第5話:シャキシャキの残響と、神獣の残り物(ブレックファスト)
「……行ってくる。必ず、また来る!」
アイリスは、喫茶『止まり木』の扉を背に、深く一礼した。 彼女の腹の中には、先ほど食べたばかりのサラダ――あの「噛むたびに大地の恵みが弾ける」奇跡の野菜たちが収まっている。 胃の腑から湧き上がる熱い力が、血管の一本一本にまで活力を送り続けているのが分かった。
(……不思議だ。昨日はあれほど恐ろしかったこの森が、今は庭のように見える)
彼女は、店の周囲に張られた【絶対遮断結界】の境界線を越えた。 その瞬間、森の空気が一変する。肌を刺すような瘴気、遠くで響く魔獣の咆哮。そこは紛れもなく、人類未踏の死地『奈落の森』だ。
「グルルルゥ……!」
茂みから飛び出したのは、全身が鋼鉄の鱗で覆われた『アイアン・ボア』だった。 戦車のような突進力を持つBランク魔獣。本来なら、万全の装備をした騎士団の一個小隊で包囲してようやく追い払える相手だ。 ましてや今のアイリスは、鎧は砕け、剣は折れたままである。
だが。
「……遅い」
アイリスの目には、猛スピードで突っ込んでくる魔獣が、まるで泥沼の中でもがいているかのようにスローモーションに見えた。 今朝食べた『クリスタル・リーフ』の清涼な香りが脳裏をよぎる。 「シャクッ」というあの軽快な食感が蘇ると同時に、彼女の思考速度と動体視力は極限まで研ぎ澄まされていた。
「今の私には、止まって見えるぞ!」
アイリスは無造作に一歩踏み出した。 折れた剣の柄を握り、軽く振るう。 それだけで、彼女の身体から溢れ出した余剰魔力が剣圧となって放たれた。
ズバァーン!!
轟音と共に、アイアン・ボアは遥か彼方へ弾き飛ばされ、森の木々を十数本なぎ倒して星になった。
「……なっ!?」
アイリスは自分の手を見つめて絶句した。 (軽く払っただけだぞ!? なんだこの、体幹の安定感は……!? まるで大地の根を張ったような……!)
これが、タクミが何気なく振る舞った「朝採れ野菜」の真価。 素材本来の生命力がダイレクトに肉体に還元され、全ステータスが一時的に限界突破していたのだ。
「……マスター。貴公は、私に国を獲れとでも言うのか……?」
アイリスは武者震いした。 この力があれば、王都に迫る魔王軍など、朝飯前の散歩に過ぎない。 彼女は『止まり木』の方角にもう一度敬礼すると、人間離れした脚力で森を駆け抜けていった。
一方その頃。
「おや?」
カウンターでコーヒー豆を選別していたタクミは、窓の外で何かが吹っ飛んでいくのを目撃した。
「……今の、さっきのお客さんかな? すごい勢いで走っていったけど」
タクミは首を傾げた。 「まあ、朝ごはんをしっかり食べたから元気が出たんだろう。野菜は体にいいからな」
彼が独り言を呟いていると、窓の外に白い巨大な影が音もなく近づいてきた。 ガラス越しに、じっとこちらを見つめる金色の瞳。 それは、本来なら神話にしか登場しない災厄の神獣『フェンリル』だった。だが、今の彼は尻尾を振りすぎて残像が見えるほどの「おねだりモード」だ。
「おや、ポチ。おはよう。お前も腹が減ってるのか?」
「クゥ~ン!(神の御飯、残り物でもいいから恵んでぇぇぇ!)」
タクミは苦笑いしながら、調理で余った『クリスタル・リーフの芯』と、昨日のパンの耳を窓から放った。
「ほら、今日はヘルシーな朝食だぞ」
フェンリルはそれを空中で神々しくキャッチした。 「シャクッ!」 ただの野菜の芯だというのに、噛んだ瞬間に溢れ出す圧倒的な聖属性の魔力水。 パンの耳からは、最高級小麦の甘みが脳髄を揺さぶる。
「ワオォォォン!!(うめぇぇぇ! これぞ至高!!)」
涙を流して咀嚼する神獣を見て、タクミは満足げに頷いた。
「うん。やっぱり、美味しいものを食べるとみんな笑顔になるな。……さて、次は裏のダンジョンへキノコ狩りにでも行くか」
平和なスローライフは、今日も盛大な勘違いと共に続いていく。




