■ 第42話:裏庭の豊穣と、天界の堪忍袋の緒が切れる日
遥か上空、天界の中心にある「理の間」。
そこはかつてないほどのパニックと絶望に包まれていた。
『馬鹿な……! 我らが遣わした最高位の天使からの通信が、「皿洗いが終わりました。まかない最高です」というふざけた念話を最後に、完全に途絶えただと!?』
黄金の鎧を纏った『武神』が机を叩き割り、怒髪天を衝く勢いで絶叫する。
『神獣に続き、天使までもが「バグ」に飲み込まれて堕落したというのか……!』
『……もはや、間接的な手段ではあの特異点を止めることはできん』
『秩序の神』が、冷たい汗を流しながら盤面を睨みつける。
『我ら最高位の神が直接降臨し、あの忌まわしき空間を、そこに集う者共ごと絶対浄化の光で消し去るしかあるまい!』
そんな天界の危機的状況など露知らず。
地上にある魔の森の喫茶『止まり木』では、のんびりとした冬の休日が始まっていた。
「……よく晴れた、いい冬の朝だ。風はないが、空気がピリッと引き締まって気持ちがいい」
俺、タクミは、窓辺から差し込む朝陽を浴びながら、熱い珈琲の入ったアイアンウッドのマグカップを傾けた。
ふと厨房を見ると、先日うちの店に転がり込んできた鳥人族の少年・テン(※天使だとは微塵も思っていない)が、鼻歌を歌いながらピカピカに床を磨いている。その横では、二匹のモフモフな大型犬、ポチとシロ(※神獣フェンリルと天翔ける銀狼)が、気持ちよさそうに丸くなって尻尾を振っていた。
みんな、文句一つ言わずにこの店によく馴染んでくれている。
「よし。今日はよく働いてくれるみんなの慰労も兼ねて、店の裏庭で盛大にバーベキュー(BBQ)でも開催しよう」
俺は帆布エプロンの上から分厚いコートを羽織り、最高の食材を求めて、まずは地下の天然氷室へと向かった。
店の奥にある重厚な木の扉を開け、石造りの階段を地下へと降りていく。
ひんやりとした冷気が足元から這い上がり、呼吸をするたびに肺が清められるような澄んだ空気に包まれる。ここは以前、裏山の洞窟から切り出してきた『千年氷』を敷き詰めて作った、俺特製の魔法冷蔵庫だ。
薄暗い室内にランタンの明かりを灯すと、霜を纏った棚の上に、美しく熟成された様々な食材が鎮座している。
「BBQの主役といえば、やはり極上の分厚い肉だ」
俺は棚の奥から、数週間前に森の奥で狩猟し、じっくりと低温熟成させておいた塊肉を取り出した。
【フォレスト・エンペラーボア(森の皇帝猪):森の覇者として君臨する超巨大な猪型魔獣。上質な『星屑のどんぐり』ばかりを食べて育つため、その肉質は驚くほど柔らかく、脂からは極上のナッツの甘い香りが漂う】
ズシッ……。
両腕にのしかかる、暴力的なまでの命の重み。表面には美しいルビー色の赤身と、まるで大理石のような純白の脂が完璧な模様を描き出している。ひんやりとした肉の表面からは、熟成されたアミノ酸の芳醇な香りと、ほんのりとした木の実の甘い匂いが漂い、思わずゴクリと喉が鳴った。
「肉はこれで完璧だ。次は、極上のキノコだな」
氷室から出た俺は、そのまま裏庭の『神話級農園』へと足を踏み入れた。
冷たい冬の空気の中、魔力回路によって温められた農園の土は、ふかふかと柔らかい。隅の囲いの中では、ミルキー・バッファローがのんびりと干し草を食んでいる。
俺は【絶対鑑定】を起動し、農園の奥に置かれた『ヒノキ・トレントの原木』に目を向けた。そこには、俺が錬金術で菌糸を植え付けた巨大なキノコが、傘を大きく広げていた。
【王様シイタケ:大地の魔力を極限まで吸い上げた神話級の菌類。アワビのような弾力と、肉をも凌ぐ強烈な旨味を誇る】
「……育ってるな。手のひらより大きいぞ」
俺は原木に手を添え、極太の茎をしっかりと握りしめた。ミシミシッ、という植物の繊維が断裂する音。腰を入れて力を込めると、バキッ! という小気味よい音と共に、ずっしりとした生命の塊が手の中に収まった。傘の裏側からは、森の奥深くを濃縮したような、むせ返るほど芳醇な土と胞子の香りが立ち昇ってくる。
「大豊作だ。さあ、火を熾そう」
裏庭にレンガで組んだ特製のBBQコンロに、『ヒノキ・トレントの薪』を組み上げて火を入れる。
パチパチッ! と甲高い音を立てて炎が上がり、ヒノキ特有の清潔で神聖な香りが冬の空へと立ち昇っていく。
炎が落ち着き、極上の熾火になったところで、分厚い鉄板を乗せる。
「まずは肉だ」
厚さ五センチ以上にも切り分けたエンペラーボアのロース肉に、『クリスタル・ソルト』と砕いた『ブラック・カカオ』をまぶし、熱々の鉄板へ。
ジュワァァァァァッ!!!!!
