第43話:嵐の前の静けさと、明日への仕込み
冬の午後のひととき。喫茶『止まり木』の厨房で食器を拭いていた俺、タクミは、ふと顔を上げて窓の外を見た。
「……随分と、空が暗くなってきたな。雲の動きもおかしいし、空気がひどく重たい」
窓ガラス越しに見える魔の森の空は、まるでインクをこぼしたかのように、不気味なほど深い紫色に染まり始めていた。ゴロゴロと、地の底から響くような重低音が微かに腹に伝わってくる。
前世の社畜時代。天気予報で「大型台風接近」のニュースを見ると、帰りの電車が止まる絶望感と共に、家に引きこもって毛布にくるまる時のあの独特の「隔離された安心感」を思い出していた。外がどれだけ荒れていようと、安全な家の中で温かいものを飲みながら過ごす時間は、ある種の極上の贅沢だった。
「これだけ空気が張り詰めているってことは、明日は大荒れの天気(猛吹雪か雷雨)になりそうだな。……よし、明日は一日中店に引きこもって、のんびりと楽しめる特製のスイーツを仕込んでおこう」
悪天候の日に、暖かい部屋で冷たくて濃厚な甘味をちびちびと味わう。それこそが冬の醍醐味だ。
俺は帆布エプロンの紐をきゅっと結び直し、究極の『プリン』を作るための素材を求めて、分厚いコートを羽織って裏庭へと向かった。
扉を開けた瞬間、ビリビリと肌を刺すような静電気のようなものが空気に満ちていた。
(……なんだか、ものすごい気圧の変化だな。息苦しいくらいだ)
風はまだ吹いていないのに、森の木々が目に見えない重圧に耐えかねるようにミシミシと軋み、葉を震わせている。
農園の隅にある小屋に向かうと、いつもは元気なポチとシロ(※神獣フェンリルと天翔ける銀狼)が、「クゥーン……」と情けない声を出しながら、身を寄せ合ってブルブルと震えていた。
「おや、雷の気配に怯えているのか? 大丈夫だ、うちの結界(※絶対遮断結界)は頑丈だからな」
俺は二匹の巨大なモフモフを優しく撫でてやり、ミルキー・バッファローのいる柵へと足を踏み入れた。バッファローたちも、空の異常な気配(※神々の降臨の予兆)に怯えて縮こまっていたため、俺は【無意識の威圧】を込めた手で、その分厚い首筋をゆっくりと解きほぐしていく。
「よしよし、怖くないぞ。……少しだけ、お前の温かい恵みを分けてくれ」
落ち着きを取り戻したバッファローから乳を搾る。ピチャッ、ピチャッという小気味よい音と共に、真冬の冷たい空気の中で、真っ白なミルクからホワァッと甘い香りの湯気が立ち昇った。
さらに地下の氷室から、以前シャルロットさんが持ち込んだ『神代の聖晶糖』の欠片と、濃厚極まりない『コカトリスの卵』を取り出し、俺は足早に厨房へと戻った。
さあ、明日への仕込み(調理)の開始だ。
プリンの命とも言えるのは、底に沈める『カラメルソース』の出来栄えである。
俺は純度100%の聖晶糖を砕き、厚手の銅鍋に入れ、少量の【精霊の涙(湧き水)】を加えて魔導コンロの火にかけた。火炎魔法の魔力回路を微細にコントロールし、絶妙な中火を保つ。
フツフツ、パチパチ……。
透明だった糖水が、次第に黄金色へ、そして深みのある琥珀色から、艶やかな焦げ茶色へと変化していく。その瞬間、砂糖が限界まで焦げた、ほろ苦くも暴力的なまでに甘く芳ばしい香りが、爆発的に厨房を満たした。
「ここだッ!」
絶妙なタイミングで火から下ろし、少量の湯を加えて色止めをする。ジュワァァッ!!という激しい音と共に立ち昇るカラメルの香りは、外の不穏な空気を完全に塗り潰すほどの圧倒的な存在感を持っていた。
続いてプリン液の作成だ。
ボウルに『コカトリスの卵』のオレンジ色の黄身だけを落とし、そこに搾りたての温かいバッファローミルクを少しずつ注ぎ込みながら、泡立てないように静かに、静かに木べらで混ぜ合わせていく。
ボウルの中が、まるで溶かした黄金のように輝き始める。そこに『バニラ・オーキッド』の花弁を指先で揉み込むと、うっとりするほど甘美な香りが何十倍にも膨れ上がった。
目の細かい絹の布で三度濾し、一切の不純物を取り除いた黄金の液体を、カラメルを敷いたガラスの器にそっと注ぎ込む。
