聖者リュート_31
ヘラルド様のお屋敷へ戻っても、教会で見た光景が頭から離れなかった。
床に敷いた布の上で横になっていた老人。
薄い粥の鍋を気にしていた子供たち。
そして、何もできなくても安心していいと言った、アルノート司教の穏やかな笑顔。
私たちは離れに荷物を置くと、教会から戻ったことをヘラルド様に言付けてもらった。
ほどなくしてヘラルド様からお呼びがあり、案内された部屋にはヘラルド様だけでなく、エレオノーラ様も一緒におみえだった。
「どうであった」
すすめられた応接の長椅子に座ると、ヘラルド様が私たちに訊ねた。
リュートはその問いにすぐには答えず、私の方を見る。
「……思っていたより、ずっとひどい状態でした」
私は膝の上で手を重ねた。
「教会の救護院には五十人以上の老人や病人、そして孤児院には六十人くらいの子供たちがいます。それを、アルノート司教を含めた八人の聖職者と、何人かのお手伝いの方でお世話していました」
「……それほどの人数か」
ヘラルド様が眉を寄せる。
「食事も、十分とは言えません。薪も毛布も足りていなくて、孤児院は早急に建物の修繕も必要です」
話していると、また胸の奥が熱くなった。
リュートが、私の言葉を引き継ぐ。
「帳簿も見せてもらいました。ヴァレリアン伯からのお金は、ちゃんと教会に使われています。アルノート司教が自分のために着服しているようなものは、何も見当たりませんでした」
「それは、確かか」
「はい。寄進と支払いを確かめました。追加でいただいたお金も、食料や薪などの日々必要なものの支払いに消えています」
「それで、アルノート司教本人は、何をしていた」
「オレたちが着いた時は、爺さんの着替えをさせてました」
リュートの答えに、エレオノーラ様が顔を上げる。
「司教ご自身が?」
「はい。その後も、あっちからもこっちからも呼ばれて、なかなか話ができなくて」
私は頷いた。
「お部屋も、とても質素にされておられました。机には書類が積まれていて……教会のことを、休みなくずっとなさっていらっしゃるのだと思います」
アルノート司教は、私たちに何かを約束させようとはしなかった。
お金を出すと言った私を、むしろ止めてくれた。
「実家へ援助を頼んでいるのは、アルノート司教ご本人が楽をするためではありません。あの方は、教会を維持するために、本当に……」
言葉に詰まる。
リュートが小さく頷いた。
「あの人が一日中働いても、どうにもならないんだと思います。王都の教会は」
ヘラルド様はリュートと私の顔を見て頷いた。
「……教会の様子はわかった。アルター殿には、私からも話しておこう」
「ありがとうございます」
それだけでも、少し心が軽くなった。
けれど、ヴァレリアン伯のアルノート司教への誤解が解けても、教会のお金が増えるわけではない。
「あの、ヘラルド様」
私は顔を上げた。
「王都の教会へ、寄付をお願いすることはできないでしょうか」
その言葉にヘラルド様は、じっと私を見た。
「トゥエよ。私が一度金を出せば、それで事足りる話なのか」
「いえ……ずっとは、もたないと思います」
「では、私の出した金がなくなったらどうするのだ」
教会で、リュートにも同じことを訊かれた。
「もう一度、お願いすることに……」
「それでは、ヴァレリアン家に私の家が加わるだけで、何の解決にもならん」
厳しい声ではなかった。
けれど、返す言葉が見つからない。
「今回、お前たちに見てきてもらったのは、まず王都の教会で何が起きているかを知るためだ。金を渡して当座をしのげばそれで済むという話ではなかったのだろう」
リュートは、黙って頷いている。
重ねてヘラルド様に寄付を頼もうとはしてくれない。
「ここで領主サマにお金出してもらって、今は助かりました、で終わっても、時間が経てばまた同じことの繰り返しになる」
そんなことはわかっている。でも、わかっただけでは、あの子たちは食べられない。
「では、せめて、お手伝いに行かせてください」
リュートがこちらを見た。
「教会へ?」
「はい。お金のことはすぐに変えられないかもしれませんが、あの教会には人手も必要です。お食事の支度でも、洗濯でも、あの教会で私にもできることはあります」
「トゥエ……」
「八人しかいないんですよ。私が行けば、その間だけでも、どなたかが他のことをできます」
私は膝の上で握っていた手を開く。
「自分の手で、すべてをどうにかできるとは思っていません。でも、あの人たちを見て、何もしないで、ただ待っているのは嫌なんです」
部屋がしん、と静かになった。
リュートはしばらくの間、私の目を見て、それから卓の上に目を落とした。
私の意思が変わらないことを悟ったのか、リュートはしばらくして、ゆっくり息を吐いた。
「……手伝いに行くのは、いいと思う」
「本当ですか?」
「ただ、約束してほしいことがある」
私は頷いた。
「まず、いくら教会に金が足りないからって、トゥエ自身の金を出さないこと」
「……はい」
「それと、飯と睡眠は削らないこと。忙しいから食わなくていいとか、まだ仕事があるから寝なくていいとか、そういうのはナシ」
私は返事をしかけて、口を閉じた。
きっと、リュートには私がそうすると思われている。
そして、私自身も、絶対にそうしないとは言い切れなかった。
「トゥエはさ、子供たちが食えてないのに、自分だけちゃんとした飯を食ってもいいのか?とか、向こうの人がまだ働いてるのに、自分だけ先に帰ってもいいのか?とかさ、そういうコト思っちゃうだろ」
「それは……」
「でも、ちゃんと飯を食って、きちんと帰って休む。次の日も行くなら、なおさら」
リュートは、私の返事を待っていた。
「……わかりました。食事も睡眠も、削りません。お金も、その場の気持ちだけで出したりしません」
