聖者リュート_30
アルノート司教の部屋は、司教の私室というには驚くほどに質素なものだった。
壁際には小さな寝台と棚。
窓の下に置かれた執務机には、書類が山積みになっている。
その前にある木製の卓の上にも、何枚もの書類が広げられていた。
「ごめん。ちょっと待って」
アルノート司教は卓の書類を無造作にまとめると、執務机の書類の山の上に重ねて置いた。
その勢いで書類の山が傾いてきたので、崩れないように慌てて手で押さえている。
「その辺、適当に座って。お茶も出せないけど」
勧められた椅子も、卓と同じように木製の、何の飾り気のないものだった。
私とリュートが座ると、書類をなんとか押しやったアルノート司教が、向かい側の椅子に腰を下ろした。
沈黙が流れる。
先ほどまで見てきた教会の様子を思い返すと、私は一体何から話をすれば良いかわからなかった。
リュートもしばらくの間黙っていたが、やがて顔を上げ、口をひらいた。
「昨日、ヴァレリアン伯から相談を受けた」
「うん」
「お金が足りないって、司教サマが、何度も実家に頼んでくるって。一体何に使ってるのか、一度見てきてほしいって」
「ああ。やっぱり、それか」
アルノート司教は苦笑した。
「金を渡したばっかりなのに、また無心か、って言ってただろ」
「まぁ、そんな感じ」
「だろうな。俺だって、できれば頼みたくはないんだけど」
そこで一度、執務机へ目を向ける。
「ないものは、ないんだよ。本当に」
アルノート司教の口調は、決して言い訳をするようなものではなかった。
お金がない。
そのことを淡々と、事実としてあたりまえに語っている。
私は、黙ってアルノート司教の話を聞くことしかできなかった。
今、口をひらけば、この行き場のない自分の気持ちを、また、感情のままにアルノート司教にぶつけてしまいそうだった。
先ほど見た薄い粥と、鍋を気にしている子供たちの姿がまだ頭から離れない。
「伯爵も、それなりに寄付はしてるって言ってたけど」
「してるよ。親父が出してくれなかったら、もっとひどいことになってる」
「他の貴族からの寄付は?」
「ほとんどないよ」
「王都なのに?」
「王都だから、かな」
アルノート司教は一息つくと、卓の上で手を組んだ。
「昔は、王都にも幾つか教会があったんだよ。それぞれ、縁のある貴族の家から寄付を受けてたんだ」
「でも、今、王都の教会はここしかない?」
「そう。だけど、他の教会がなくなったからといって、そこへ出していた寄付が、ここに来るわけじゃない」
「寄付する先がなくなったら、そのまま?」
「そう、そのまま」
アルノート司教は組んだ手をほどくと、やれやれとお手上げの仕草で肩をすくめた。
「自分の家にゆかりのある王都の教会へ、寄付することが習慣だったんだろうね。教会がなくなるときに、その習慣も義務も消えたと考えた家が多かったんだろう」
「教会への寄付は貴族の務めだって、伯爵は言ってたけど」
「自領にある教会にはどの家も寄付をしてるだろうね。でも、王都の教会に積極的に寄付をする理由のある家は少ないんじゃないかな」
その返事に、リュートは口を閉じた。
「たまに、思い出したように寄付をくださる方もいるよ。ありがたいけれど、来月も同じようにもらえるとは限らない。毎日の食費を、それに頼るわけにはいかないだろ」
アルノート司教の言う通りだ。
あれだけの人数を養うための食事を、貴族の気まぐれな寄付頼みにすることはできない。
であれば、信徒からの寄付はどうだろうか。
王都はトーアよりはるかに人が多い。少ないとはいえ信徒もいるはずだ。
「礼拝には、街の方がいらっしゃるんですよね?」
「少ないけれど、来てくれるよ」
「その方たちからの寄進は……」
「王都で神に祈る人たちはね、自分たちの暮らしで精いっぱいの方が多い。そんな人たちに無理をしてもらうわけにもいかないだろ」
「それで足りなくなったら実家?」
「そう」
