第40話:天界の番犬(神獣)と、絶品ジビエの勘違い
吐く息が、ふわりと白く濁る季節になってきた。
秋も終わりを告げ、魔の森には冬の足音が確実に近づいている。喫茶『止まり木』の厨房に立つ俺、タクミは、窓ガラスにうっすらと降りた霜を指先でなぞりながら、小さく身震いをした。
「……冷えるな。こういう日の朝は、体の芯から温まるような、濃厚で滋味深いスープが飲みたくなる」
「ワゥンッ!」
俺の足元で、同意するように元気な鳴き声を上げたのは、愛犬の『ポチ』だ。
魔の森で拾って以来、ずっとこの店で一緒に暮らしている家族である。馬ほどの大きさがある巨大な狼だが、白銀に輝く極上のモフモフな毛並みと、俺にだけ見せる人懐っこい性格がたまらなく可愛い。(※本人はただの大型犬だと思っているが、ポチの正体は災害級の神獣フェンリルである)
「ポチも腹ペコか。よし、最高の出汁を取るための、新鮮な獲物を探しに行こうか。お前も手伝ってくれ」
俺は厚手の帆布エプロンの上にウールの分厚いコートを羽織り、ポチの首周りの豊かな毛をワシャワシャと撫でた。ポチは嬉しそうに尻尾を振り、ブルルッと身震いをしてから、俺の先を歩いて勝手口の扉を押し開けた。
外に出ると、森は完全な静寂に包まれていた。
ザクッ、シャクッ……。
霜柱が立ち、真っ白に薄化粧をした落ち葉を踏みしめるたび、小気味よい音が響き渡る。ツンと冷たい土の匂いと、針葉樹の青々とした香りが鼻腔をくすぐる。
「さて、何かいい獲物はいるかな……」
俺が【絶対鑑定】を薄く展開しようとした矢先、ポチがふんふんと鼻を鳴らし、ある茂みに向かってピタリと足を止めた。優秀な猟犬のポーズだ。
視線の先、霜が降りた茂みの奥に、透き通るような美しい羽根を持つ丸々と太った鳥がいた。
【クリスタル・フェザント(水晶雷鳥):神話級の魔禽。極寒の時期にのみ現れ、その肉には最上級の脂と、あらゆる疲労を吹き飛ばす神聖な旨味が凝縮されている】
「……でかしたぞ、ポチ。冬を越すために、たっぷりと上質な脂を蓄えているな」
俺は息を殺し、腰のミスリルの小刀を抜いた。切っ先に【風魔法】を超圧縮し、音もなく真空の刃を放つ。
ヒュッ……という微かな風切りの直後、水晶雷鳥は痛みを感じる間もなく、コトリと地面に倒れ伏した。ポチがタタタッと駆け寄り、その重みのある体を誇らしげにくわえて持ってくる。
「ありがとう。お前の命、残さず美味しくいただくよ」
最高のジビエを手に入れ、俺とポチはホクホク顔で店への帰路についた。
厨房に戻ると、冷え切った体を温めるために、まずは魔導コンロと薪ストーブの両方に火を入れた。ヒノキ・トレントの薪がパチパチと爆ぜ、清潔で温かな空気が部屋を満たしていく。ポチはストーブの特等席に陣取り、気持ちよさそうに丸くなっている。
さあ、調理開始だ。
まずは水晶雷鳥の美しい羽根を丁寧にむしり取り、【水魔法】で血合いを完全に洗い流す。次に、ミスリルの包丁を使って、見事な手付きで肉と骨を解体していく。
「この骨が、最高の出汁になるんだ」
深型の銅鍋に、【精霊の涙(湧き水)】と雷鳥のガラ、そして臭み消しの野生のハーブを数種類投げ込み、弱火でじっくりと煮込んでいく。
コトコト、コトコト……。
一時間もすると、透明だった水が、黄金色に輝く濃厚な白湯スープへと変化した。雷鳥の骨から溶け出した極上の脂が表面でキラキラと輝き、暴力的なまでに食欲をそそる濃厚な出汁の香りが、換気扇を通って店の外へとモクモクと排出されていく。
『――見つけたぞ! ここがバグの元凶……! いざ、神の裁きを……ッ!』
ちょうどその頃。遥か上空の天界から放たれた刺客である神獣『天翔ける銀狼』が、店の裏手に降り立っていた。
絶対的な殺意と浄化の光を纏い、口に破滅の炎をチャージしようとした、その瞬間。
換気扇から、黄金のスープの圧倒的な香りが、銀狼の鼻面を直撃した。
『……クンクン。……な、なんだ、この匂いは!?』
獣の嗅覚が、その香りの奥にある「生命の根源を揺さぶる旨味」を完全に捉えてしまった。張り詰めていた神気のオーラが、シュルシュルと音を立てて消え失せていく。
『……あぁ……ダメだ、涎が……止まらん……。神の使命? 世界の浄化? ……いや、そんなことより、腹が減った……』
恐るべき銀狼は、パタンとテラスの板張りにへたり込み、「クゥーン……」と情けない声を漏らして換気扇を見上げた。
店の中では、俺が切り分けた雷鳥のモモ肉を、熱した鉄フライパンで香ばしく焼き上げていた。
ジュワァァァァッ!!
