「ようやく、大剣の出番です。」
ワニがゆっくりと口を開くと、エルシアがそれに気づく。
「ひっ……!」
指から力が抜けて地図が落ちる。
その瞬間──
リリアが即座に背負っている大剣の柄を握り地面を蹴って、間に飛び込んだ。
革のカバーがついたままの大剣に、ワニが噛みつく。
「……間に合い、ました!」
噛みついたワニが頭を左右に激しく振ると、大剣のカバーがちぎられた。
……凄い力だ。
リリアは大剣の柄を両手で握り、切っ先を左斜め下の地面へ引きずるように構える。
「エルシアは下がって。ネムのことをお願いします!」
エルシアはリリアの足元にいるネムを急いで抱きかかえる。
「……リ、リリアは?」
「わたしは大丈夫。任せてください」
リリアの胸は、少し弾んでいた。
ようやく大剣の出番がきたからだ。
エルシアはネムを慌てて抱えたあと、後ろに下がった。
黒に近い緑の鱗、内側は紅い魔物。
「沼の捕食者カイマン……」
カバーを吐き捨てたワニが一歩踏み出し、再びゆっくりと口を開ける。
次の一撃がくる。
しかしリリアはこの時、違うことで少し焦っていた。
大剣で、鍛錬したことあったっけ?
刀身を前に立てられない。
切っ先が地面を擦っている。
でも、後ろにはエルシアたちがいる。
「……なるほど。仲間を背負って戦うのは、とても重いですね、ワニさん」
そう思うことにした。
リリアはワニの一撃が来る前に、先に走り出した。
あんな重い攻撃を受けていられない。
リリアはそう判断して勢いをつけると、そのまま大剣を顔めがけて右に振った。
大剣は黒緑の鱗に弾かれた。
それでも重い刀身が顎を押し、ワニの頭が横へ逸れる。
「……っ! 想像より、硬いですね」
そのあと分厚い尾が、リリアに向かって飛んできた。
リリアは大剣から手を離して、尾を跳んで避けた。
着地と同時に、泥へ落ちた柄を両手で掴む。腰をひねり、刀身を引きずり上げる勢いのまま、ワニの胴へ叩きつけた。
そのあとワニから距離を取る。
大剣から嫌な音がした。
柄を握る指先には、まだ鈍い痺れが残っている。
「あっ?! なんてことを……」
リリアは大剣を見て、表情が青ざめた。
ネムはエルシアの腕の中で身をよじった。
小さな前足を、リリアへ向かって伸ばしている。
ネムの瞳が、一瞬だけ淡く光った。
けれど、前で戦うリリアには何も起こらない。
光はすぐに揺らぎ、青い瞳の奥へ沈んだ。
ネムは離せと言わんばかりにエルシアの腕を前足で押した。
それでも離してもらえないと分かると、今度は袖へ歯を立てて引っ張る。
「ネムちゃん……ごめんね。今は、だめなの……」
エルシアは震える腕に力を込め、ネムを抱き直した。
前から飛んでくる砂利や泥を、エルシアは全て小盾で防いだ。
リリアが戦ってくれている間に、エルシアは考える。
「あ、あのワニは大きいから……」
大剣の攻撃は弾かれている。
リリアの表情も、先程までの余裕は消えていた。
エルシアは、さっき通り過ぎた横穴がある方向を見る。
「リリア!……さ、さっきの穴なら、ワニは入れないかも」
リリアは短くうなずく。
「エルシアは先に行ってください」
「でも、リリアが……」
「大丈夫。すぐに追いつきます」
「き、気をつけてね!」
エルシアは横穴に向かって走る。
できるだけリリアが入りやすくなるように、入り口の根を杖で押しのけた。
そのあとしゃがんで入ろうとするが、暗くて斜面に気づかず足を滑らせた。
「……え?! きゃっ……」
エルシアはネムを胸に抱き込み、そのまま滑り落ちていった。
リリアはエルシアと短いやり取りをしたあと、次の攻撃に備えた。
大剣を、震える両手で握り直す。
きっと武者震いだ、なぜか力が入らない。
「……さて。おそらく次で、お別れになりますね」
エルシアが先へ行ったのをちらりと確かめ、リリアは横穴の方へじりじりと下がっていった。
リリアは唇をきゅっと結び、わずかに眉を寄せた。
吊り気味の目が、迫る顎をまっすぐ捉えた。
開いた口の中へ大剣を振り上げると、ワニが刀身に噛みついた。
ワニは大剣を噛んだまま、頭を勢いよく跳ね上げた。
