聖者リュート_33
トゥエが教会へ出かけたあと、伯爵邸の離れは随分と静かになった。
長椅子に脚を投げ出して座り、天井を眺める。
昨日、二人で何度も確かめた数字が、まだ頭に残っている。
王都の教会の問題は、単純だ。
食わせる人数に対して、入ってくる金が少なすぎる。
要は、それだけの話だ。
だが、その足りない金をどうするのかとなると、良い手段が何も思いつかない。
この世界で金を引いてくるにはどうすれば良いのか、オレには知識と情報がなさすぎる。
ぼんやりと天井の模様を眺めていたら、扉を叩く音が聞こえた。
「リュート様。よろしいでしょうか」
「どうぞ」
声の主は、エドガーだった。
「失礼いたします。リュート様」
「えっと、何かありました?」
「はい、本日より、私がリュート様の家庭教師を務めさせていただくことになりましたので、まずはご挨拶を」
「……エドガーさんが?」
「はい。旦那様と奥様より、申しつかりました」
よりによって、こいつかよ……。
口から出かかった言葉を飲み込んだ。
正直、他にいなかったのかよ、と思う。
でも、目の前に立っているエドガーの姿を見れば、コイツが選ばれた理由は嫌でもわかる。
ただ、立っているだけなのに、姿勢が崩れない。
手の置き方も、こっちへ向ける顔の角度も、自然体に見えるのに完全に計算されていて、どこにも隙がない。
髪が白くなっていて、目には年相応の皺があっても、顔は嫌味なくらい整っている。いわゆるイケ爺ってヤツだ。
若い頃はさぞかし……いや、それは一旦、忘れろ、オレ。
「わかりました。……よろしくお願いします」
行儀悪く座っていたソファから立ち上がって、ヤツに頭を下げる。
自分から学びたいと頼んだのだ。
いくらエドガーが気に入らないからって、教えを請う相手に失礼な態度を取るのは筋が違う。
「こちらこそ。それではリュート様の準備が整いましたら、本宅の客間にお越しくださいませ」
「客間って、昨日伯爵サマとお会いした部屋だっけ」
「さようでございます。お待ちいたしております」
話を終えると、エドガーは一礼して、今来た本宅の方に音もなく引き返していった。
エドガーを見送ったあと、オレは服の襟を直し、髪を整え、トノヴァ商会が準備してくれた上着を羽織った。
最後に鏡に向かって、笑い顔を作る。
元の世界にいたときは、こうやって鏡に向かって、毎日笑い方の研究をしていたな、と、少し懐かしくなった。
本宅の客間に向かう途中から、自然と背筋が伸びる。
久しぶりに店に出勤する気分だ。
オレは、エドガーに対してどこか対抗心のようなものを抱いていると自覚している。
店で、オレより売り上げが上のヤツに感じていたアレだ。
今日は、あのイケ爺を、オレの魅力で落としてやるつもりでいこう、と決めたら、自然と笑いが出た。
客間に行くと、すでにエドガーが待っていた。
改めて、よろしくお願いします、と腰を折った。
「まずは、基本のご挨拶から拝見いたしましょう」
「挨拶?」
「はい。貴族の方へ初めてお目にかかる際の礼を、なさってみてくださいませ」
それなら自信がある。
トーアで、王都の令嬢にしっかり教えてもらったし、実際に伯爵の前でもやって、褒められてもいる。
オレはエドガーから少し距離を取り、姿勢を整えた。
相手へ目を向け、教わったとおりに手を添える。
上体を傾け、一拍置いてから戻す。
「初めてお目にかかります。リュートと申します」
ゆっくりと、顔を上げる。
表情は相手に媚びすぎず、かといって自信を出し過ぎず、お偉いサンが相手の時には、少し知的にみえる表情が効果的だ。
エドガーは黙ってこちらを見ていた。
「いかがですか」
これは、悪くないだろ。
「表情は大変よろしいでしょう。そして形も、よく覚えていらっしゃいます」
「トーアで貴族の方に教えていただいたので」
「貴族のご令嬢からでございますか?」
「はい」
エドガーの目が、オレの足元から顔まで動く。
「では、同じ礼を、もう一度お願いいたします」
言われたとおり、もう一度やる。
「そこで、お止まりください」
身体を傾けたところで、声がかかった。
エドガーが後ろに回り込み、オレの肩を軽く押す。
バランスが崩れ、あわてて一歩前に踏み出した。
「体幹が使えておりません。形を覚え、見えるところを合わせていらっしゃるだけです」
「……ダメっすか?」
「今のままでは」
「でも、普通に見たら、できてるように見えません?」
エドガーは頷いた。
「一見すれば」
「挨拶なんて、見た目がちゃんとできていればいいんじゃないですか?」
少し間が空いた。
「リュート様は、どなたに話を聞いていただくために、学ばれたいのでしたか」
エドガーの言葉が耳に刺さった。
「高位の貴族の方々は、幼い頃より、正しく身についた所作を日々ご覧になっております。また、ご自身も、それを長年繰り返しておいでです」
