第2話:死にかけの騎士と、至高のモーニング・ブレンド
喫茶『止まり木』が開店して数日。 タクミは、前世では決して味わえなかった「静寂すぎる朝」を満喫していた。
「……さて、今朝のトーストには、あの濃厚なバターを使おうか」
タクミは昨日、店から少し離れた草原まで「散歩」に出かけた時のことを思い出す。 そこで出会ったのは、二本の巨大な角から青白い放電を撒き散らし、周囲の地面を焦がしながら突き進む巨獣――『ミルキー・バッファロー』だった。
本来、それは王国騎士団が一個大隊で挑んでも死傷者が出るという、災厄級のSランク魔獣である。だが、タクミの目には「ちょっと肩が凝ってイライラしている野良牛」にしか見えていなかった。
『【鑑定】……ミルキー・バッファロー。乳腺が張っており、不機嫌。マッサージを推奨。乳の品質:特級』
「よしよし、辛そうだな。少し楽にしてあげるよ」
タクミは、放電を無視してバッファローの懐に潜り込むと、錬金術で強化された手で、その硬い皮膚の上からツボを的確に突いた。 バッファローは驚愕し、雷を放とうとしたが――タクミの指先から流れ込む圧倒的な魔力と「癒やし」の波動に、一瞬で骨抜きにされた。 「モ、モゥ~~……(天国……)」 最強の魔獣が、タクミの前で無防備に腹を見せ、恍惚の表情で横たわる。タクミはその隙に、手際よくバケツ一杯の乳を分けてもらったのだ。
「あの牛、人懐っこかったなぁ。また今度お礼にリンゴでも持っていこう」
そんな「命がけの搾乳」など微塵も思っていないタクミは、その乳を錬金術で高速攪拌し、一晩熟成させた。
「【加熱錬金】……表面はカリッと、中はしっとり、だな」
分子レベルで熱伝導を制御された石窯から、黄金色の食パンが焼き上がる。 そこへ、ミルキー・バッファローの乳から作った自家製バターを贅沢に乗せる。 口に入れた瞬間、体温で脂が溶け出し、甘美な余韻を残して喉の奥へと消えていく。生クリームのように濃厚でありながら、後味は驚くほどに清涼な、生命の輝きを凝縮したような黄金の油脂。
その時だった。
カラン……カラン……。
静寂な森に、場違いな金属音が響く。 店のドアに、血に染まった銀色の籠手がかけられた。
「はぁ……はぁ……だ、誰か……ポーション、を……」
現れたのは、ボロボロの鎧を纏った銀髪の騎士、アイリスだった。 彼女は数日前、まさにタクミが「散歩」していた草原の近くで、ミルキー・バッファローの同族に襲われ、命からがら逃げ延びてきたところだったのだ。
(……うわ、すごいブラックな現場帰りみたいな顔だ)
タクミは、前世の徹夜明けの自分を見るような目で彼女を眺めた。 そして、焼き上がったばかりの「バッファローバター・トースト」を、淹れたてのコーヒーと共にカウンターに置いた。
「いらっしゃい。……ずいぶんと、お疲れのようですね。まずはこれを。死ぬ前に食べるには、最高の味だと思いますよ」
アイリスは、漂ってくる暴力的なまでに食欲をそそる香りに、抗えなかった。 彼女は震える手でトーストを口に運ぶ。
「――っ!?」
ナイフを入れるまでもなく、唇で触れた瞬間に溶け出すような柔らかさ。 噛むたびに旨味の爆弾が口の中で弾けるような衝撃が彼女を襲う。 トーストの熱で溶けたバターが、魔力の奔流となって喉を通り抜けた瞬間、アイリスの身体が黄金の輝きに包まれた。
「な、なんだこれは……傷が……魔力が……! まさか、この芳醇な風味と魔力濃度……伝説のミルキー・バッファローの乳なのか!? 貴公、どうやってあの大悪魔から搾乳を……!?」
「え? ああ、近所の牛ですよ。すごく大人しくて、マッサージしてあげたら喜んで分けてくれました」
「大人しい……? あの、一撃で城壁を壊すバッファローが……?」
アイリスは椅子から転げ落ちんばかりに驚愕した。 だが、タクミはどこまでもマイペースに、自分用のコーヒーにそのミルクをたっぷりと注いでいた。
元社畜の錬金術師と、運命を変えられた騎士。 二人の奇妙な縁が、伝説のバターの香りと共に、ここから動き始める。