「でも、それじゃいつまで経っても同じじゃん」
「……知ってるよ」
アルノート司教は笑った。
けれど、その笑いは決して楽しそうには見えない。
「俺だって毎回親父に頭下げるの嫌だし」
「じゃあ、なんで?」
「ここにいる人たちを、食わせないといけないから」
明快な答えだった。
「老人もいる。病人もいる。屋根に穴が開いたら直さないといけない。冬になったら薪もいる。誰かが死んだら埋葬もしなきゃならない」
指を折りながら数えていく。
「金が足りないからって、今日は飯なし、明日は薬なし、って訳にもいかないだろ?」
リュートはアルノート司教の話を黙って聞いている。
トーアでも、教会で面倒を見ている老人や子供はいる。
救護院の老人たち、孤児院の子供たち。
ロメロはもうトノヴァ商会に行く準備は終わっただろうか。
ミリアは相変わらずシスター・エメリアの後ろに隠れているのだろうか。
マーカスさんは不機嫌そうな顔をしながらも、リュートのかわりに子供たちに計算を教えているのだろうか。
トーアを離れて間もないのに、みんなの顔が懐かしく浮かんだ。
たしかに、トーアの教会も、リュートが来るまでは建物の修繕はままならなかったし、冬の薪も節約が必要だった。
けれど、同じように見えて、王都の教会は規模が違う。
同じ教会でも、抱えているものの大きさがまるで違うのだ。
「そもそも、なんでこんなに年寄りや子供が多いんだ?」
「王都だからさ」
リュートの疑問に、アルノート司教が即答した。
「人が多ければ、行き場のない人間も多くなる。田舎なら身内が引き取るような老人でも、王都じゃ身寄りのいない人なんてざらにいる。子供も同じだよ。そんな人たちが、王都に一つしかない教会に集まってくるんだ」
アルノート司教は、窓の外を見ながら独り言のようにつぶやいた。
「みんな捨てる場所があるから、捨てに来るんだよ」
父と初めて王都に来たとき、大きな建物や沢山の店を見て、なんて豊かな街なのだろうと思った。
道を走る馬車も、綺麗な服を着た人たちも、並んでいる品物も、何もかもがすばらしく見えた。
リュートと馬車から見た、あの活気と賑わいのあふれた王都と同じところにこんな場所があるなんて、私は今まで知らなかったのだ。
「もう少し、色々見せてもらってもいい?」
「好きなだけ」
「帳簿も?」
「読めるなら」
アルノート司教は立ち上がると、机の脇から帳簿を取り出した。
「こちらが寄進の記録で、こちらが支払いだよ。わからないところがあれば訊いて」
「ありがとうございます」
卓の上へ帳簿を広げる。
リュートも、私の手元を覗き込んだ。
寄進の記録には、ヴァレリアン家の名が繰り返し出てきた。
定期的なものの間に、追加で受け取ったお金が記されている。
収入については、それ以外の部分はほとんどが空欄だった。
支払いの方は、ずっと細かい。
食料、薪、傷の手当てに使う薬、ページをめくっても、また食料の支払いがある。
月ごとの収入をまとめ、支払いと比べてみる。
追加のお金が入った後、残りがどう減っているかを追っていく。
「……どう?」
リュートに訊かれ、私はもう一度数字を確かめた。
「足りません」
「どっか、減らせそうなトコは?」
「食費だけでも、これだけかかっています。けれど、あの人数ですから……」
いくら帳簿を確かめたところで、お金は増えない。
「伯爵様から追加でいただいた分も、日々の支払いでなくなっています」
「あぁ。次こそは間を空けようと思うんだけれど、その前に金がなくなるんだ」
アルノート司教は、私が広げた帳簿へ目を向けた。
「親父には、また出来の悪い息子だと思われているだろうなぁ」
私は何も言えなかった。
養う人の数と、入ってくるお金が、まるで見合っていない。
何度計算をやり直しても、それは変わらなかった。
「……私のお金を、使っていただけませんか」
気がついたときには、そう口走っていた。
リュートがこちらを見る。
