聖者リュート_32
翌朝、私は朝一番の乗合馬車で王都の教会へ向かった。
早い時間だというのに馬車には幾人もの先客がおり、私は鞄を抱えて扉の近くの空いている席に腰かけた。
馬車が揺れ、見知らぬ人と肩が触れる。
昨日は隣にリュートがいたのに、今日はいない。
そのことに少しばかりの寂しさを感じながら、抱えた荷物のふくらみに「ちゃんと食え」という彼の言葉を思い出す。
膝の上の鞄の中には、伯爵邸で渡された昼食の包みが入っている。
彼は彼で、あの場所を何とかするために、この国のことを学ぼうとしている。
私は、私にできることをしよう。
そう思いながら、馬車の窓から外を眺めた。
教会の近くで馬車を降り、門をくぐる。
礼拝堂に近づくと、中から人の声が聞こえてきた。
どうやら朝の礼拝が始まっているらしい。
私は正面の扉を静かに開け、音をたてないように隙間からそっと中へ入った。
礼拝堂の中には、その広さをもてあますほどの、わずかな参列者しかいなかった。
一番前の長椅子に、ぽつりと一人。
少し離れたところに、何人かが腰をおろしている長椅子が少し。
そして、その後ろには席の冷たいままの長椅子が幾列も続いていた。
リュートがトーアの教会で話をしていたときの方が、ここより集まっている人の数はずっと多かったように思う。
王都の礼拝堂は、その広さゆえに、かえって人の少なさが際立つことになっている。
私は後ろの方の長椅子にそっと腰を下ろした。
祭壇の前に立っているのは、昨日、私たちを救護院へ案内してくれた若い聖職者だった。
礼拝を取り仕切っているところを見ると、おそらく司祭なのだろう。
彼が儀礼に則り、祭壇に祈りを捧げている。
そして、その祭壇の奥にある司教座には、アルノート司教が座っていた。
「それでは、司教様よりお話をいただきます」
若い司祭の声にアルノート司教が立ち上がり、祭壇の前に進む。
昨日は袖を捲り上げ、老人の着替えをさせていた人が、今日はきちんと法衣を整えて司教として祭壇の場に立っている。
彼は経典を開くと、その一節を読み上げた。
静かな声だった。
大きく声を張っているわけではないのに、この広い礼拝堂の奥にまでその声が響いていた。
経典の一節を読み終えると、アルノート司教は顔を上げた。
「神は、最後まで人間を見捨てることはありませんでした」
今読んだ経典の言葉を、もう一度、わかりやすい言葉で語り始める。
「人間の行く末を案じ、そのために力を尽くしてくださいました。私たちは、そのことを忘れずにいたいものです」
参列者たちは、アルノート司教の話に、静かに耳を傾けていた。
私も膝の上で手を重ねる。
「今日、ここに集った皆さんに、神の加護がありますように」
アルノート司教が祈り、参列者たちが頭を下げた。
私も目を閉じる。
昨日の救護院と孤児院が、頭に浮かんだ。
あそこにいる人たちに、今、このアルノート司教の祈りはとどいているだろうか。
礼拝が終わると、参列者たちはゆっくりと立ち上がった。
そのまま礼拝堂を出ていく人もいれば、祭壇の方へ向かい、聖職者に声をかける人もいる。
私は人が通り過ぎるのを待って、声をかけた。
「アルノート司教」
経典を閉じていた司教が、こちらを振り返る。
「あれ。トゥエさん?」
驚いたように私を見ると、あたりを見回すように私の後ろへ目を向けた。
「今日は一人?」
「はい」
「まだ何か、調べたいことがあった?」
私は首を横に振った。
「今日は、お手伝いをさせていただきたくて参りました」
「お手伝い?」
「救護院でも、孤児院でも、私にできることをさせていただけませんか」
アルノート司教は、すぐには返事をしなかった。
「それは、ありがたいけど……トーアの教会は大丈夫なの?」
「トーア、ですか?」
「君がこっちに来たら、向こうが困らない?」
私は思わず司教の顔を見た。
「昨日、帳簿も見てくれたし、普段から教会の仕事を色々やってるんでしょ。トーアも、そんなに余裕があるわけじゃないと思ってたけど」
この方は、王都の教会がこんな状況でも、向こうの教会のことを気にしてくださるのだ。
「私が王都に来ている間のことは、向こうでもわかっています。それに、ヘラルド様からもお許しをいただきましたので」
「トーア伯に?」
「はい。私はトーアの教会からこちらに来ている立場です。ですから、困っている王都の教会へ、トーアの教会から人手を貸す、ということで問題はないかと」
アルノート司教は最後まで私の話を聞くと、ゆっくりと頷いた。
「そう。じゃあ、お願いしようかな。本当に、人手が足りないから」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
そこで、彼は少しだけ笑った。
「いいな、トーアの教会」
「え?」
「領主がちゃんと話を聞いてくれるんだね。ちょっと羨ましいよ」
アルノート司教の言葉に、何と答えればいいのかわからなかった。
トーアの教会のことであれば、当然トーアの領主であるヘラルド様が話を聞いてくださることは当たり前ではないだろうか。
では、王都の教会の話は? どなたが話を聞いてくださるのだろう?