皮目から滲み出た上質な脂が弾け、肉がキツネ色に焦げる芳ばしい匂いがさらに広がる。そこへ先ほどの黄金スープを注ぎ込み、コトコトと煮込んでいく。
「よし、完成だ。『水晶雷鳥の黄金シチュー』」
とろみのある熱々のシチューを深めの木皿に盛り付ける。
味見として一口食べると、肉は舌の上でホロリとほどけ、閉じ込められていた肉汁と濃厚なスープの旨味が、口の中いっぱいに大爆発を起こした。
「……はぁぁ、生き返る。この深いコクと、体の芯からぽかぽか温まる感じ、たまらないな」
「クゥーン……」
至福の溜息をついた俺は、外からの微かな鳴き声に気づいて窓の外を見て、首を傾げた。
テラス席のガラス越しに、こちらをジッと見つめる「巨大な銀色の犬」がいたのだ。窓ガラスに鼻を押し付け、ダラダラと涎を垂らしながら、悲しそうな目でシチューを見つめている。
「おや、はぐれ犬かな? ポチ、お前の友達か?」
俺が尋ねると、ストーブの前で丸くなっていたポチがのっそりと立ち上がり、窓の外の銀狼に向かって「グルル……(我のシマで何をしている、新入り)」と、先輩風を吹かせるような低い声を漏らした。
外の銀狼は、神獣フェンリルであるポチの威圧感にヒィッと尻尾を巻き、さらに小さくうずくまっている。
「こらポチ、いじめちゃダメだぞ。迷子になってお腹を空かせているんだろう」
俺はまな板の上に残っていた「雷鳥の端肉」を集めた。それを余った黄金スープでサッと煮込み、少し冷ましてから大きな木のボウルに入れた。もちろん、ポチの分も大盛りで用意する。
勝手口を開け、冷たい風に吹かれながら震えている銀色の犬(神獣)の前に、そのボウルをコトンと置く。
「ほら、うちの残飯で悪いけど、遠慮せずにお食べ。温まるよ」
『……ふん。我は神獣。下界の人間が食い散らかした残飯など、誰が食うものか……』
銀狼は最初はプイッと顔を背けたものの、隣でポチが「バクバクッ! ハグッ!」と凄まじい勢いで美味しそうにシチューを平らげているのを見て、たまらずペロリと一口、その端肉を口に含んだ。
『――――――ッッッ!!!!!』
銀狼の脳内に、雷が落ちた。
弾力のある肉を噛み締めた瞬間、溢れ出す神聖な旨味の奔流。濃厚なソースが肉の繊維一本一本に絡みつき、噛むたびに旨味の爆弾が口の中で弾ける。冷え切った獣の体に、黄金のスープが信じられないほどの優しさと温もりを持って染み渡っていく。
『う、美味い……! 美味すぎる……!! 天界の供物など、これに比べたらただの泥水ではないか!!』
ガツガツ、バクバクッ!!
銀狼は我を忘れ、ボウルに顔を突っ込んで一瞬にしてスープを一滴残らず舐め尽くした。
そして、満足げに口の周りを舐めると、俺の足元にゴロンと仰向けに転がり、モフモフの腹を見せて「ハッハッ」と嬉しそうに尻尾を千切れんばかりに振り始めたのだ。
「ははっ、いい食べっぷりだな。よっぽどお腹が空いてたんだな。今日からうちの子になるか? そうだな、名前は……『シロ』にしよう」
『ワンッ!!(一生ついていきます、ご主人様!!)』
シロが嬉しそうに吠えると、横から先輩犬のポチが「ワフッ(俺の言うことをよく聞くんだぞ)」とポンと前足でシロの頭を叩き、シロも「クゥン(はい、兄貴!)」と恭しく頭を垂れた。
かくして、天界から放たれた恐るべき神の刃は、一杯の温かい端肉シチューによって完全に牙を抜かれ、魔の森のカフェの愛嬌たっぷりの後輩犬『シロ』へと転職を果たした。
上空で盤面を見ていた武神が「我の神獣が、なぜ下界の犬畜生『ポチ』の舎弟になりさがっているのだ!?」と絶望の声を上げていることなど知る由もない。
俺は二匹に増えたモフモフの家族を両手でワシャワシャと撫で回しながら、美味しいシチューの余韻と共に、今日も穏やかなスローライフの喜びを噛み締めるのだった。