「少しですが、貯めているものがあります。それを使っていただければ……」
「待て、トゥエ」
リュートの手が、私を制した。
「今、それを決めるな」
「でも、少しでも子供たちの食事になれば」
「あぁ、なるかもしれない。今日、明日くらいはな」
その言葉に、私は顔を上げた。
「だったら、少しでも」
「じゃあさ、その後はどうするんだ?」
リュートと正面から目が合った。
「金がなくなったら、また同じだろ。トゥエが貯金をはたいても、ここの足りない分はなくならねぇよ。焼け石に水だ」
わかっている。
今、私が調べた帳簿に、そう書いてあった。
でも、わかったからといって、何もせずにいられるわけではなかった。
「……それでも、今日、食べられるでしょう」
「あぁ」
「明日の分があれば、その子は明日も食べられるんですよ」
リュートはすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「何もしないで帰るんですか?」
口にしてから、リュートを責めるような言い方になってしまったと気づく。
「……少し、落ち着こう」
いつもより低いリュートの声に、少し頭が冷えた。
「トゥエ。今すぐに、自分だけでなんとかしようとするんじゃねぇ」
私は開いた帳簿をもう一度見た。
今日私がお金を出しても、明日にはまた足りなくなる。
明日の分は出せるかもしれない。
それじゃ明後日の分は? またその次の日の分はどうすればいいのだろう?
「トゥエさん、だっけ」
アルノート司教が、静かに声をかけてくれた。
「ありがとう。気持ちは嬉しいけどさ、無理しないで」
「無理というわけでは……」
「今は、そう思うかもしれない」
アルノート司教は私の言葉を遮ることも、強く言い聞かせるようなこともしない。
「けど、君の暮らしに必要なお金まで、ここで使うわけにはいかないよ」
「でも……」
声が小さくなった。
何かがしたいという気持ちばかりが先走って、本当は何をすれば良いのかが自分でもわからない。
「リュート」
アルノート司教が訊ねた。
「親父から、ここを立て直してくれって言われたんだろ?」
「まぁ」
「できそう?」
リュートはすぐには答えなかった。
窓の外を見ると、そこから孤児院の屋根が見えた。
「わかんねぇ」
「そっか」
アルノート司教はただ優しく笑っている。
「親父に言われて、今日ここへ来たからって、君たちがここの問題を引き受ける必要はないよ。大丈夫。何もできなくても、君たちが来る前と何も変わらないから。安心して」
慰めてくれているのだとわかった。
けれど、来る前と何も変わらない。その言葉が澱のように胸に残る。
微笑むアルノート司教の言葉の中に、ずっと前からそこにある諦念を感じた。
明日も、食料が減り、薪が減り、またお金が足りなくなる。
私たちが何もできなくても、アルノート司教はその中で、やっていかなければならない。
リュートも、何も言わなかった。
「教会の中を見せていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ。長い時間、付き合わせちゃったね」
帰りの挨拶をして、部屋を出ると、廊下で聖職者がアルノート司教を待っていた。
何かを話しかけられた司教は、すぐにそちらへ顔を向け、指示を出している。
私たちとの話が終わっても、彼の仕事は終わらない。
外へ出ると、王都の通りは変わらずに賑わいを見せていた。
荷車が通り、人が声を掛け合い、店先には様々な品物が並んでいる。
だが、今はその王都の華やかさに目を向けても、私の心の中には何も入ってこなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
次の更新は2026年10月19日(月)の予定です。
みなさまにいただいた応援や評価がいつも励みになっています。
最後までお付き合いいただければ嬉しく思います。