鉄板に肉が触れた瞬間、辺り一面に暴力的な爆音が響き渡った。溶け出した純白の脂が鉄板の上で弾け、どんぐり由来のナッツのような甘く香ばしい匂いが煙と共に大爆発を起こす。
傍らで、十文字に隠し包丁を入れた王様シイタケを、傘を下にしてじっくりと焼く。傘の内側に、キノコ自身の旨味エキスが黄金色のスープとなってじんわりと滲み出してきた。
「ハッハッハッ!」「ワゥン!」
風に乗って漂う圧倒的な匂いに、テンと二匹の犬たちが、涎を滝のように流しながらコンロの周りをウロウロと回り始めた。
「よし、焼き上がったぞ。冷めないうちに食べてくれ」
木のお皿に熱々の肉とキノコを取り分け、特製のタレをかけて差し出す。
テンがフォークで肉を突き刺し、大きく口を開けて頬張った。
『――――ッッ!?!?』
その瞬間、テンの背中の純白の翼が、バサァッ!と限界まで広がり、パラパラと光の羽を散らした。
ナイフを入れた瞬間、閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、マグマのように熱く濃厚な旨味が口の中で弾ける。猪肉特有の野性味溢れる力強い赤身を、どんぐり育ちの脂の極上の甘みが優しく包み込み、ブラック・カカオのほろ苦さが全体を完璧に引き締める。
続いて王様シイタケを口に運ぶと、アワビのようなプリプリの弾力と共に、黄金のスープが口内で決壊し、肉すらも霞むほどの強烈な大地の恵みが押し寄せてきた。
『う、美味いぃぃぃ……!! 天界の神酒も霞むほどの、圧倒的な命の味……! マスター、僕、ここで一生皿を洗いますぅぅ!』
テンは肉汁と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫び、ポチとシロも我を忘れて巨大な骨付き肉に齧り付いている。
俺は、自分用に焼いた肉を頬張りながら、モフモフたちと少年の幸せそうな顔を見て、冬の青空を見上げてほっと息をついた。
(ああ、外で食べるご飯は、どうしてこんなにも美味しいんだろうな)
――しかし、その冬の青空の彼方。
BBQから立ち昇る「世界を堕落させる至高の匂い」と、完全にバグに染まりきった天使の歓喜の声を感知し、天界の神々の堪忍袋の緒がついに、ブチィッ!! と音を立ててちぎれ飛んだ。
『許せん……! 神の威信をここまでコケにするとは……ッ!!』
『いざ! 我ら神々が直接降臨し、あのふざけた肉焼きパーティーごと、特異点に「絶対浄化の神雷」を落としてくれるわァァァァッ!!』
のほほんとしたBBQの熱気と多幸感に包まれる喫茶『止まり木』。
その頭上には、いよいよ世界を終わらせるレベルの「神の直接介入」という未曾有の危機が、音もなく忍び寄っていた。