あとは、かまどの上にセットした大型の蒸し器へ。俺は【生活魔法(極)】を展開し、蒸し器内の温度を「摂氏85度」から一ミリたりともブレないように固定した。
コトコト、コトコト……。
静かな産声のような湯の音が、ひっそりとした厨房に心地よく響き渡る。
数十分後。
完璧なぷるぷる具合に蒸し上がったプリンを天然氷室へと運び、一晩かけてじっくりと冷やし固める準備を整えた俺は、鍋の底にこびりついていたカラメルと余ったミルクを温め直し、『特製カラメル・ホットミルク』を作った。
ちょうどその時。
カランコロン! と、普段の穏やかな音とは違う、勢いよく扉が開く音がした。
「いやはや、酷い空模様になってきたな。マスター、少し避難させてくれ!」
冷たい風と共に転がり込んできたのは、分厚いコートに身を包んだマオさんと奥さんのミラさんだった。
「本当に! 急に空が真っ暗になって、雷が鳴りそうで……あ、すっごくいい匂いがしますわ!」
続いて、シャルロットさんとアイリスさんが息を切らして駆け込んでくる。さらに「エルフの森も風が騒がしくてな」「岩山もひどく冷え込んできたわい」と、セラフィナさんとバルガンさんまでが揃ってやってきた。
嵐の予感に急き立てられるように、いつもの顔ぶれが次々と『止まり木』へと逃げ込んできたのだ。
「皆さん、いらっしゃい。嵐の前に無事に着いて良かったですね。ちょうど、温かい飲み物ができたところです」
俺はホッと息をつき、アイアンウッドのマグカップに注いだ特製カラメル・ホットミルクをカウンターに並べた。
薪ストーブの火に当たりながら、皆が一斉にカップを手に取る。
ズズッ……。
「〜〜〜〜〜ッ!!」
ほろ苦いカラメルのコクと、ミルクの圧倒的な甘さが、冷え切った体を芯からじんわりと温め、完全に理性を溶かしていく。外の不穏な空気など忘れさせる、最高に平和なティータイムが始まった。
――その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!!!
窓の外で、空が文字通り「真っ二つ」に裂けるような凄まじい地響きと、真昼よりも眩しい純白の閃光が走った。
いよいよ天界の神々が、特異点を次元ごと消滅させるべく、絶対浄化の魔法陣を展開し始めたのだ。森の木々が吹き飛び、世界が終わるかのような圧倒的なエネルギーが店を包み込む。
しかし、タクミの張った『絶対遮断結界』のせいで、店内にはそよ風すら吹いておらず、ホットミルクの湯気一つ揺れない。
「な、なんだ……!? この凄まじい威圧感は!」
「この魔力密度……いや、魔力じゃない! これは『神気』ですわ! まさか、天界の神が直接降りてこようとしているの!?」
それまでだらしなく弛んでいたマオやシャルロットたちの顔つきが、一瞬にして「各界の覇者」のものへと変わる。
アイリスが反射的に剣の柄に手をかけ、バルガンもマッサージチェアから飛び起きて愛用の戦槌を握りしめた。
「どうやら、ただの客として来店したわけではなさそうだな……。この『聖域』を、店ごと吹き飛ばす気か……ッ」
セラフィナが窓の外を見上げ、ギリッと奥歯を噛み締める。
常連客たちの間に、かつてない極限の緊張感が走った。世界が終わるかもしれない――そんな終末の予兆。
「いやあ、それにしても凄い雷ですね」
ピリついた空気を完全に無視して、俺の呑気な声が厨房に響いた。
外のチカチカ光る神々の極大魔法を「ひどい荒天」だと完全に勘違いしたまま、俺は布巾でカウンターを拭いている。
「明日は一日、外に出られそうにないです。でも安心してください。氷室には、明日のお茶会のためにとびきり美味しい『黄金のプリン』を冷やしてありますから」
「……プリン、ですって?」
その言葉を聞いた瞬間、常連客全員の目の色が変わった。
「絶対に、明日もこの店に来なければならない理由ができましたわね」
「ああ。我らの安息を邪魔する要素(神々)は、今日のうちにすべて塵に変えておくとしよう」
嵐(神の介入)がすぐそこまで迫る中、喫茶『止まり木』の常連客たちは、明日食べる極上プリンへの期待と、安息の地を脅かす存在への静かな怒りを胸に、反撃の準備を整えていくのだった。




