていた。
あの定食屋の親父が、『女の涙と犠牲の上に成り立つメシ』を、死んでも許さない男であることを。