「うん」
ようやく、リュートの表情が少し緩んだ。
ヘラルド様が、私へ向き直る。
「トゥエは、シスターエメリアの名代として来ている。困っている王都の教会へ、トーアの教会から手を貸すということであれば、話の筋も通る」
「では……」
「アルノート司教が受け入れるのであれば、構わん。ただし、リュートとの約束は守りなさい」
「はい。ありがとうございます」
何かが解決したわけではない。それでも、明日から自分のできることがある。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ動いた気がした。
「リュート。お前はどうする」
ヘラルド様に訊かれ、リュートは姿勢を正した。
「オレは、もう少し別のことを考えたいです」
「別のこと?」
「オレも教会に行けば、手伝えることはあると思います。でも、それじゃ、オレにできることはたかが知れてるんで」
ヘラルド様はリュートの自虐ともとれる言葉に、じっと耳を傾けていた。
「人が集まっても金が来ない。貴族は寄付が義務だって言うけど、その基準もあいまいで、金をもってる奴のお気持ちまかせになってる。そこを何とかしないと、王都の教会はずっと金が足りないままです」
「何か、考えはあるのか」
「まだ、ありません」
リュートは首を振った。
「この国で、そういう時に誰に話せばいいのかも、何を頼めるのかも、オレにはわからない。貴族の家同士の付き合いとか、教会との関係とかも」
ヘラルド様は、リュートの次の言葉を待っている。
「トーアでやったみたいに、人を集めれば金もあつまるっていう話じゃない。だから、オレはもう少し知る必要があると思ってます。この国のことや、貴族社会のこと、もっといえばオレが呼ばれたこの世界のことを」
「それを知って、どうするのだ」
「この世界の貴族社会で、オレの話を聞いてもらえるようになりたいんです。オレが何か思いついても、金をもってる奴に相手にされなかったら、そこで終わりなんで」
エレオノーラ様が、静かにリュートを見た。
「そのために、学びたいということかしら」
「はい。この国の貴族の人たちに、ちゃんと相手にしてもらえるように、オレに、学ぶ機会を与えてもらえませんか」
ヘラルド様と奥様が顔を見合わせる。
「よかろう。家庭教師を手配しよう」
ヘラルド様が答えた。
「だが、この国の事情も、貴族の付き合い方も、一日で身につくものではないぞ」
「はい」
「言葉遣いや作法も必要になるわ。相手に話を聞いてもらうためには、まずそれが出来なくては」
エレオノーラ様の言葉に、リュートは頷いた。
「先生のことは、私も考えておきましょう」
「お願いします」
私の隣で立ち上がり、領主夫妻に深々と頭を下げるリュート。
教会から戻る時、馬車の中で、彼は何も話さなかった。
きっと私と同じように、何もできなかった自分のことを悔いているのだと勝手に思い込んでいた。
けれど、リュートは、何かをするためには、今の自分に何が足りないのかをずっと考えていたのだ。
同じものを見てきたはずなのに、リュートと私のやろうとしていることは全く違っている。
でも、あの場所を何とかしたいと思う気持ちは、同じなのだと思った。
領主夫妻との話を終えて、離れへ戻ると、私は早速明日教会に行く準備をはじめた。
洗濯や食事の支度をするなら、動きやすい服の方がいいだろう。
「なぁ、明日から行くのか?」
リュートが訊ねた。
「はい。司教様にお願いして、できることをさせていただこうと思います」
「そっか」
長椅子に座ったリュートは、少し考えてから私を隣に呼んだ。
「なぁ、トゥエ」
「何でしょう?」
呼ぶ声に答えて、椅子の隣に座ると、彼はいつになく真面目な顔をしてこちらを見た。
「さっきの約束、忘れないでくれよ」
「はい、忘れません」
「たぶん、むこうで休んでいいって言われてもさ、気になると思うんだ。あの人たち、ずっと忙しいし」
「それは……正直に言えば、気になると思います」
「うん。でも、もしそれでトゥエが頑張りすぎて倒れたら、今度は向こうの人がトゥエを助けるために手をとられることになる」
それは、たしかにリュートの言うとおりだ。
「誰かを助けるのってさ、本当は自分が元気で、少し余裕があって、それでやっとできることなんだとオレは思ってる」
リュートは私を見たまま、ゆっくりと言った。
「自分を削ってまで何かをしようとしたらさ、それは、ずっとは続けられないじゃん」
「はい」
「自分を犠牲にした方が楽で、簡単だって、思わないでほしいんだよ」
私はしばらくの間、返事ができなかった。
教会で、自分のお金を出そうとした時。
私が少しくらい困っても、それで子供たちが食べられるなら良いと思った。
今も、その気持ちがなくなったわけではない。
けれど、目の前にいるリュートは、それで私自身が立ち行かなくなることを心から心配してくれているのだ。
「……ちゃんと帰ってきます」
「うん」
「食事もして、きちんと眠って、それからまた教会に行きます」
明日、私が一人増えたところで、教会の事情が大きく変わるわけではない。
それでも、誰かが桶を運んでいる間に、私がだれか別の人の身体を拭くことはできる。
まずは、小さなことかもしれないけれど、私にできることをしよう。
そして、教会でも、リュートとの約束を忘れずにいよう。
私のささやかな決意にリュートは小さく頷くと、髪を優しくなでてくれた。
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次の更新は2026年10月21日(水)の予定です。
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