聖者リュート_29
翌朝、私とリュートはヘラルド様が用意してくれた馬車で、王都の教会へ向かった。
王都の教会は、街の中心から東に少し離れた場所にあった。
荒れた生け垣に囲まれた王都の教会は、トーアとは比べものにならないほど大きな敷地で、中には何棟かの建物があった。
正面に見える礼拝堂には高い鐘楼があり、その正面には、意匠が施された立派な扉がある。
石造りの壁はところどころ黒ずんでいるけれど、大きく崩れているところもなく、屋根にも目立った破損はない。
「なんか、思ってたより普通だな」
教会を見上げながら、リュートが言う。
「普通というより、トーアの教会よりずっと立派ですよ」
「だよな。これでそんな金ないの?」
「建物だけではわかりませんよ」
「まぁ、それもそうか」
正面の扉を開けて、中へ入る。
礼拝堂の中も、外から見た印象と、それほど変わらなかった。
建物自体は古いけれど、丁寧に使われている。
そして、なによりも広い。
トーアの教会がいくつ入るだろう、と思うほど広い礼拝堂には、ずらりといくつもの長椅子が並んでいる。
中央にある祭壇も、広い礼拝堂に見合った立派なものだった。
だが、長椅子の間を縫って祭壇に近づいてみると、長く使われているからなのだろうか、あちこちに大きな傷が見えた。
それに、祭壇の上に置かれた立派な燭台も、蝋燭が立っていないものがある。
最初は建物の大きさと広さに圧倒されていたが、落ち着いてあたりをよく見れば、壁や礼拝堂内のあちこちに傷みがある。
長椅子もそうだ。
使えないというほどではないが、壊れたところだけを別の木で補修してあり、色も形も歪なものがいくつか混じっている。
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
私が声をかけると、祭壇の脇から若い聖職者が顔を出した。
着ている法衣は綺麗に洗われているけれど、こちらも袖口が随分と擦り切れている。
「はい、どちら様でしょうか?」
「オレはリュートって言います。アルノート司教に会いに来たんですけど」
「リュート……さん?」
若い聖職者が目を見開く。
「ああ! ヴァレリアン伯爵様からお話があった方ですね!」
「あ、多分、それです」
「少々お待ちください。司教様は今、救護院におりますので」
「救護院?」
「はい」
若い聖職者は少し迷ったあと、「よろしければ、こちらへ」と、私たちを案内してくれた。
礼拝堂の脇にある扉を抜け、そのまま建物の奥へ進む。
長い通路を通って、その先にある建物に入った途端、空気が変わった。
「……臭うな」
リュートが小さな声で耳打ちをした。
私も、彼と同じことを思っていた。
汗と薬草、汚れた衣服、それに……饐えた排泄物の臭いが複雑に混じっている。
そして、その建物……おそらく救護院とおぼしき建物の中には、何人もの人がいた。
……老人が多い。
壁にもたれて力なく座っている人。
床に敷かれた布の上で横になっている人。
杖をついて通路を歩いている人。
横になっている中には、ずっと咳き込んでいる人もいる。
その間を、聖職者たちが忙しそうに行き来していた。
一人が桶を運び、別の一人が老人の身体を拭いている。
奥から誰かを呼ぶ声がすると、今度はそちらへ走っていく。
「なぁ、これ、全部教会の人?」
リュートが訊ねた。
案内してくれている聖職者が振り返る。
「いえ。教会の者は私たちだけです」
「そうじゃなくて、この人たち」
「ああ……」
彼は少し困ったように笑った。
「身寄りのない方や、家族に面倒を見てもらえなくなった方です」
「何人くらいいるの?」
「今は……」
少し考える。
「正確な人数は司教様でなければわかりませんが、救護院だけで五十人以上は」
「五十?」
リュートが足を止めた。
トーアの教会にも身寄りのない老人が身を寄せており、今はマーカスさんの他に三人の老人がいるが、王都の救護院にはこれほどの人数が集まっているとは。
正直、驚きを隠せない。
「これ、何人で面倒見てるんだ?」
「私たち聖職者と、手伝いに来てくださる方が何人かおります」
「聖職者って何人?」