「……はい」
「礼の形だけではなく、そこへ至る動き、止まった時の安定、戻る際の姿勢まで、ごく自然に目に入ります」
エドガーが一歩下がる。
「失礼いたします」
静かに身体を傾け、止まり、また戻った。
たったそれだけのことだ。
だが、オレがやったものとは明らかに何かが違う。
さっきまでオレの中にあった、それなりに根拠があったはずの自信が崩れていく。
「若い令嬢方であれば、リュート様の表情や、見目形に目を留めてくださるでしょう。ですが、リュート様がお話をなさりたい方々には、それで十分だとは申し上げられません」
「要はうわべだけ真似しても、ごまかせないってことですか」
「そのようにお考えいただければ結構です」
そうか、貴族とつきあうってコトは、アレを毎日見ている連中を相手にするっていうコトになるのか……。
「……マジか」
思わず声が出た。
エドガーが隣へ立つ。
「まず、お立ちになる姿勢から整えましょう。肩だけを後ろへ引こうとなさらず、こちらを」
腹と腰のあたりを示される。
言われたところを気にすると、今度は余計なところに力が入り、身体が固くなった。
「力を入れすぎていらっしゃいます。息をお止めにならず」
「……思ったより難しいですね、これ」
「最初は、普段お使いにならないところが気になるものです」
足の位置を直す。
息を吐いて肩の力を抜く。
もう一度、礼をする。
「お顔だけで相手を追わないように」
「はい」
「最後に肩が動きました」
「……はい」
腹の立つほど、落ち着いた指摘だった。
同じ動きを何度も、何度も繰り返す。
令嬢たちに教わった時は、もっと簡単にできた気がする。
少なくとも、普段使わない筋肉がこんなに疲れるとは思わなかった。
他人に上手く見せることなら、得意なつもりだった。
相手にどんな顔をすれば喜ぶか、どんな言葉を掛ければ喜ぶか、オレにはわかる。
それで通ってきたことは、幾らでもある。
だが、エドガーには、オレがいくら笑っても通じそうにない。巧言はなおのことだ。
挨拶の次は、歩き方だった。
部屋の端から歩いて、相手の前で止まる。
向きを変える。
椅子へ進み、勧められてから座る。
たったそれだけのことにも、何度も直されるところがある。
「座られた途端に、背中が緩んでおります」
「…………はい」
背筋を伸ばして姿勢を正すと、エドガーが頷く。
ヤツはオレのことを急かしもしないし、呆れた顔もしない。
オレが正しい姿勢に直すまで、ただ待っているだけだ。
エドガーのその余裕綽々な姿に、正直、ムカついた。
だが、オレが本当に腹を立てているのは、さっきから何度も同じことを指摘されているオレ自身だ。
何度目かに椅子へ座ったところで、エドガーが窓を見た。
「そろそろ、昼食のお時間でございますね」
「もう?」
エドガーにつられて、窓の外をみた。
伯爵邸の庭にある木の影が、すっかり短くなっていた。
そういえばトゥエは、今頃何をしているだろう。
ちゃんと、飯を食ってるだろうか。
「トゥエ様には、昼食をお持ちいただいております」
顔を戻すとエドガーがこちらを見ていた。
「……オレ、そんなにわかりやすい顔してました?」
「教会の方を、お気になさっているのかと」
「持っていった昼飯を、そのまま誰かに渡してなきゃいいんですけど」
エドガーがほんの少し笑ったような気がした。オレの気のせいかもしれないが。
「昼食は、食事の作法を学んでいただく場といたしましょう」
「……食ってる間も?」
「はい。実際にお食事を召し上がっていただきながらの方が、おわかりになりやすいかと」
昼の食事は休憩じゃなかった。
だが、休みたいより、やってやろうという気持ちの方が強い。
食事の準備が出来ているかを確かめに、エドガーが部屋を出た。
オレは座ったまま、腰のあたりへ手を当てる。
礼をして、歩いて、座る。
たったそれだけのことなのに、身体が重い。
教会で見たチビたちの顔が浮かんだ。
薄い粥の鍋を気にしていた、小さな身体。
あの子たちが今日も粗末な食事を待っている間に、オレは貴族相手の挨拶を練習している。
トゥエは、何もしないで待っているのは嫌だと言った。
オレも、トゥエと同じだ。
アイツに偉そうなコトを言ったが、オレも自分が何もできないままでいるのが、たまらなく嫌なのだ。
王都の教会を何とかする方法は、まだ思いつかない。
今日覚えたことが、どう役に立つのかも、今ははっきりとはわからない。
ただ、今、自分がここでできることは学ぶことだ。
その直感を信じることにした。
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次の更新は2026年10月26日(月)の予定です。
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