リリアの足が地面から離れた。
(……まずい、下に叩きつけられる)
リリアは左手一本で柄にぶら下がり、短剣を右手で即座に抜いた。
紅い下顎の裏めがけて突き立てると、ワニが頭を激しく振った。
リリアは柄から左手を離し、地面へ落ちた。
頬に血飛沫が散る。
着地の勢いで膝をついたが、リリアはすぐに立ち上がる。
そのまま、横穴へ向かって走った。
後ろでバキッと音がする。
リリアは振り返らず、横穴へ足から滑り込んだ。
横穴に入ったリリアは、斜面で勢いよく滑り続けた。
背中が湿った土へぶつかり、ようやく身体が止まる。
「い、いたた……」
リリアが滑り込んできた場所は、人が数人立てるほどの空洞になっていた。
天井から伸びた細い根の先には、水滴がついている。
リリアがお尻を押さえていると、ネムを抱いたエルシアが駆け寄ってきた。
エルシアの頭上に浮かぶ白い光が、辺りを淡く照らしている。
「リ、リリア!……大丈夫なの?!けが、してない?」
リリアは少し眉を下げた。
「はい、なんとか。でも、大剣はなくなってしまいましたが……」
エルシアが杖を置いて膝をつき、片手をリリアにかざした。
回復魔法で傷の痛みが和らいでいく。
「ありがとうございます。……ネム、おいで」
リリアはエルシアの腕の中にいるネムに声をかけたが、そっぽを向かれた。
リリアは首をかしげた。
「……?」
エルシアは困ったように、そのまま回復を続けた。
「治療は片手でもできるので……。
そ、それよりリリアってあんなに強いんだね。いつから旅に出たの?」
「うーん……エルシアと会う1週間前くらい?」
エルシアの肩が跳ねた。
「ええっ!?私と、あまり差がない……」
エルシアは自分が里を出てからの日数を数え始めたが、途中でやめた。
回復魔法で痛みも癒えたリリアは立ち上がる。
そのあと肩掛けポーチから塗り薬を取り出して、ちょんっと頬に塗っといた。
落ちてきた箇所を見上げても、ワニは追ってこないが、戻れそうにもなかった。
エルシアとリリアは並んで、先に細く続いている道を進むことにした。
「でも、あんなに強い攻撃を受けたのに怖くなかったの?」
「はい。最初の一撃で、大剣が壊されなかったので安心しました」
「安心するところ、そこなの……」
「壊せる人もいますから、ね?」
リリアはエルシアの腕の中にいるネムに、確認するように微笑んだ。
ネムは顔をそむけたまま、返事はしなかった。
けれど、視界の端にはリリアの姿が入っている。
頬に残った血飛沫。腕や脚の擦り傷。服についた泥。
(リリィ、けが)
(こわい)
(おかあさま、しんぱいする)
ネムは視線を落とした。
(ぼくは、まだ……)
耳を伏せ、小さく息を吐く。
「にゃぁ……」
「ネムちゃん?」
エルシアが覗き込むと、ネムは身体がびくっとした。
ネムの青い瞳が淡く光っている。
岩や壁の隙間からは細い水が流れている。
空気が少し冷たくなってきていた。
ネムは、いつもより静かに洞窟の奥を見つめていた。
エルシアが照らす光で、何もないはずの空間に淡い青色の粒が見えはじめる。
「……霊素が濃い。少しだけ、里の森に似てる」
隣を歩くリリアが首をかしげた。
「……れいそ?」
「霊素は……自然や精霊に近い、澄んだ性質の力のことなの」
「……なるほど」
リリアはとりあえず、うなずくことにした。
先輩だからだ。
道の端には、水路が流れていた。
淡い青色の粒が水面に映り、水の波紋に合わせて岩壁や天井をゆっくり揺れていた。
リリアとエルシアは思わず立ち止まる。
そのとき。
ぱちゃっと小さな音が、洞窟内で反響して聞こえた。
リリアが目を細めて、少し先を覗き込む。
「……見えにくいですね。でも、生き物が水場で出す音にも聞こえます」
魔物かもしれないし、動物かもしれない。
リリアとエルシアは顔を見合わせる。
二人は警戒しつつ進むと、さらに開けた場所に出た。
空洞の中央には透き通った泉がある。
ぱちゃ。
ぱちゃぱちゃ。
光が届かない向こう側から、水の音が繰り返し聞こえてきた。