「それじゃあ、まず救護院に来てもらっていい? 朝の食事を配ってるところだから」
「はい」
アルノート司教の声に頭を切り替えて、私は彼の後に続いた。
救護院の中に入ると、昨日と同じ、あの臭いがした。
「この人、トーアの教会から来たトゥエさん。今日から手伝ってくれるから、よろしくね」
アルノート司教が声をかけると、鍋のそばにいた聖職者が顔を上げた。
「トゥエと申します。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。では、早速ですがこちらを運んでいただけますか?」
荷物を置かせてもらい、まずは手を洗う。
手渡された盆には、汁物を入れた器が並んでいた。
器からはあたたかな湯気が上がっているけれど、中に見える具は少なかった。
「どうぞ、お食事です」
寝台に座っていた老人へ声をかける。
老人は黙って手を伸ばし、両手で器を受け取ると、そのまま器に口をつける。
次の人も、その次の人も、ほとんど誰も口をきかなかった。
私は盆に乗った器をすべて渡し終えると、鍋のところへ急いで戻った。
本当にこれで、足りるのだろうか。
そう思っても、私が勝手に食事の量を増やすわけにもいかない。
また、どうしようもないもやもやとした気持ちがこみあげてくる。
「こちらの方のお食事を、手伝っていただけますか?」
呼ばれて向かった先には、小柄な老婆がいた。
寝台の上で身体を起こし、掛けられた布を細い指で握っている。
「お食事をお手伝いしますね」
声をかけると、その老婆はゆっくり私を見た。
だが、その目はどこかうつろで、私を見ているようでもあり、どこか遠くを見ているようでもある。
そばの椅子に座り、匙で少しすくって口元へ運ぶ。
老婆の口が開いたところで、震える唇に匙をあて、そっと流し込む。
飲み込むのを待って、もうひと匙すくったところで突然、老婆がむせ込んだ。
咳が続き、老婆の身体が小さく揺れる。
私は慌てて匙を引き、身体を支え、背中をゆっくりと撫でながら、咳が落ち着くのを待った。
「……ゆっくりたべましょう」
老婆は何も言わなかったが、目の端に涙が浮かんでいる。
今度は、先ほどより少ない量をすくって口に入れ、老婆が飲み込むまでじっと待つ。
ひと匙。また、ひと匙。
私は老婆の顔を見ながら、最後のひと匙を運ぶ。
食べ終える頃には、汁物はすっかり冷めてしまっていた。
器を戻しに行くと、今度は着替えを頼まれた。
汚れた服を脱がせ、絞った布で身体を拭き、洗った服を着せる。
「少し、こちらを向いていただけますか」
声をかけてから、肩と腰を支え、身体の向きを入れ替えて袖をとおす。
着替えの服にもあちこちに継ぎが当たっていたけれど、洗われて清潔な服は、今、脱がせた服よりもずっと気持ちがいいはずだ。
次の人のところへ行く途中で呼ばれて、井戸から桶に水を汲んで運ぶ。
戻ってきたところで、また別の人に声をかけられ、着替えの山を洗濯場まで運ぶ。
立ち止まっている暇はなかった。
しばらくすると、どこからか薬草の匂いが強く漂ってきた。
匂いのする方を見ると、聖職者の一人が、煎じた薬を器へ分けている。
「薬をお配りするんですか?」
「はい。病人に飲ませるものです」
「私もお手伝いできます。トーアでも、薬草を扱っていましたので」
「薬草の知識がおありなんですか?」
「はい。どなたに何を飲んでいただくのか、教えていただければ」
説明を聞き、器と病人を確かめ、渡された薬を持って寝台のそばへと運ぶ。
「お薬です。起きられますか?」
起き上がろうとする身体を支え、器をそっと口元へ運ぶ。
ひと口飲んだところで、病人が顔をしかめた。
