「ぽて腹はおいしくありません。」
セージは道よりも、足元の草を見ながら進んでいた。
「ん……近いな」
そう言って少ししたあと、木々の間から水面が見えた。
リリアたちは、川沿いの開けた場所に出る。
浅い流れがあり、川原には荷物を置けそうな丸い石がいくつかあった。
セージはそのそばに荷を下ろす。
「私は集めた野草を、鍋で煮込んで待つとするよ。川にも魔物はいる。リリア、気をつけるんだぞ」
「はい」
リリアは黒い外套を脱ぎ、靴と靴下をそろえて岸に置いた。
キュロットの裾を軽く押さえ、レギンスを膝下までまくる。
背中の大剣も、草の上に下ろした。
腰には、短剣。
よし。問題ない。
セージは、草の上に横たわった大剣を見た。
川にも魔物はいる、と言ったばかりだったが。
「大剣は、いいのか?」
「水場では、こちらの方が動きやすいので」
リリアは腰の短剣を軽く叩いた。
「……な、なるほど」
セージはうなずいた。
草の上では、大剣だけが静かに留守番している。
曖昧な返事を背に、リリアは浅瀬へじゃばじゃば入っていく。
ネムはというと、川岸の側に座っている。
水には入らないつもりらしい。
リリアは水の中をゆったり泳ぐ魚に目をつけた。
指を広げ、勢いよく両手を水へ突っ込む。
ばしゃん。
水が跳ねた。
魚は、リリアの手の横をすいっと抜けていく。
「……」
リリアは水の中で、そっと両手を開いた。
何もない。
指の間から、水だけがぽたぽた落ちた。
「ぐぬぬ……魚さんは手強い」
それからも、リリアは魚を見つけては手を伸ばした。
「……いま」
ばしゃっ。
「……今度こそ」
ばしゃばしゃっ。
浅瀬には、リリアの立てる水音ばかりが響いていた。
跳ねた水が頬にかかり、黒い髪の先からぽたりと雫が落ちる。
魚はそのたびに、ひらりと逃げていく。
「もうっ、全然捕れない!」
濡れた手を振り、ふと岸の方を振り返った。
ネムは、じっとしていた。
いや、じっとしてはいる。
でも、視線は水面から離れていなかった。
川岸の石の上で、片方の前足を少しだけ上げている。
爪の先が、夕暮れの光を受けてきらりと光った。
水の中を、小さな影が横切る。
ぱしん。
リリアが水の跳ねる音を聞いた時には、ネムの左側には、すでに小さな魚が一匹転がっていた。
「え? えーーっ!? ネム、すごいね……!」
ネムは濡れた前足を、ぶるぶるっと振った。
あまりうれしそうな顔はしていなかった。
リリアは魚とネムを見比べる。
魚は追いかけると逃げる。
当然だ。
魚だから。
「……つまり、待てばいい」
リリアは静かにうなずき、もう一度浅瀬に向き直った。
指先を少し開いて、水面の上で止める。
すぐには動かない。
水の流れを見る。
魚の影を見る。
動きたい気持ちを、ぐっと押さえた。
後ろでは、ネムが川岸からリリアの後ろ姿を見ている。
もう濡れるのは嫌なのか、前足を胸の下にしまっていた。
ネムは動かない。
座ったまま、片耳だけが小さく跳ねた。
リリアは唇をきゅっと結んだ。
肩の動きが止まる。
水面が、ほんの少しだけ揺れた。
「……きた」
リリアの手が、水へ入る。
ぱしゃっ。
さっきまでより、水の跳ねる音は小さかった。
そして今度は、両手の中で小さな魚が跳ねていた。
「ネムー! 捕ったよー!」
川の浅瀬から、リリアの嬉しそうな声が響く。
リリアは川岸へ近づくと、ネムの隣に魚を置いた。
「次も捕るから、見ててね」
そう言って、また浅瀬へ戻っていく。
ネムは、隣でぴちぴち跳ねる魚を横目で見た。
その時。
川岸の近くの岩陰から、ぬるりと小さな影が出てきた。
ぽてっとした体。
丸い顔。
短い足。
その小さな魔物は、一度ネムを見る。
次に、魚を見る。
少しだけ足を止める。
けれど、魚からは目を離さなかった。
のそのそ近づく。
ネムは動かない。
ただ、青い目だけが、その魔物を追っている。
ぱく。
小さな魔物は、リリアの魚をくわえた。
短い足が、石の上をぺたぺたと進む。
口の端からはみ出た魚の尻尾が、歩くたびに小さく揺れる。
そして、何事もなかったように水際の岩陰へと戻っていった。
少しして、リリアが戻ってくる。
今度は、さっきより少し大きな魚を両手で抱えていた。
「あれ?」
獲った魚を置きに来ると、ネムの隣に置いていた魚がなくなっていた。
「ネム〜。まだ食べたらダメだよ」
リリアはネムが食べたと思った。
ネムは何も言わず立ち上がり、とことこ岩陰の方へ歩いていく。
そして、そこをじっと覗き込んだ。
「……?」
リリアも不思議そうに、ネムの見ている場所へ視線を向ける。
岩陰の水の中から、丸い目がこちらを見ていた。
目が合う。
その小さな魔物は、少し焦ったように体を動かした。
深い方へ逃げようとしているらしい。
水の中で短い足がぺたぺた動く。
リリアはしゃがみ込み、両手でそっと持ち上げた。
「なにこのかわいい生き物……魚?」
魚を横取りした小さな魔物は、リリアの両手に持ち上げられたまま、ぽてっと腹を垂らしていた。
口の端からは、さっきの魚の尻尾が少しはみ出ている。
「……魚さん、いた」
リリアは小さくつぶやいた。
ネムは、その尻尾をじっと見ていた。
* * *
夕日が沈みかけ、川辺の明かりが少しずつ薄くなってきた頃。
リリアたちは、セージのいる場所へ戻った。
丸石のそばでは、小さな鍋がぐつぐつと音を立てている。
セージは湯気の香りを楽しむように、目を細めていた。
「おっ、無事に帰ったか……ん?」
「セージさん、魚じゃない変な生き物を捕まえました」
リリアは両手で、ぽてっとした小さな魔物を抱えていた。
ぬめりのありそうな体が、夕暮れの光でつやっとしている。
セージは鍋から顔を上げ、魔物をじっと観察した。
「待魚だね。待つ魚と書くけど、魚じゃない」
「魚じゃないんですか?」
「サンショウウオに近い。川辺でじっと待つ、小さな魔物だ」
セージはそう言って、マチウオの丸い顔を見た。
「流れてくる小魚や、岸に跳ねた魚を食べる。だから、普段はあまり動かない」
「おいしい?」
リリアが真面目に聞いた。
マチウオが、もぞもぞ動いた。
「このあたりでは、川守とも呼ばれている。川を荒らす魔物じゃないから、逃がしてあげるといい」
「川守……」
リリアはマチウオを見た。
ぽてっとしている。
魚を横取りした。
逃げるのは遅い。
でも、川守。
「これを逃がすと、収穫は少し大きい魚一匹になる……」
リリアはマチウオのぽて腹を、つんと指でつついた。
マチウオは、のんびり目を瞬かせる。
「……仕方ない。川守なら、川に返さないとね」
リリアは川岸まで歩き、マチウオをそっと水辺に下ろした。
マチウオはしばらく動かなかった。
それから、のそのそと水の中へ戻っていく。
動きはやっぱり遅かった。