「司教様を入れて八人です」
「八人で?」
「孤児院もありますので、全員がこちらにいる訳ではありません」
リュートが言葉を失った。
私も何も言えなかった。
更にその先にある扉を開き、次の部屋へ入ると、そこには粗末な寝台がずらりと並んでいた。
寝台はすべて老人や病人で埋まっている。
それどころか、寝台に入りきれない人が床に敷いた布の上で横になっていた。
部屋の片隅には、小さな薪ストーブが一つだけ、ぽつんと置かれている。
春になったとはいえ、王都の朝晩はまだ冷える。
「火は……これだけですか?」
思わず声が出た。
「薪が足りませんので」
若い聖職者はそっと目を伏せると、申し訳なさそうに答えた。
その時。
「おい、そっちじゃない! こっちだ!」
部屋の奥から声がした。
見ると、一人の男性が老人の身体を抱き起こしている。
法衣を着ているのでおそらく聖職者なのだろう。
その男は肩で切りそろえられた赤茶色の髪を乱しながら、袖を肘まで捲り上げ、老人の着ている服を取り換えていた。
「司教様」
案内してくれた人がその男に声をかける。
男がこちらを見た。
「ん?」
「昨日お話のあった、リュート様がお見えです」
「リュート?」
その男はこちらを見たあと、首をかしげていたが、ふと思い出したように目を見開いた。
「ああ、親父が言ってた人か」
親父。
思わずリュートと顔を見合わせる。
どうやら、この人がアルノート司教らしい。
「悪いけど、ちょっと待ってて。今この爺さんを着替えさせるから」
「あ、はい」
「その辺に適当に座ってて」
あたりを見回したが、座れそうな場所などどこにもない。
「あの、手伝いましょうか?」
あまりの様子につい声をかけた。
「客に老人の着替えをさせたら、あとで親父に怒られる」
「じゃ、適当に待ってる」
苦笑しながらリュートが軽く手を振った。
結局、私たちはしばらく邪魔にならない部屋の片隅で待つことにした。
アルノート司教は老人の着替えを済ませると、今度は別の老人に呼ばれ、その次は薬を持ってきた聖職者に何かを訊かれ、それが終わったと思ったら孤児院の食事のことで、また別の人に呼ばれていた。
とても話ができる状態ではない。
「なんだか、とても忙しそうですね」
「そうだな」
「王都の司教様って、もっと偉そうな方だと思ってました」
「オレも」
しばらく待っていると、ようやくアルノート司教が戻ってきた。
「ごめん。待たせた」
「大丈夫です。こちらこそお忙しいところに申し訳ありません」
「ここじゃ落ち着かないから、部屋に行こうか」
そう言って歩き始めたところで、リュートがアルノート司教を呼び止めた。
「先に、孤児院も見たいんだけど、いい?」
アルノート司教が振り返る。
「別にいいけど」
少しだけ不思議そうな顔をする。
「見たいの?」
「見てみないとわかんないんで」
「そう」
アルノート司教はそれ以上何も訊ねず、私たちを孤児院に案内してくれた。
救護院からさらに奥へ進むと、中庭に出た。
中庭も、おそらく昔は美しい庭園だったと思わせる東屋や噴水があったが、今はすっかり雑草に埋もれ、孤児院までの通路だけが、なんとか道の体裁を保っている。
孤児院は礼拝堂から中庭を挟んだ裏側にあった。
その建物を見た瞬間に、私は言葉を失う。
孤児院の壁には大きなひびが入り、窓には板が打ち付けられている。
また、外から見てもわかるほどに、屋根の一部が沈んでいた。
「これ、危なくない?」
「危ないよ」
アルノート司教があっさり答える。
「直さないんですか?」
「金があればね」
軋む扉をあけて、孤児院の中に入る。
中には、何人もの子供たちがいた。
小さな子が多い。
三歳か四歳くらいの子から、十歳を少し過ぎたくらいの子まで。
みんな、服は継ぎはぎだらけで、靴を履いていない子もいた。
私たちが孤児院に入ると、子供たちが一斉にこっちを見た。
でも、誰も近寄ってこない。
私たちが戸惑っているうちに、子供たちは何事もなかったかのように、私たちへの興味を失っていった。
「何人いるんです?」
リュートがアルノート司教に訊ねる。
「今は六十人くらいかな」