「苦いですよね。でも、あと少しです。飲んでしまいましょう」
もう一度勧めると、今度はゆっくりと最後まで飲み干してくれた。
空になった器を戻し、次の人の薬を受け取る。
何度も腰をかがめているうちに、背中が重くなってきた。
腕も、少し力が入りにくい。
けれど、目の前には、まだまだ手を必要としている人が大勢いた。
「トゥエさん」
不意に声をかけられ、振り返ると、そこにはアルノート司教が立っていた。
「少し休んで、お昼にして」
「お昼、ですか?」
思わず窓を見る。
朝には窓から深く差していた光が、いつの間にか壁際に動いていた。
「もう、そんな時間だったんですね」
「うん。飯、持ってきてる?」
「はい。じゃあ、この器を戻してから――」
「いいよ、それは俺が持っていくから」
アルノート司教が私の手から器を取り上げる。
「休むところ、案内してなかったね。こっちにきて」
私は荷物を取り、司教の後についていく。
案内されたのは、聖職者たちが暮らす生活棟の居間だった。
真ん中に大きな木の卓があり、それを取り囲むように椅子が置かれている。
「ここ、使って。食べたあとも、少し休んで」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、またあとで」
アルノート司教は、私を案内すると、空の器を手にすぐさま救護院へ戻っていった。
椅子へ腰を下ろした途端に、身体が重く感じた。
座ってみて初めて、自分の足がひどく疲れていることに気づく。
鞄を卓の上に上げ、中から昼食の包みを取り出し、布を開く。
そこから出てきたのは、焼いた肉とチーズを挟んだパン。
それを見た途端、なぜか動けなくなった。
朝、伯爵邸で受け取った時には、ちゃんとお礼を言って鞄に入れたのに。
けれど、今は。
先ほど配った食事が目に浮かぶ。
具の少ない汁物。
それを無言で受け取る老人たち。
パンを手にしたけれど、どうしても口へ運ぶ気になれなかった。
お腹が空いていないのか、疲れすぎているのか、なんだか自分でもよくわからない。
これを孤児院に持っていけば、少しずつでも分けられるかもしれない。
私が食べなくても、その分、誰かが……。
『トゥエはさ、子供たちが食えてないのに、自分だけちゃんとした飯を食ってもいいのか?……とかさ、そういうコト思っちゃうだろ』
リュートの声が聞こえた気がした。
彼の言ったとおりだ。
今、私はこのパンを自分で食べずに、誰かに渡してしまえば気が楽になると思っている。
でも。
『自分を犠牲にした方が楽で、簡単だって、思わないでほしいんだよ』
私は背筋を伸ばして、椅子に座り直した。
食事もして、きちんと眠って、それからまた教会に行く。
そう、リュートと約束した。
今日一日だけ、手伝えばいいと思って来たわけではない。
午後も働く。
明日も、ここへ来る。
そのために、今、私は食べないといけない。
パンを口へ運び、ひと口かじった。
噛んでも噛んでも、なかなか飲み込むことができない。
救護院の方から、かすかに誰かを呼ぶ声が聞こえる。
私は思わず椅子から立ち上がりかけて、そしてやめた。
今は、食事をする時間だ。
落ち着いてパンを、もうひと口かじる。
おいしそうなパンなのに、食べたいとは思えなかった。
それでも、リュートとの約束を思い返しながら、私は残りのパンを喉に詰め込んでいった。
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次の更新は2026年10月23日(金)の予定です。
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