第4話:絶望の騎士と、泥濘の中に灯る香ばしい救い
王国騎士団長アイリスは、己の死を確信していた。
「……ここまで、か」
銀色の鎧は無残に砕け、鋭い爪痕からは鮮血が滴り落ちている。 境界線付近で暴走した『ミルキー・バッファロー』の群れを食い止めるため、彼女は自ら殿となり、禁忌の地『奈落の森』へと弾き飛ばされた。
周囲は、日光さえ遮る巨大な魔樹がひしめく迷宮。空気には肺を焼くような毒素が混じり、一歩進むごとに意識が削られていく。アイリスは震える手で腰のポーチを探ったが、そこにあるはずの「最高級ポーション」は、激戦の中で無残に砕け散っていた。
「はぁ……はぁ……誰か……ポーションを……っ」
騎士としての矜持も、もはや残っていない。 泥濘の中に顔が沈みそうになったその時、彼女の鼻腔を、あり得ない「救い」の気配が突いた。
血の臭いでも、森の腐臭でもない。 香ばしく、どこか懐かしく、凍えきった胃袋を強引に揺さぶるような――芳醇なアロマ。 それは、鉄板の上でジュウジュウと歌う音とともに立ち昇る、焼きたてのパンの香りだった。
(……幻覚か? いや、これは……焙煎の、香り……?)
吸い寄せられるように蔦を掻き分けた先。そこには、禍々しい魔境の景色とはあまりに不釣り合いな、温かな光を放つログハウスが佇んでいた。タクミが数年をかけて組み上げたその建物は、魔樹『ヒノキ・トレント』の無垢材が磨き上げられ、夜闇の中でも清潔な存在感を放っている。
アイリスは最後の一歩を振り絞り、木製のドアを叩いた。
「誰か……頼む……ポーションを……! どんな対価でも払う、ポーションをくれ……っ!」
悲鳴のような懇願。 バタン、とドアが開く。そこには、戦場の怒号とは無縁の、妙に落ち着いた雰囲気を纏った男――タクミが立っていた。
「おや、ずいぶんと……お疲れのようですね」
「……ポーション……を……」
「あいにく、ウチにはそんな薬くさいものはありませんよ」
絶望がアイリスを襲う。だが、タクミはどこか楽しげに、彼女の鼻先に「それ」を近づけた。
「でも、焼き上がったばかりの『トースト』ならあります。死ぬ前に食べるには、最高の贅沢だと思いますよ」
タクミに抱え上げられた瞬間、アイリスの視界を支配したのは、黄金色に輝く厚切りのパンだった。
ナイフを入れるまでもなく、唇で触れた瞬間に溶け出すような柔らかさ。 口に入れた瞬間、体温で脂が溶け出し、甘美な余韻を残して喉の奥へと消えていく。
そんな予感をさせる暴力的なまでの香りに、彼女は完全に意識を手放した。 彼女が次に目覚めたとき、自分が求めたポーションがいかに安っぽく感じるほどの「奇跡」を、その口が咀嚼することになる。
それは、数分後の未来の話である。




