第3話:シャキシャキの聖域と、騎士団長の居残り
翌朝。アイリスは、自分が贅沢なベッド――錬金術で繊維の密度を極限まで高めた『クラウド・コットン』の寝具――で、泥のように眠っていたことに気づいた。
「……夢では、なかったのか」
傷は完全に癒え、体内の魔力はかつてないほどに澄み渡っている。 階下から漂ってくるのは、食欲をダイレクトに刺激する香ばしいベーコンの匂いと、どこか清涼な土の香り。 アイリスが恐る恐るカウンターへ向かうと、そこにはエプロン姿で鼻歌を歌うタクミがいた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」 「あ、ああ……。恩に着る、マスター。ところで、一つ聞きたいのだが……店の周りに転がっている『首のない巨大な蛇』は何だ?」
タクミは、手を止めずに事も無げに答えた。 「ああ、あれですか。今朝、裏の菜園でサラダ用のレタスを採ろうとしたら、地面から出てきて邪魔だったんですよ。だからちょっと……『除草』したんです」
アイリスは戦慄した。あれは、一国を滅ぼすとされる災厄の魔獣『ヨルムンガンド・ジュニア』ではなかったか。それを「雑草」扱いで除草する男が、今、ボウルの中で野菜を和えている。
「さて、できましたよ。今朝のサラダです」
差し出されたのは、宝石のように輝く緑と赤のコントラストが美しい一皿だった。
「これは……『太陽のトマト』と、『クリスタル・リーフ』の幼葉か?」 「いいえ、ただのトマトとレタスですよ。朝露を浴びているうちに採るのがコツなんです」
アイリスがフォークを伸ばし、葉を一口運ぶ。
「――っ!?」
「シャクッ」と軽快な音が脳内に響き渡る。 それは、朝露を弾くような瑞々しさ。噛むたびに、大地の恵みが口いっぱいに広がっていく。 砂糖とは違う、野菜本来の奥ゆかしい甘み。 太陽の光をそのまま食べているような感覚に、アイリスの思考は停止した。
「……信じられん。ドレッシングすら必要ない。このトマト、噛むたびに旨味の爆弾が溢れ出してくる……。これまで私が食べていた野菜は、一体何だったのだ?」
アイリスは、無我夢中で皿を空にした。 胃袋の底から湧き上がる原始的な満足感。生きる活力が全身に染み渡り、騎士として張り詰めていた心が、柔らかく解けていく。
「マスター。私は決めたぞ」 「はい?」
タクミが首を傾げると、アイリスは銀髪を揺らし、真剣な眼差しで彼を見据えた。
「私は王国へ戻り、報告を済ませる。だが――すぐにここへ戻ってくる! この店には、騎士団長としての激務で擦り切れた私の魂を癒やす『何か』がある!」
「はぁ。まあ、いつでもどうぞ。コーヒーは逃げませんから」
タクミは困ったように笑い、オリハルコンのミルで豆を挽き始めた。 彼にとっては、ただ「美味しい野菜を食べてほしかった」だけ。 だが、その「シャキシャキ」という音一つが、一国の最強騎士を常連客へと変えてしまった瞬間だった。
アイリスが店を飛び出していくのを見送りながら、タクミはふと思い出した。
「あ、いけない。あの『大きなヘビ』、放っておくとハエが寄るな。後で錬金術で『堆肥』に変えて、来年のトマトの肥料にしよう」
奈落の森の生態系が、また一つ、タクミの「美味しいスローライフ」のために書き換えられようとしていた。




