ある日の情景
ディランは嬉々として青い瓶を手に取る。
「で、こいつを泡立てて頭に塗ればいいんだな」
「その前に、頭皮を濡らさないといけません。そちらにシャワーヘッドがあるので使用されてみては?」
「ん?」
ミシャは鏡の横壁に掛けれていたシャワーヘッドを指さした。
ディランはシャワーヘッドを手に取ってフリフリと動かす。
「シャワーか。ミズガルズの大衆浴場にもあるが、あっちじゃ壁に固定されてて、こんなふにゃふにゃの管は付いてなかったな。だけど、これは便利そうだ」
ディランはシャワーヘッドを下に向けて、ミシャや自分にお湯が当たらないようにし、シャワーと繋がっている蛇口の栓を回した。
赤と青の蛇口を細かく捻って、お湯の温度調節を行い確かめる。
「よし、これならいいだろ。じゃ、ミシャ。目を瞑ってろよ」
「え?」
「今から頭を洗うんだからな」
「それなら自分で」
「気にすんなって。一人でそんな長い髪を洗うのは大変だろう」
彼はミシャの美しい銀の髪へ、とても暖かな眼差しを向けた。
ミシャにとってみれば、どんなに長かろうと髪を洗うなど大した行為ではない。
しかし、ディランが見せた眼差しに、どういうわけか起動したばかりの感情が疼く。
心に、甘味から得た快感と近しい優しい味が広がる
それは甘味から受けた刺激が彼女の感情に残っていたためだろうか?
ディランの笑顔を見ていると、心の中の騒めきが収まらない
その騒めきたちは、素直に従うべきだと囁く。
「わかりました。それではお願いします」
「よしきた」
ディランはシャワーを使い、ミシャの髪が絡まないように優しく手櫛を通しながら、一本一本丁寧にお湯を含ませていく。
そして、シャンプーのノズルを二度三度押して、手の平に置き、しっかり泡立ててからミシャの頭を撫でるようになじませていった。
もくもくと泡立ったところで、彼は指の腹を使い、とても柔らかくきめ細やかに指を動かしていく。
「どうだ、痛くないか?」
「いえ、むしろ、心地良いです」
「だろうっ。洗髪にはちょっと自信があるんだよなぁ」
「そうなんですか?」
「ああ。昔な、ミシャの頭を洗ってたら、髪の毛をひっかけたり、頭皮を引っ掻いたりして泣かせちまったことがあってな。それで、おふくろに洗い方を教えてもらったのさ」
「ミシャ?」
ミシャは自分の名前を呼ばれ、疑問の声を投げかけた。
それにディランは反応し、指先を止める。
「あ……実の妹のことだ。お前の名前は妹からとったんだ」
「そうですか。しかし、よろしいので?」
「別にいいさ。もう、妹のミシャはいないし」
「お亡くなりに?」
「ああ、八年前にな。妹も親父もおふくろも。村にいたみんなもな……」
「それは……不躾なことをお訪ねして、申し訳ありません」
「いやいや、俺がぽろっと出しちまったことだしな。こうやって、ミシャの頭を洗ってたら、つい、妹のミシャのことを思い出しちまった。貧しい村で、洗髪なんてそう滅多にできなかったから余計にな」
ディランは瞳に遠い思い出を浮かべる。
とても貧しい村で、風呂なんてものは滅多に入れなかった。
いつもは濡れた布で身体を拭く程度。
しかし、たまの贅沢として、お湯を使い、さらには石鹸を使い体を洗えることがあった。
妹のミシャは泡立つ石鹸が大好きで、身体や頭を洗うことが大好きな少女だった。
楽しかった頃の思い出はディランに微笑みを産む。
風呂椅子に座るミシャは、曇りかかったガラス越しにディランの暖かな笑みを無表情ままで見つめている。
「妹のミシャさんは、私に似ているのですか?」
「え? あはは、いや、全然だ。どうも、俺は自分と年の離れた子どもに妹を重ねる癖があってな。おそらく、心の傷ってやつなんだろうな。それなり、克服はしてるつもりでいるんだがなぁ」
「お兄ちゃんの感情は、私には理解が及びません。ですが、何か辛いことがあれば、いつでも相談に乗ることはできます」
ミシャは表情を変えることなく、そっと右手を胸に置いた。
それに対し、ディランは照れくさそうに頬を掻く。
彼にとってミシャが何者であろうが、年下の女の子。
そんな少女からこのような心配をされては、彼の立つ瀬がない。
だが同時に、感情を持たぬはずの少女から優しさという暖かさを感じていた。
彼はその優しさに笑顔で応える。
「ふふふ、それは頼もしいなぁ。そうだな、困った時は相談するよ。それじゃ、お湯を流すから、目を瞑ってろ」
「了解です、お兄ちゃん」
シャワーを使い、丁寧にシャンプーを落としていく。
その後は、ミシャに手ほどきを受けて、コンディショナーの使い方を教えてもらう。
それが終えると、ミシャは椅子から立ち、ディランに座るよう促す。
「次はお兄ちゃんの番です」
「え? いや、自分でできるし」
「駄目ですか?」
ミシャは小さく首を傾けて、ディランを見つめる。
その表情は相変わらずの淡白顔。
だが、ディランの目には、ミシャの瞳が悲し気に揺らめいているように見えた。
だから、彼は……。
「わかった。お願いするよ」
ミシャと入れ替わり、ディランがどしりと風呂椅子に座る。
彼の座り方を見て、ミシャは少しだけ含みを持たせるような声を出した。
「やはり、腰を痛めるというのは、私を気遣っての言葉だったのですね」
「え? いや、参ったなぁ~」
ディランは鏡越しに見えるミシャから視線を外しつつ、誤魔化すようにこめかみを掻いている。
そんなディランにミシャは感謝を思いを表した。
「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、心苦しくもありますので、あまり私にお気を使わないでください」
「それは……難しいな」
「どうしてですか? 私はお兄ちゃんの、」
「誰かを気遣うのは俺の趣味だからだ」
ミシャの言葉を覆い隠すように、ディランは言葉を被せた。
さらに言葉を続ける。
「ま、そんなわけで気にすんな」
彼は言葉の終わりと同時に、後頭部を数回叩き、頭を洗うよう催促した。
これ以上の問答を避けるために。
「了解です。お兄ちゃん」
彼の態度にミシャは返す言葉もなく、洗髪に意識を向けることにしたようだ。
彼女はディランと同じ手順で洗髪の準備を始めた。
そして、指先を髪の中へ沈めていくが……。
「こうでしょか? えい、えい」
「いたたたた、ミシャ?」
「すみません、力の加減が難しくて」
「そうか? 指の腹だけを使って、柔らかく包み込むようにだな」
「こうですか? えい、えい」
「いたたた、いや、だから、もっと優しく。ちょっと爪も立ってるし」
「すみません。思いのほか、難しくて」
「ははは、最初はそんなもんさ。ほれ、俺が練習台になってやるから」
「ありがとうございます。では、ふむふむ」
「おお、良くなった、良くなった。ここでしっかり洗い方を覚えておけば、自分の髪を洗う時に役立つからな」
「はい、努力します」
なんとかミシャはディランの洗髪を済ませる。
そこからコンディショナーを使い、彼の髪を保護して、次に体の汚れを落とす。
そして、互いに背中を流し合うが、そこでもミシャの力加減が怪しく、ディランの背中を痛めてしまった。
表情を曇らせるミシャに、ディランは笑顔で気にするなと返す。
そうして身体が綺麗になったところで、二人はお風呂へと向かった。