「六十……」
「増えたり減ったりするけどね」
救護院と合わせれば百人を超える。
それを、たった八人の聖職者と何人かの手伝いで世話しているというのだろうか。
「食事は?」
「一日二回」
アルノート司教は淡々と答える。
「でも、冬は一回になる日もある」
私は思わず子供たちを見た。
子供たちの身体が、みんな小さい気がする。
元々小柄なのか、食べられないから小さいのか。けれど、子供たちは先ほどからずっと部屋の隅で炊かれている大きな鍋を、しきりに気にしている。
鍋をかき混ぜているのは、下位の聖職者らしい女性だ。
許しを得て鍋を覗くと、中身は随分と薄い粥のようなものだった。
「……女の子が少ないですね」
ふと、思ったことが口に出た。
別に男の子ばかりという訳ではない。小さな女の子は何人もいるけれど、少し大きな女の子はほとんどいない。
アルノート司教が私を見て、少しだけ言いにくそうにして答えた。
「ああ、女の子は七つくらいになると、大体いなくなるから」
「いなくなる?」
「花街に行くんだ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……花街?」
「うん」
「七歳で?」
「早い子はそれくらいかな」
頭の中が真っ白になる。
「どういうことですか?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
アルノート司教が不思議そうな顔でこちらを見る。
「どういうって?」
「教会から、花街に子供を渡しているんですか?」
「トゥエ」
リュートが私を止めようとしたが、その彼も決して顔は笑ってはいない。
「七歳ですよ?」
「知ってる」
「知ってるって……!」
「ちょ、ちょっと待って」
アルノート司教が両手を上げた。
「君たちは何か勘違いしてる」
「何をです?」
「君は教会が花街に子供を売り渡していると思っているのかい?」
「違うのですか?」
「違うよ」
「だったらどうして?!」
声を荒げて問い詰める私に、アルノート司教は何事もないように、寂しく微笑んで答えた。
「自分で行くんだよ」
言われた意味がわからなかった。
「自分で?」
「そう」
「七歳の子供が?」
「そうだよ」
アルノート司教は頭を掻いた。
「花街の方が、ここより暖かいんだ」
一体この人は何を言っているのだろう。
「冬でもずっと火を焚いてるし、飯もここよりまともなものが出る」
「だからって……」
「この子たちにとっては、それだけで十分なんだよ」
再び頭の中が真っ白になり、怒りとも憤りともつかない感情が身体の底から湧き起こる。
「向こうから声をかけられたり、先に行った子が迎えに来ることもある。でも、嫌がる子を俺たちが連れて行って、金と引き換えに渡してる訳じゃない」
「……じゃあ、止めればいいじゃないですか」
声が、震える。
「七歳の子供でしょう?! 行かせなければいいじゃないですか!」
「じゃあさ、ここでその子たちを食わせてやれる?」
アルノート司教の声は、あくまでも静かだった。
声を荒げた私を、責めるようなこともない。
現実を淡々と語る静かな声に、私はそれ以上言葉を重ねることができなかった。
ただ、持っていき場のない感情だけが、出口のない熱として心の中で渦を巻いている。
「冬になったら、この建物の中でも水が凍る。薪が足りない。毛布も足りない。飯だって毎日食わせられるかどうかわからない」
アルノート司教が、子供たちを見る。
「それでも、ここにいろって、言える?」
震える私の肩に、リュートの手が優しく触れた。
「……話、聞かせてもらっていいですか?」
「もちろん」
今度こそ、私たちはアルノート司教の部屋へ向かった。
リュートは、私の肩にずっと手を寄せてくれていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
次の更新は、明日2026年10月16日(金)を予定しています。
みなさまにいただいた応援や評価がいつも励みになっています。
最後までお付き合いいただければ嬉しく思います。




