EP 2
成敗の合図と異世界初フルコース
「ペチッ、ペチッ、ペチッ……」
薄暗い森の中に、リリスの健康サンダルの音が間の抜けたリズムで響く。
異世界に降り立ってから数十分。木々の植生も空気の匂いも地球とは全く違うが、隣を歩く芋ジャージの女神のおかげで緊張感は皆無だった。
「優也さん優也さん! 私、さっきからお腹の虫が鳴り止まないんですけど、異世界にもファミレスってあるんですかね!?」
「……お前、さっきからそればっかりだな」
呆れながら返事をしようとしたその時。
背後の茂みが、バキバキと暴力的な音を立てて薙ぎ倒された。
「ブギィィィィッ!!」
現れたのは、身の丈2メートルを超える三頭の豚のバケモノ――オークだ。
血走った瞳と、口から垂れる粘つく涎。手には錆びた巨大な鉈を握っている。
「あわわわわっ! オ、オークさんです! どう見ても空腹で私たちを食べる気満々ですぅぅ!」
リリスが頭を抱えてしゃがみ込む。
だが、俺はオークの分厚い筋肉と、その動きの重心を冷静に観察していた。
(……なるほど。大胸筋と大腿四頭筋の発達は申し分ない。だが、首元から肩にかけての脂肪が薄い。あれなら刃は通りやすいな)
三ツ星の厨房で毎日何十キロもの肉の塊を捌いてきた俺にとって、あんなものは歩く『巨大な豚肉』に過ぎない。
俺はポケットから金のオイルライターを取り出し、カチンと蓋を開けてLarkに火を点けた。
紫煙を細く吐き出しながら、もう片方の手でポケットからコーヒーキャンディを取り出し、口に放り込む。
「優也さん!? なんでこんな時にタバコと飴を……!?」
オークたちが、獲物を前にして獰猛な笑みを浮かべ、巨大な鉈を振り上げた。
その瞬間。
――ガリッ。
奥歯で、コーヒーキャンディを力強く噛み砕いた。
口内に広がるビターな甘みとカフェイン。それが、俺の『本気のスイッチ』だ。
「……解体してやるよ」
タバコを咥えたまま、俺は低く腰を落とした。
右手に握るのは、祖父から受け継いだ名刀『白雪』。
【天極流】の歩法で、一切の予備動作なく音もなく前へ出る。
「ブギッ!?」
オークが反応するよりも速く、俺は一頭目の懐に潜り込んでいた。
【小野派一刀流】の極意。力任せに斬るのではない。肉の繊維、骨の継ぎ目、最も抵抗の少ない『筋』を正確に見極め、白雪の刃を滑らせる。
同時に、【TCCC(戦術的戦闘救護)】の人体構造の知識を応用し、苦痛を与えずに一瞬で頸動脈と神経を断ち切る究極の血抜き(シメ)を行う。
鮮血が吹き出す前に、すでに俺は二頭目、三頭目の背後に回っていた。
「納刀」
カチャリ、と白雪を鞘に収めた瞬間。
三頭のオークは音もなく崩れ落ち、綺麗に部位ごとに切り分けられた**『極上のブロック肉』**へと姿を変えていた。
「えええええええっ!?」
リリスが腰を抜かしたまま、目玉が飛び出そうなほど驚いている。
「さて、と……肉質は悪くないが、少し筋張ってて獣臭いな。しっかり下処理をしてやるか」
俺は『エンジェルすまーとふぉん』を取り出し、画面をタップした。
狙うのは、ルチアナの口座に直結した地球のネット通販アプリだ。
(まずは熱源。カセットコンロとガスボンベ。それから厚手の鉄フライパン、高級オリーブオイル、赤ワイン、特選醤油、バター、玉ねぎ、ニンニク……こんなもんか)
日商簿記1級の脳が、一瞬で最善のコストパフォーマンスと必要な調味料を弾き出す。
迷わず『カートに入れる』を連打し、『購入を確定する(一括払い)』をタップした。
ポンッ!という軽快な電子音と共に、俺の目の前の空間が光り、段ボール箱に入った地球の調理器具と最高級食材の山が出現した。
「す、すごい……! ルチアナ先輩のブラックカード、本当に限度額無いんですね……!」
「ああ。神の奢りだ、遠慮はいらねえ」
俺は手早くカセットコンロを組み立て、玉ねぎを極限まで細かいみじん切りにしていく。
オークの肉に格子状の切れ目を入れ、そこにみじん切りの玉ねぎをたっぷりと漬け込む。玉ねぎの酵素が、硬いオークの肉を劇的に柔らかくするのだ。
数十分後。フライパンにニンニクと牛脂を熱し、玉ねぎを取り除いたオーク肉を強火で一気に焼き上げる。
森の中に、ジュワァァァッ!という暴力的なまでの肉の焼ける音と、食欲を直接殴りつけるような脂の香ばしい匂いが立ち込めた。
「ひゃあああ……! い、いい匂い……!」
リリスが涎を垂らしながら、ペチペチとフライパンに近づいてくる。
肉をレアで焼き上げて取り出し、肉汁の残ったフライパンに、先ほど漬け込んでいた玉ねぎを投入。赤ワインと特選醤油、そしてたっぷりのバターを加えて煮詰める。
とろみと照りが出た和風の『シャリアピン・ソース』の完成だ。
通販で買った真っ白なディナープレートに、分厚くスライスしたオーク肉を並べ、熱々のオニオンソースをたっぷりとかける。仕上げにパセリを散らせば――
「『オーク肉の極上シャリアピンステーキ』だ。食ってみろ」
「い、いただきますぅぅぅ!」
フォークを受け取ったリリスは、礼儀も忘れて肉の塊に噛み付いた。
「――っ!!?!?!」
その瞬間、リリスの動きが完全に止まった。
瞳孔が開き、ぷるぷると震え出したかと思うと、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「お、美味しぃぃぃぃぃぃっ!! お肉が口の中で溶けちゃいますぅ! 玉ねぎの甘みと、お醤油とバターの濃厚なコクが……んんんっ! ほっぺたが落ちちゃいますぅぅ!!」
咀嚼するたびに、リリスは歓喜の声を上げ、あっという間に300グラムの巨大なステーキを平らげてしまった。
「うっ、ぐすっ……ルチアナ先輩のパシリで、毎日乾パンかじってた頃より……ずっとずっと幸せですぅ……!」
「そうか。そりゃ良かった」
俺も自分の分のステーキを切り分け、口に運ぶ。
……悪くない。玉ねぎの酵素がオーク特有の臭みを完全に消し去り、赤ワインと醤油の風味が野性味あふれる肉の旨味を極限まで引き出している。
「優也さん! 私、一生ついていきます! だからおかわり! おかわり三杯目お願いしますぅ!」
「お前はまず、そのジャージについたソースを拭け」
ドタバタと騒ぐリリスを見下ろしながら、俺は食後のLarkに火を点けた。
無限の資金力と、最高の食材。
どうやらこの異世界、俺の厨房としては悪くない場所になりそうだ。




